月別: 2007年9月の記事一覧
世代による住み分け?
東京のお昼時。オフィス街のコーヒーショップに入りました。
明るくおしゃれな感じの店内は、そろそろランチタイムのピークになるらしく、OLや会社員でどんどん席が埋まっていきます。
歩き回ってのどが渇いていたので、とにかく飲み物とサンドイッチを適当に選んで、急いで席を確保。ホッと一息ついて、気づいたことは…。
いつの間にか、店内の席はほとんどが埋まってしまっていたのですが、見たところ、若い人達ばかりなのです。20~30代と思われる人達です。中に一人だけ40代と思われる男性が。そして、オバサンは私だけ。
皆、この近くの会社にお勤めの常連さんらしい雰囲気でした。異次元空間に迷い込んでしまったような感じで、ちょっとソワソワ。
ますます混んできたお店を後に、通りを歩けば、道ですれ違うのも圧倒的に若い人達。
平均年齢30歳くらいの街?かと錯覚を起こしそうな、「新鮮」な体験でした。
かと思うと・・・、
その後、休日にショッピングモールに行ったときのこと。そこでは若いパパ・ママと赤ちゃんと子ども、そしておじいちゃん・おばあちゃん世代が目につきました。
OLや会社員、若者や中高生はほとんど見かけませんでした。
まるで住み分けているみたい!場所によって世代が偏っているのにはビックリしました。。
そういえばいつかこんな声を聞いたことがあります。
「ふだん若い人達とふれあう機会がないので、一度中学生や高校生と話してみたいなあ。」30代のOLさんでした。
私たちは知らず知らずのうちに、意外に限られた生活スペースで、限られた人達とだけ会って生活しているのかもしれません。世代や生活形態によって、生活する場所がハッキリ分かれてしまっているのでしょうか。一昔前にはあまり考えられなかったことだと思うのですが…。
いろいろな世代の人達と交流する機会がほしいですね。
そうしたらお互いを理解しやすくなるでしょう。
生活の彩りも、より変化に富んだものになるでしょう。
これからの街づくりにはそうした視点も欠かせない気がします。
ごんぎつね 続きの続き
友人が「ごんぎつね」について、「うちにある絵本(偕成社)では『うなずきました』と」なっていたとコメントをくれました。
そこで、新美南吉の最初の草稿と、「赤い鳥」掲載の鈴木三重吉が手を入れた版との違いを、どこがどんな風に違うのを幾つか抜き出してみることにします。(原文の仮名遣いのまま)
ちなみに、現在出版されている絵本も教科書も「赤い鳥」掲載版がもとになっています。
●「赤い鳥」版
○南吉の最初の草稿
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<盗んだウナギが首に巻きついたまま逃げ出したごんが、[追って]を振りきって、ホッとしてウナギを首からはずす場面。>
●「ごんは、ほっとして、うなぎの頭をかみくだき、やっとはづして穴のそとの、草の上にのせておきました。」
○「権狐は、ほっとして鰻を首から離して、洞の入り口の、いささぎの葉の上にのせて置いて洞の中にはいりました。」
<自分のせいで鰯屋にひどい目に会わされた兵十に、そっと栗の実を届ける場面>
●「つぎの日も、そのつぎの日もごんは、栗をひろっては、兵十の家へ持って来てやりました。そのつぎの日には、栗ばかりでなく、まつたけも二三ぼんもっていきました。」
○「次の日も次の日も、ずーっと権狐は、栗の実を拾って来ては、兵十が知らんでるひまに、兵十の家に置いて来ました。栗ばかりではなく、きの子や、薪を持って行ってやる事もありました。そして権狐は、もう悪戯をしなくなりました。」
<ごんが兵十に撃たれた場面>
●「『ごん、お前だったのか。いつも栗をくれたのは。』」
ごんは、ぐったりと目をつぶったまゝ、うなづきました。
兵十は、火縄銃をばたりと、とり落としました。」
○「『権、お前だったのか…、いつも栗をくれたのはー。』
権狐は、ぐったりなったまゝ、うれしくなりました
兵十は、火縄銃をばったり落としました。」
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「きのこ」が「まつたけ」に!
これらはほんの一例です。
それぞれたいした違いではないと言えば、言えなくもありませんけど…。やっぱり違うと、私には思えてしまうのです。
ごんの性格描写、なんのために栗の実を届けたのかなど、教科書の場合は、そこから何を読み取るかを子ども達に問うわけですから、教材としての「ごんぎつね」に、ついこだわってしまったというわけです。
南吉の最初の草稿はこちらに掲載されています。
【「ごんぎつね」をめぐる謎
~子ども・文学・教科書~ 】
府川源一郎著 教育出版(2000/5)
ここでもアサーション
月一回くらいのペースで、アサーション・トレーニングのワークショップを開催しています。
つい最近、ある参加者の方から事務連絡のメールをいただいた折り、こんなひとことが添えられていました。
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ところで、安倍さんの首相辞任は驚きましたね。
安倍さんが、アサーションができていたら・・・・と思う今日この頃。
辞任理由も、率直に、
「体調が悪く、首相の重責に耐えられない自分を感じている」と謝罪していたら、
「無責任」とか「腑抜け」とか非難ごうごうではあっても、ここまでバッシングされなかったのでは、と思いました。
アサーション、大切ですね。
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う~~ん、なるほどねー、とうれしかったです。
安倍さんとアサーションの取り合わせの新鮮さ。同時に、日常のニュースをアサーションの視点で見てもらえたこと。このことは、メール主の中でアサーションが生活に根付き始めている証ですから。
というわけで、政治家の皆さん、ぜひアサーション・トレーニングを!
自分も相手も尊重しつつ、率直に自己を語る。政治がわかりやすく、力強くなりそうです。
政治に限らず「基本のキ」ですね。
※アサーション・トレーニングとは自他を尊重しつつ、自分を率直に語るための実践トレーニングです。
ごんぎつね 続き
前回、ごんぎつねについて書きましたが、訂正があります。
訂正箇所↓
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鈴木三重吉と言えば、日本で最初の児童文芸誌「赤い鳥」の主宰者です。当時新美南吉は18歳の新人ですから、手を入れられても異を唱えることはできなかったでしょうね。
私は別に南吉ファンでもなんでもありません。でも、今回原文と教科書の文と両方を比べてみると、新美南吉が生きていたら、不本意なんじゃないかなあと同情したくなりました。
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調べてみてわかったことは、三重吉の手の入った「ごんぎつね」については、南吉自身が了承していたらしいので、教科書の「ごんぎつね」についてもその線で考えた方が良いと思いました。推測で書いてしまったので訂正します。失礼しました。
ということで、南吉が書いた最初の草稿「権狐」と、三重吉の手の入った「ごんぎつね」の二つは、別の作品と捉えた方が良さそうです。
前者が昔話に近いとすれば、後者は言葉や体裁の整理され洗練された近代小説に近いといった感じでしょうか。二つは味わいがかなり違います。別物と考えれば、どちらが良いかというよりも好みの問題になりますね、きっと。
ごんぎつねが繰り返し教科書に取り上げられ、教材として成長していること自体はすごいことだと思います。でも同時に、そこに盛られた日本人の精神風土(たとえば死の美学のような)にも自覚的でいたいと思うのです。
その点で、私の感じた違和感とは、教科書に掲載されている「教材」だからこそなのだとわかりました。絵本や読み物としてみれば、ごんぎつねはとても魅力的なお話だと思います。
教材は子どものものの見方・考え方を養います。感性を育てると同時に、自分を見つめ、社会との関わりを探る力を育てるのも言葉の力です。
いじめや学級崩壊も、そうした言葉の力と関係している気がして、もっともっと子ども達にダイナミックな国語教育をと思うのです。