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「生」善説?
キンモクセイが咲き始めました。こんなに小さな花からあんなにゴージャスな香りが漂ってくるなんてウソみたいですね。
これから書こうとすることは言葉にするのがなかなか難しい問題です。私の中でもよく整理できていないからです。でも、何となく大事なことのように思うので、忘れないうちにここにメモ代わりに書いておきたいと思います。「何を言ってるんじゃ?」とわかりにくい部分もあると思いますので、その部分は適当にスルーしてください。
「性善説」という言葉がありますが、最近思っているのは「生善説」です。
<生命=つまり生きること=善>というものの見方といったらよいでしょうか。私が勝手に作った言葉ですが、私の中では「命は大事。だから、命があるうちは一生懸命生きるのが当然だし、生きるために努力することは良いことである」という考え方がごく自然にあります。だから、当然、自分の命も他者の命も大事にすべきなんだとなるのです。
でも、最近、時々大学その他で若い人と話していると、必ずしもこの考え方はすんなり受け入れられないのかもしれないと思うような問いに出会うことがあります。相手が悩んでいる若者である場合が多いので、それ故の問いということもあるかもしれませんが…。
それは、「なぜ生きなくてはいけないのか?」という問いです。
確か以前、「なぜ人を殺してはいけないのか」という若者の問いに、大人は答えられるかというような報道がにぎわった時期がありましたが、その質問とも違う、「なぜ生きなくてはいけないのか」という質問です。
私の中では、答えは簡単なのです。
「今、生きているから」
この一言で私の中では十分なのです。私が今生きているのは私自身の力によってではなく、何者かによって生かされていると感じています。それは、どんなに生きていたいと思っても自分の力で生きることはできないときがあるからです。与えられている命があるうちは、それは「生きなさい」というメッセージなのだから生きる。というごくシンプルな答えが私の日頃の考え方です。
「事故や病気で、どんなに生きたいと思っても生きられないときがあるのは、私たちが自分の力の及ばない何かによって生かされている存在だからではないか?」と、相手に返します。
しかし、質問した彼・彼女の中では少しもシックリこないらしく、「確かに、そう言われればそうなんですけど……」と言いつつ、次のような言葉が続きます。「生きていても良いことがあるとは思えないし…」「生きていて何の意味があるんですか?」など、もちろん各自少しずつ表現のニュアンスは異なるものの、将来に希望をもてない状態を語る言葉であることは共通しています。
「生きていることはそれだけで価値がある」「人の存在はそれこそが価値なのだ。あなたの存在そのものが」と伝えたい私のことばは空回りすることも少なくありません。
ではありますが、伝えたいことの十分の一、いえ百分の一も伝わらなかったとしても、やっぱり言えることは一つ。「あなたの存在は何にも代え難いもの、かけがえのない存在である」ということです。この言葉を信じるかどうかは本人次第ですが、言い続ける価値はあると思っています。同時に、若者がこの言葉を自分の言葉とできるような社会に近づけていく責任もまた、大人に科せられていることを痛感せずにいられません。
若者に向き合うということは、とりもなおさず自分の生き方を問われることなのだなとつくづく思います。そして現実社会への向き合い方を問われることでもあります。それは、ある意味シンドくもあるけれど、本質を見失わないための貴重なチャンスを与えられているとも言えます。
容赦なく、飾り気のない直球の言葉。それに対する知識や、感性や、時には私の存在そのものを総動員しなくてはならないような言葉の応酬は、表面的には何気ないやりとりのように見えて、実はスリリンなグ真剣勝負の場でもあるのだと、今、これを書きながら再確認しています。面談が終わってグッタリ疲れるのも納得といった感じです。
若者達は、詰まるところ、カウンセラーに相談云々ではなく、正面から向き合ってくれる大人を求めているのかもしれません。たとえ未熟な受け答えであっても、私の語った何かが、彼らの中の「生きる」という課題にほんのわずかでもヒントになり、希望につながる何かがあってくれたなら嬉しいなあと思います。