セレニティカウンセリングルーム

月別: 2011年3月の記事一覧

語る・ほぐす

今日、こちらは強い北風は拭いたものの、お日さまいっぱいの春の陽気でした。

東京では桜の開花も始まっています。春がやってきたんだなあと、例年だと弾むような明るさがあるはずなのに、今年はなんだか季節を楽しむ気持ちになれません。

・・・あの日から時間が止まってしまったかのような、さもなければものすごく時間の歩みがノロノロとしているような・・・。

先日、地震の後に久しぶりに会った友人達とおしゃべりをしたのですが、やはりどうしても震災や放射能汚染のことに話題が集中してしまいました。入ったカフェの隣りの席からも、時折耳に入ってくるのは、「停電」とか「ヨウ素」とか・・・。話さずにはいられない、誰の中にもそんな気持ちがあるのかも。

考えてみると、それはとても自然なことかもしれませんね。こういういわば「非日常」が続いているようなときは、話して誰かに聞いてもらう、また、お互いに聞きあうことは、気持ちが落ち着き、自分の中でさまざまな感情が無理なくおさまっていくきっかけになってくれるし、それは心のケアにつながっていきますから。

また、心と同じように、からだのケアも必要なときですね。からだをほぐさなくては・・・。こういうときはからだもギュッと縮こまって緊張しているはずなので、緩めてあげることが大事になってきます。

なんて、偉そうに言ってしまって、私自身できていなくて、、、お恥ずかしい。

と、そんなことを思っていた矢先、ひょっこり整体の帰りだという友人二人が尋ねてきて、たった今しがた受けてきたばかりの整体の方法で、ケアしてくれました。短時間でしたがスーッとほぐれて、気持ちよかったですよ。自分でも気づかないうちに(なんとなくわかっていたんだけど)、たくさんからだにためこんでいたみたいで、終わったら目がパッチリスッキリ!お二人に感謝しなくては!

人にやってもらうほどの効果ではないですが、自分でできる簡単な方法があります。こんな簡単なことでも、やるとやらないでは違うのですよ。
自分で「緊張しているな」「違和感があるな」、と感じる部分(たとえば頭や肩や首など、気になる所どこでも)に手を当てて、目を閉じ、しばらくそのままいます。頭の場合は両手で挟むような感じで。呼吸は自然に。そのとき、手を当てている部分を意識します。からだの体温や感触を感じながらそのまま手を置いています。バックに静かな曲などを流しながらやってみるのもいいですね。ただし、イヤホンやヘッドホンはNO。

呼吸がラクになり、もう十分だなと思ったら、静かに手を離して、目を開けてください。

軽くリフレッシュしたいとき、よかったら試してみてくださいね。

震災から一週間

地震が起きたのが、3月11日金曜日でしたから、正確には昨日で一週間になります。とても長い一週間でした。

幸い身内からは14日にメールが入ったのですが、それまでは生きた心地がしませんでした。何をしていても頭に浮かぶのは連絡がとれないことの不安だけ。あらゆる手段を講じても連絡はつかない。地図を見ては海岸線からの距離を算定したり、当日の行動パターンを想定したり…。何かしていないと落ち着かないという状態でした。

メールが入ったと分かったときは内容を読むより前に驚喜しました。家人に読んで聞かせながら、涙が止まりませんでした。「ああ、よかった!生きていてくれてよかった」ただただ、それだけでした。

私自身が被災したわけでもなく、遠い関東に住み、メディアを通しての情報に接しているだけでさえこんなに辛かったのですから、現地の方達は、本当に想像を絶する中で生きていらっしゃるのだと痛感させられました。そして今なお、どれほどの人達が、大切な人の消息を待っていらっしゃることか・・・。

加えて原発の大事故です。これ以上被害が広がらないことを祈るしかない状態なのが、なんともやりきれません。これを機に、暮らしのあり方を、エネルギーの問題を含めて根本から考えていくことが迫られている気がします。

PS..これを書いている途中で、被災地の身内から近況報告のメールあり。「配給が始めてあった。バナナ一本とチョコレート一枚、500mlの水が3本」一応自宅が流されず、冷蔵庫に残り物があっただけでも幸せなこと。そこに、貴重なバナナとチョコとお水。忘れられない食べ物になりそう。

配給に、私も手を合わせてしまいます。ありがとう!

無事で!

地震から二日、皆さんはご無事でしたか?

お友達やお知り合いの方にも、お変わりありませんか?

この二日間、経験したことのないことが次々と起こっています。その度に扱いきれない気持ちの波がやってきます。

私自身、現地に住む身内と連絡がつかず、何も手に着かない状態です。
ただただ無事を祈る、その思いだけです。

現地の皆さんの被害が、少しでも少なくすみますように・・・。一つでも多くの命が救われますように・・・。

自分にできることは限られていますが、それをまずやれればと。

時計職人のおじいさん

駅前に一軒の時計屋さんがありました。昔からこの土地にお店を構えていたと思われる風情の、こぢんまりとしたお店でした。ときどき店の前を通ると、おじいさんが時計を修理しているらしく、カウンターで背を丸めているのが見えました。

ある日、店の入り口に張り紙がありました。「この度、閉店することになりました。長年のご愛顧、誠にありがとうございました」

それからしばらくして店の前を通ったところ、ウインドウ越しに見える陳列棚には時計がほんの少し残っているだけでした。ほとんどガランとした店の中では、以前と同じように、カウンターにかがみ込んで時計を修理しているおじいさんがいました。最後の仕事の依頼だったのでしょうか。

そんなことがあって数日後、たまたまテレビで、イタリアの片田舎でのある家族の暮らしを伝えた番組を見ました。家族の一人は時計職人のおじいさんでした。80は過ぎていると思われる白髪の老人は、インタビューに答えて「動ける間は仕事を続けていきたいね。生きている限り、ずっとね」と、優しい笑顔で机の上の時計に向かっていました。

三世代同居で暮らす住居の一室に、おじいさんの修理のスペースがあるらしく、明るく気持ちよくしつらえられた室内に、木製の机が温もりを感じさせて、おじいさんの幸福な暮らしを想像させました。

閉店した時計屋のおじいさんも、もしかしたら「まだまだ時計の修理はできるぞ」、と思っていたかもしれません。それとも、「リタイアして悠々自適、好きなことをして過ごすぞ」、と思っていたでしょうか。詳しい事情は何もわかりません。

いずれにしても、子や孫に囲まれて暮らしつつ、自分の技術が必要とされ、死ぬまで仕事に情熱と誇りを持って続けていかれたら、最高に幸せな生き方の一つであることは間違いなさそうです。

それにしても、しかたのないことですが、お店が閉店するのって、何だかやっぱり淋しいですね。