セレニティカウンセリングルーム

月別: 2007年8月の記事一覧

「ごんぎつね」の表現の違い

日曜日は手塩研でした。小学校の先生の研修会です(詳しくはHPを)。

研修会と言ってもほとんど個別指導に近い少人数で、和気藹々と中身は濃く、楽しんで私も参加させてもらっています。

今回もいろいろ学ぶことが多かった中で、一番印象が強かったのは4年生の教科書に載っている新美南吉作の「ごんぎつね」のことです。

実は、南吉が書いた原文とは異なる鈴木三重吉の手が入ったものが、長年教科書に採用されてきたもののようです。

鈴木三重吉と言えば、日本で最初の児童文芸誌「赤い鳥」の主宰者です。当時新美南吉は18歳の新人ですから、手を入れられても異を唱えることはできなかったでしょうね。

私は別に南吉ファンでもなんでもありません。でも、今回原文と教科書の文と両方を比べてみると、新美南吉が生きていたら、不本意なんじゃないかなあと同情したくなりました。

私自身が「ごんぎつね」に接するたびに感じていた違和感があながちピントはずれではなかったみたいです。

例えば、ごんを撃ってしまった兵十が「ごん おまえだったのか?」と問う最後の場面での、ごんの心情描写の違い。教科書ではごんは「うなずきました」となっていますが、原文は「うれしくおもいました」です(記憶に頼って書いているので、言葉は正確ではありませんが)。

細かい言葉の修正で全体の印象が随分違ってくるし、読後の感想も変わってきます。

機会があったらもっと調べてみたいと思いました。

こんな資料もありました。
引用です。
—————————
「ごんぎつね」のようにすべての教科書に掲載されている作品が、学習者に与える影響は、きわめて大きい。というのは、義務教育を受けようとする限り、どの子どもも必ずこの教材をくぐることになるからである。大げさにいうなら、日本人としてのアイデンティティの形成に関わる問題でもある。これは、検討に値する問題だろう。

(『「ごんぎつね」をめぐる謎 ―子ども・文学・教科書―』府川源一郎<はじめに>より)

心のノート

「心のノート」は2002年に文部科学省が全国の小中学生に配りました。予算は7億円以上もかかったのですね。

これは一年間の教育予算の80パーセント以上だそうです。
すごい金額ですねえ。もっと他に効果的な使い道はなかったのだろうか、もったいないなあと思ってしまいました。

というのは、読んでみて(全部を読んだわけではありませんが)それほど有意義なノートとは思えないからです。

心のノートは、教科書ではなく、副読本というか、書き込み式のノートです。「人として生きていく上での大いなる『プレゼント』」(『心のノート』の活用にあたって、より)なのだそうです。

プレゼントだとすると、少し押しつけがましいプレゼントというのが私の印象です。

一番違和感を感じたのは、問いかける文章に続けてすぐ、<こう考えるとイイヨ、こう考えよう>といった誘導のような文章が続いて出てくることです。

ふつう、「君たちはどう思いますか?」と訊かれたら、考える時間が与えられます。

でもこのノートでは、間髪を入れずに「○○は△△だよね。だから~なのです。感謝しましょう」みたいな記述が続いています。

だから、言葉遣いは丁寧なのに、何だか自分が軽く扱われているような、妙に威圧されているような、何とも言いようのない感覚が醸し出されてくるのです。

読んでいて、私はこの何とも言えないモヤモヤした気持になっていくのが一番イヤでした。

自由な思考を促す言葉で質問しておきながら、一方では、自由な思考を抑え、ある考えを押しつけている。そんなふうに受け取れてしまいました。赤と青の信号が同時に点灯されたようなもの、とでもいうのでしょうか。

心理学でいうところの二重拘束(ダブルバインド)に似た状況です。ダブルバインドで、よく例に取り上げられるのが「自由にしなさい」という言葉です。自由に振る舞おうとすると、相手の言葉に従うことになってしまい、結局、動きが取れなくなる、そんな状態を指します。

心のノートのこうした記述のされ方は、受け手を混乱させ、葛藤状態をつくってしまいます。ノートに従って記入し、読み進めるうちに、子ども達は次第に自分を率直に表すことが難しくなっていくでしょう。

心のノートについてはいろいろと批判があるようですが、私自身の感想としては、少なくともこの点において、心の健康のためには使わない方がよい、というのが率直な感想です。

それにしても7億もの予算を「プレゼント」にではなく、教育の質を高めるための根本的なことに使ってほしいものです。そしてプレゼントというのなら、もっとさりげなく、しゃれたものであってほしいなあと・・・。

一年で一番暑い日

今日は、今年最高の暑さだったそうです。熊谷では40.9度といますから、この辺でも38度くらいあったのでしょうか。

ちょうど最高気温をマークした時間帯に、よりにもよって、図書館に向かっていました(片道25分)。歩いている途中で「光化学スモッグ注意報が発令されました」と聞こえてきました。

気温が40度近いと、ただ歩いているだけでも疲れます。さすがにペットボトルと日傘は持って行きましたけど、途中で引き返そうかと思ったくらいでした。

確かに用事はあったのですが、あと数日すれば少し涼しくなったというのに、…それなのに、一年で一番暑い日の、しかも一番暑い時間帯にテクテク歩いているなんて!

そう言えば思い出します。

「絶対に混んだ日には行かないぞ」
と決めていたにもかかわらず、今夏一番の混雑という豊島園のプールに行ったり…。筑波万博に行って家族でグッタリして帰ってきたら、その日が最高の入場者数だったとか…。

という泣き笑いのエピソードもいろいろ。

何はともあれ、暑さもこの辺がピークの模様。残暑をうまくのりきって元気で過ごしましょう。

席を譲った時どこに立つ?

新聞の投書欄に中学生(男子)のこんな投書(大意)が載っていた。

「電車で人に席を譲るのはとても勇気がいるけれど、できるだけそうするようにしている。しかし席を替わってあげた後で、何だか落ち着かなかった。そこで、目の前に立つと、座った人も居心地が悪いと思うので、席を替わったら離れた場所へ行って立っていることにしようと思った。」

とても気持ちの優しい中学生だなあと感心した。それに、相手を思いやる細やかな気遣いにも感心する。最近は、こうした若者達の気遣いが少なくないように思う。彼らはとても優しく、繊細なのだ。

感心する一方、「でも~」っと私は考えてしまった。

そんなに気にしなくてもいいのでは?
<席を替わってあげたかったから、替わってあげた>ということでいいと思う。

こちらが自然に振る舞えば、相手の人もきっと気にせずに座ってくれるはず。

相手が「立たせてしまって悪いな」と負担に思っているに違いない、というのが中学生の気持ちの前提にあるから、自分が目の前に立っているときっと居心地が悪いだろう、と気遣ってしまったに違いない。

目の前に立っていてもいいと思う。「自分が替わってあげたくてやったことだから、自分にとって、立っていることは負担でも何でもない」と思って、立っていればいいのだ。自然な振る舞いは、相手に無用な気遣いをさせないですむ。

それに・・・、昔、こんな事があったのを思い出した。

小学生の息子が夏休みに一人で、私鉄のスタンプラリーに出かけていった時のこと。

「(電車で)席を替わってあげたら、おばあさんに話しかけられちゃった。いろんなこと話して仲良くなっちゃった!」と嬉しそうに帰ってきたことがある。

そんな人とのふれあいも悪くないと思う。新聞記事の中学生も、座席の前に立っていたらお年寄りと話をする機会があったかもしれない。もっとも、中学生ともなると、小学生とは違って、話しかけられるとよけいに照れてくさいかも。
ということで、やっぱり離れた所に立つことになるのかな…?? ^^;

季節の仕事(植物の世話)

今日も暑い一日でした。
あんまり暑いので、いっそデスクワークよりも、汗をかく仕事をしようと、午後は日頃放りっぱなしの観葉植物の植え替えや、鉢植えの世話をすることにしました。

実は、6月頃から、伸び放題の葉や茎が気がかりでしかたなかったのです。が、ついつい後回しになっていたのです。観念して、どうせ暑いのなら、この際と…。

ところが、いざベランダで始めてみると、その暑いこと、暑いこと…!熱中症でダウン、なんていうのもわかる気がしました。なにしろ、日陰にいてさえジリジリと焼けつくようでしたから。

何度も部屋に戻っては、水分を補給しつつ、ようやく夕方には大半が終わって、やっと少しホッとしました(どうせやるなら、涼しいうちにやればいいのにと言われそうですね)。

何しろ生き物は待ってくれませんから。特に夏場はドンドン成長します。冬の寒さに備えて今のうちに成長して、養分を蓄えるのでしょうね。

そんな植物に合わせていると、こちらも自然に動かなければなりません。おかげで、久しぶりに大汗をかきました。終わったら爽快そのもの、「夏」を実感!

そう言えば、夏にエアコンの効いた所にばかりいるのは、体によくないといいます。夏に汗をかくことで、秋から冬に向けての季節の変化に、自然に体が順応していくようになるのだとか。

仕方なしに始めた鉢植えの手入れでしたが、おかげで気分爽快。なるほど、生き物を相手にしていると、こちらも自然に四季のサイクルにあった暮らし方をさせられて、心身共に健康になるというわけですね。

ともあれ、これでしばらくは、植物たちも安泰です!