月別: 2008年7月の記事一覧
著書刊行
毎日暑い日が続いていますが、皆さまお変わりありませんか?
セミの鳴き声が、このところ一段とにぎやかになってきた気がします。そろそろ夏も後半になるのですね。
ところで、。。。。
春から取り組んでいた本が、出来上がってきました。
本になってみると不思議な気持ちです。文章が縦組みになって、挿絵や表紙などいろいろな要素が加わると、自分が書いたものでも、初めて見るような新鮮な感じがします。
本のタイトルは「きちんと『自分の気持ちが言える子』に」。副題に(~意思表示できる子は伸びる~)とあります。
副題がつくとまた違った印象になって、自分が書いたものなのに、新鮮で不思議な気持ちがします。
「子どもが思ったことを言いにくいのはなぜか、どんなところでつまづきやすく、どんなふうに手を貸してやったらよいのか、言えるように身近でできることはなにか―こうしたことについて、ふだんの生活に例をあげながら考えていきましょう。・・・・略・・・・
子どもがちゃんと言えることで親子の笑顔が増える―そんなコミュニケーションへの手がかりを見つけていただければと思います。」(まえがきより)
どんなふうに読んでいただけるか。ドッキドキです。多くのお母さん・お父さんに役立つ本になっているといいなあ。
私の所に届いたのは見本なので、皆さまに実際に手にとって頂けるのは9月になってからのようです。一般の書店ではなく、全国の生協を通じての販売になります。
その時は、改めてご案内させていただきますね。
とり急ぎ、ご報告まで。
役に立つとは
先日、新聞の投書欄に次のような記事が載っていました。
80代のお年寄りの元へ、市役所の高齢福祉課から「生活機能評価」という調査票が届いたそうです。その中に「あなたは、世の中の役に立っていると思いますか」という項目があったそうです。
この方は、体調が悪く、地域の役員も断ってしまっているし、特にボランティアもしていないので、「役に立っていない」に印を付けて提出したそうです。以来、「役に立つとはどういうことか」ということを考え続けていると…。
それにしても、すごい質問があるものだと絶句しました。もし私がこの質問をされたなら、なんて応えたらよいのでしょう。
「私は役に立っているかしら?」もし、役に立っていないと思ったら、そんな自分に対して、何をどうすればよいのでしょう。
「もっとしっかり世の中のためになることをしなさい」という意味なのでしょうか?それは、お年寄りに向けて、「もっと働け」という意味なのでしょうか?高齢で、身体の具合が悪くても、まだ働けと?
この投書の主も書かれています。
役に立つとはそもそもどういうことをいうのでしょう。
人の価値には、何かが出来るとかではなく、その人の存在そのものが価値であることだっていっぱいあります。むしろ、人間の価値というか存在意義とは、本来そういうものではないのでしょうか。
役に立つとか立たないとか、また、役に立つとはどういうことか、この質問の意味は、今でも私にはよくわかりません。
赤ちゃんの笑顔は役に立ちませんか?
病気でも、
歳をとっても、
働けなくても、
たとえ寝たきりだったとしも、
その人がいることで周囲が支えられ、生きる意欲をもらえることはありませんか?
質問を作った人に訊いてみたくなりました。
「聴く」時間を持つ
今から10年位前に17才の少年犯罪が多発し、社会問題化した時期がありました。先日、その頃に読んだ一冊を読み返す機会があったのですが、問題の指摘はそっくりそのまま今に通じるので、ちょっとビックリしました。少しも古びていません。でも、こういうことで鮮度が落ちないなんていう現状は、ちっとも喜べませんね、少し長いですが、引用します。
『「親が子どもにしてやれることは何だろう」と考えたときに、思い浮かべるのが学歴である。しかし学歴を与えれば一生安泰かと言えば、そのようにはだれも信じていない。信じていないが、親としてやれるのはそれくらいしかない、といまだ学校ブランドにすがっている現状が、近代化を達成した日本の親の姿でもある。
だが子どもは砂をかむようなつらさや、虚しさを抱えているのだ。
「みんなと同じにしていなさい」と「個性を発揮しなさい」。
「とりあえずいい大学に入りなさい」と「いい大学に入っても先行きは分からない」。
こうした相反するメッセージに縛られて、子どもは身動きがとれない。子どもは二つのメッセージに引き裂かれている。子どもは学校に行く意味を探っているのだ。
なぜ、学校に行くのか。その問いに対して、経済成長を目指して走る中で、大人は「大学に行ってから考えなさい」という先延ばし論でごまかしてきたが、もはや近代化が達成された段階では、ごまかせなくなった。』
不登校、学級崩壊などの問題も、なぜ学校に行くのかという子ども達の問いを含んでいると、著者は指摘します。
そして、「不登校は逃げだ」と言われるが、
『問題の所在は子どもにあるのではなく、大人の側にある。・・・長い間、逃げていたのは私たち、大人であった』と結んでいる。
(「少年サバイバル・ノート」西山明 P45~P46)
書かれたのは今から8年前ですが、このまま今も通用しそうです。
学生たちの相談を受けていると、進路に迷う学生も少なくありません。授業に身が入らず、成績がふるわないとき、このまま続けるか、退学して他の選択肢(就職、専門学校)を考えるか迷います。
一般的に学生達は気持ちが優しく、親に学費を出してもらっているので、親の考えを最大限尊重しようとします。大半の親は、迷っているわが子を前に、「とにかく大学だけは出なさい」と勧めます。
かくして迷いつつも学生は、もう一度努力しようと心を決めます。そして努力はするのですが、しかしほどなく、「やはりこれ以上は力が出ない」となって、また相談室を訪れることになります。
では親に限らす、私たち大人には、こんな時いったい何ができるのでしょうか?
実際、相談室にいても、私ができることは限られています。心のケアという面を除けば、実質的な効果では、いろいろな視点での見方や考え方を提供し、具体的な情報や情報を得る方法を示すことくらいです。
ときには、一緒に途方に暮れて考え込んでしまうこともあります。無力感にさいなまれることもあります。
ただ、それにもかかわらず、毎週話しに来る学生を見ていて思うのです。
話したいときに、話せる場があることが大事なのではないかと。それも、本人の意見を否定せずに、耳を傾ける場所であることが…。
子どもや若者が、迷い悩んでいるとき、アドバイスできたり、解決への方策を提供できればそれに越したことはありませんが、もしそうでなかったとしても、一緒に悩んだり、考え込んだりすることそれ自体が、大事な時間なのかもしれません。
そうこうするうちに、本人が何らかの出口を見つけたり、少しでも意欲を持てるようになれれば、それこそが本人の歩みの一歩になると思うのです。
そうした時間の共有が、大人にも立ち止まって考える機会を与え、この混沌とした時代に何らかの変化をもたらすのかもしれません。
「長い間、逃げていた」大人に、逃れられない問いが返されてきました。少しでも、子どもや若者の声を聴く(=心の耳で聴く)時間を持てればと思います。
映画(「歓びを歌にのせて」他)
最近観た、音楽がテーマの映画とDVDのご紹介。
「奇跡のシンフォニー」(上映中)
孤児院で育てられた天才的な音楽の才能を持つ少年が、まだ見ぬ両親を探しながら、音楽と出会っていきます。
「どこにいても、誰にでも、音楽は聞こえるよ」
「ボクの音楽は両親への答え」
心温まるストーリーと音楽の魅力、シンプルで素直に楽しめてリフレッシュさせてくれる、そんな映画です。
もう一つは、DVD。
「歓びを歌にのせて」(2004年スウェーデン映画)
登場人物が、人生の哀感を感じさせながらいきいきと描かれていて、無骨で、正直で、好感が持てます。
DV夫の暴力にめげず、仲間の励ましで、「自分を生きる」と力強く歌うヘレン・ヒョホルムの歌う歌がすばらしい。
歌声と曲そのものが素晴らしいのですが、私の仕事柄、DV被害者の女性が「自分の道を生きたい」と歌うところに、ことのほか感激してしまいました。