カテゴリー 『 心理・精神 』
受験と卒業の季節
受験生は、今まさに受験の真っ最中といったところでしょうか。
そして、一方では、卒業生を送り出す時期も間近に迫っています。学校はこの時季、ちょっと緊張感のある、清新、かつ慌ただしい空気に包まれています。
大学相談室に来ていた学生さん達も、何とか無事に卒業にこぎ着けました。やっぱり元気に巣立っていってくれるのは何より嬉しいものですね。
途中で相談室に来なくなった4年生の彼はどうしたかな―、
と気になりつつも、
たぶん元気になったから来る必要がなくなったのでしょうね―、それなら安心。
と、最後に会った時の印象を思い出しながら、想像を巡らせています。
ちょうどあの日は、他の学生の面談中だったので、「予約時間だけ入れていってはどう?」と声を掛けたけれど、「また来ます」と言って、それっきりになってしまったなあ。
たぶんあの調子なら単位も取れているはずだし、大丈夫なはず。来年また相談室に現れませんように(どうか卒業できていますように)…。
と、心密かに祈っています。
また、ある女子学生さんは、私の担当日の最終日に(会える日はその日が最後ということで)、授業はないのにわざわざ大学に挨拶に来てくれました。
晴れやかな笑顔は、今までよりさらに明るくなって、卒業と就職という二大イベントへの期待がふくらんでいることを感じさせました。
その日は雑談とよろず相談で終わりました。
「変なこと聞いちゃいますけど……」
「ぜんぜん違う話なんですけど…」なんて言いながら、いろいろ質問されて、私も熱く語ってしまいました。こんなオシャベリは私も楽しいです。
・・・受験と卒業のシーズンが、こうして過ぎていきます。
相談室から「みんなに春よ、来い!」 と願いつつ。
派遣村を出て実家に帰る選択は有る?
昨年暮れからお正月明け頃まで、日比谷公園に「派遣村」ができました。全国から集まった派遣切りにあった人達に対して、「行くところがなかったら実家に帰ればよいのに」と言う意見もあったと聞きます。
それは難しいなあ、と言うより無理ではないかなあ。と瞬間思ってしまったのは私だけでしょうか。
なぜなら、実家に帰れない(帰りたくない)事情があって、ネットカフェに寝泊まりしていたのでしょうから、仕事や泊まる所がなくなったからと言って、突然「実家に帰ろう」ということには、なかなかならないと思ったのです。
日ごろ、大学生の話を聞いていると、話題が直接家族との関係に触れていなくても、学生達と家族の人間関係の温度の高低みたいなものは伝わってきます。
特に家族の仲が悪いというのではないけれど、なんとなく疎遠…というような感じも多く見受けられます。
では、学生達が家族のことを無視しているのかというとそうではなく、むしろ気遣っているからこそ、自分が迷惑を掛けないようにしようとして、疎遠になっている。そんな感じです。
そして時には、同じ家にいてもほとんど話をしないとか、生活リズムが違うため顔を合わせる機会がほとんどないとか、食事は自室に持って行って一人で食べるとか、…家族というより同居人みたいな感覚に近いかなあと思ったりするときもあります。
これらは良い悪いの問題ではなく、人によって、状況によって、生活していると自然にそうなっていく、そんな現状社会一般の状況が現にあるということだと思います。
同じ一つ屋根の下に暮らしている家族の中であってもこうした状況です。仮にもし、ある人が派遣切りにあった場合、その人がふだん家族と連絡をとっていなかったとしたら、その状態からいきなり、「仕事も住む所もないから実家に帰ろう」とすんなり決められるものではない気がします。
そんなことを思っていた矢先、精神科医で引きこもり問題に詳しい斎藤環さんの講演を聴く機会がありました。
そしたら斎藤さんが、「派遣村の人達は実家に帰ればいいという話があったけれども、それは彼らの選択にないでしょうね」と、サラッと言われました。
思わず、「オっ?」と思ったのですが、斎藤さんの場合は、私とは少しニュアンスが違うのです。実家が逃げ込み先にならなくなったのが「ネットカフェ難民」と言われている人達だというわけです。
イギリスでは若年ホームレスが26万人だそうです。日本のネットカフェ難民は一応5000人とされています。
イギリスの場合、「パラサイトは恥」という文化社会の国なので、家に居続けるわけに行かず、ホームレス化することになっってしまったのであり、日本の場合、今までは「引きこもり」という形で家が抱え込む力を持っていたのだと言えます。
家に抱え込む力がなくなったとき(不況もその一因)、ネットカフェへ流れたのではないかというのが斎藤さんの意見でした。だから、また家に戻ると言うことは考えられないというわけです。
いずれにしても、家族、個人、社会、文化、いろいろな意味で、変化や柔軟な思考を鍛えられずにはおかない状況のように感じます。
柔軟な思考と変化で、この先いつまでついていかれるかしら?
と、ちょっと自分に不安。
&、ちょっとこれからの社会の変化に期待。期待というのは、思いがけず、既存の価値観や方法にないものが見つかるかもしれないという期待です。
化粧とカップラーメン…香りの誘惑
前回「ビパサナ」という瞑想について書きました。ブッダが考案した呼吸に注目する、とても簡単な瞑想法です。
目を閉じて、吐く息・吸う息に注目すればよいので、どこでもできます。
で、ある時、電車に乗っているときに試みることにしました。その日の車内はほぼ座席が埋まるくらいの混み具合で、混雑していると言うほどでもありません。当然、乗客の話し声もしますし、電車の機械音や外の音も耳に入ってきます。
でも、それらの音は車内全体の音として聞こえてはいても、目をつむって呼吸に注目すれば、そんなに意識の妨げにはならないように思いました。
私は座席に座って、電車の揺れと、適度な騒音に身を任せながら目を閉じました。
そして呼吸に注目します。
呼吸が、ゆっくりと気持ちを落ち着かせるリズムのように感じられ始めたちょうどその時、ツーンと鼻腔を刺激する匂いが漂ってきました。
きつい香水のような匂いです。
目を開けると、隣りに座った若い女性が化粧道具を取り出しています。そして、今まさに目のお化粧に取りかかろうとしているところでした。
この時わかったこと。
騒音は意識から遮断することはできても、匂いは無理だということです。化粧品の強い香りは気持ちを集中しようとしても、何の遠慮もなくこちらの意識を刺激してきます。
匂い・香り、これらは音よりももっとダイレクトに感知されてしまうのだと気づきました。それだけに、うまく使えば効果的だけれど、逆にマイナスに働くと、ある意味暴力的なくらいに相手に不快感を与える場合もあるかもしれないなあと…。
そういえば、帰宅途中の中学生(高校?)男子の一団が、車内でスナックやハンバーガーを食べる場面に出会うこともあるのですが、その時の匂いもけっこう強烈です。この間などカップラーメンです!
電車内がラーメンの匂いで一杯。
育ち盛り、伸び盛りだからお腹のすくのは分かるんですけど…。
こんなふうに、車内が化粧室や食堂になるのはどうなのでしょう?公共の乗り物でのマナーという意味で。
そんな疑問を持ちながら、注意するべきか否かで迷ったり、悩んだりするそんな自分にも歯がゆい。
ヘッドフォンの音漏れなら、指摘して音量を下げてもらうけれど、こういう場合はどうなのだ?アサーション・トレーニングだったらどうなるか?………などなど。
悩みます!
ビパサナどころではなくなってしまったのでした。
ビパサナという瞑想
先週の土曜日は久しぶりの瞑想会でした。ほとんど一年ぶり!これには自分でも驚いてしまいました。しばらく間が空いたという感覚はあったのですが、それにしても一年とは。
でも、時間の流れが速く感じられるのは私だけではないらしく、参加した方が口々に「え?もう一年?」と言われてました。
というわけで、久々の瞑想会でしたが、やっぱり自分にとって、こういう時間は本当に必要だなあと改めて思いました(と言いつつ、一年もブランクが^^;;;)。
私が一番サボっているかも。参加者の中で。
日常的に瞑想の時間をつくっている方は、本当に偉いなあと尊敬します。
でも、でもです。
今回のプログラムで最後に教わった「ビパサナ」という瞑想は私にも続けられるかもしれません。
とにかく、簡単です。
仏陀が考案したといわれるとても簡単な方法で、自分の呼吸に注目します。息を吸うとき、吐くとき、鼻から出て行くその呼吸に注目します。
それだけです。実際にやってみると、息が出ていくとき、入ってくるときに目を向けるだけなのに、ただ「見る」ということを続けることが意外に難しいのに気づきました。
どういうことかというと、すぐに他のことに気を取られたり、考え事をしたりしてしまうのです。10分間の瞑想のうち、どれだけ見ることに意識を向けていられたかというと、信じられないくらいほんのわずかな時間なのには、我ながら驚きました。
私だけかしら?すぐ何か考えているんです。きっとこの調子で、何かを見るたびに、そのもの自身を見るよりも自分の感情を絡めたりして見ているのだろうなと思いました。何と言うこと!
「客観的に見る」と一口に言っても、なんて怪しいことかと思います(少なくとも私に関しては…)。
それに気づけただけでも、ちょっとはいいのかな?
こんなことを考えたからと言っても、難しい顔をして瞑想をしていたわけではないのですよ。こうした気づきはほんの瞬間のことです。書いてみると長くなるのですが…。
おそらく普段だったら忘れてしまうような些細なことに違いありません。それをちゃんと意識できて、覚えていられたところが瞑想会の瞑想会たるところでしょうか。
ということで…、
また来年、春になる前くらいに開催できたらいいなと思っています。
かたつむり工房
手塩研(手塩にかけて教材作り・授業作りトレーニング研修会の略)で、講師をお願いしている平井先生の主宰される工房が、NHKの「わかば基金」の対象として選ばれたそうです。おめでとうございます!
NHKのサイトの「かたつむり工房」がそれです。
かたつむり工房は精神障害の方達の作業場であり、なおかつエコロジーの実践場でもあります。EM菌でたい肥を作り、それで野菜や花を育てます。作業に来るメンバーの方達には、ちゃんと一日〇〇〇円の報酬も出るそうです。
「もっとちゃんと報酬を出してあげられるようになりたいんですけど」と、平井先生は申し訳なさそうに、もどかしそうに言われます。
「何百円だなんて少ない!」と思われるかもしれません。でも、多くの作業場では何百円どころか〇〇円の世界なんです。
昔、東京都でお手伝いした作業場では、部品の組み立てが一個何円(もしかしたら何銭?)でした。その作業場が特に低賃金だったわけではありません。当時もビックリでした。
今どき信じられないような相場の世界でした。たぶん今でもそんなに変わっていないでしょう。これではとても自立できないし、働く意欲も持てなくなってしまいますね。
国は自立支援法によって施設利用料の自己負担を強いるのではなく、働いた分の報酬がちゃんと支払われるようなシステムをつくってほしいなと思います。そのほうがずっと効果的に自立につながる気がします。
こうした中で、環境問題にとりくみながら働く意欲につながるようなとりくみを模索しているのが「かたつむり工房」です。
基金を元に、菜園の隅にミニログハウスが建てられるそうで楽しみです。皆さまの温かい応援もよろしくお願いします。(イベントの報告「手塩研」)