セレニティカウンセリングルーム

カテゴリー 『 心理・精神 』

瞑想とは?

瞑想って、なんでしょうね。

今「瞑想を理解する」というテーマで、ご案内の文を作ろうと四苦八苦しています。同時に、いろんなことを考えさせられます。

日頃、自分の内側を見ないで、外の世界ばかり見て生活しているなあと、自分のせわしなさを振り返らされます。また、瞑想会の参加者の方達の中には、ふだんから瞑想を生活に取り入れている方もいらっしゃるというのに、主催者の私がほとんど怠けていてできていません。

それでも、静かに座れば誰でも瞑想はできますし、やっぱり瞑想会をやってよかったと、毎回開催できたことをありがたく思います。

「瞑想とは、何かのためにするのではない。瞑想をすることで何か報酬を得ようとしてはいけない。瞑想はただ瞑想することそのものに意味があるのです」
と、あるお坊さんの講話にありました。

「瞑想を理解する」のがむずかしかったとしても、そうでなかったとしても、気持ちが良くなることはやっぱり理屈抜きでいいものですね。「いいものはいい」で、続けられたらと思います。

(続)お坊さんの講話(若者の場合は?)

テレビで見たお坊さんの話の続きです。

お坊さんに司会のアナウンサーが質問しました。
「とは言いましても、一度求めてみないことには、求めているものがすでに自分に備わっているのかどうかさえわからないと思いますけれども、いかがでしょうか?」

お坊さん「確かにそうです。実際、釈迦も6年間、探し回った末に、私たちのほしいものはすでに備わっているのだから求める必要はないと言われたわけですから」

(ここでは、お坊さん、ちょっと説得力がなくて分が悪いように思う)が、それでもかまわず「すでにあるのだから、求めなくてよいのですよ。」と念を押される。

そこでふと思い出した、
ある若者が以前、こんなことを言っていました。

悩んでいるその青年に対して、ここでのお話のように「すでに、人は生きているだけで意味のある存在だと思う」というようなことを私が言ったときのこと。

「年をとってからなら、そうも言えるだろうけど、今の自分にはとてもそんなふうには思えない。」と言われました。

だからお坊さんの話は、やはり年齢によっても違った聞こえ方がすることだろう。人間の存在そのものに価値があるとしても、その上でやはり、若い人には特に、何かやるべき事が必要だと思うのです。

それがたとえ「当面」のことであってもよいから、「何か」があれば日々が過ごせるはずです。言い換えれば『自分が他者から必要とされる」何かが、必要になります。

それはやはり「人とのつながり」に行き着くのかなと思うのです。たとえそれがほんのちょっとしたことであったとしても、自分が必要とされる形で社会に関わり、自分も社会から関わられる。今、若い人達の多くに、そうした仕事(職業と言うのでなくても、ささやかな活動でも何でもよい)が求められているということではないだろうかと思いました。

それは単に労働力として消費されるのではない働き方や活動の仕方と言えるかもしれません。

報いを求めず、すでに自分に備わったもののすばらしさに気づくことは大事。同時に、そうした自身のすばらしささえ当たり前のように思わずにいられない、若い人の向こう見ずなくらいなパワーも否定されるべきではないと感じます。

お坊さんの含蓄のあるお話を聞きながら、世俗の些事に限りない愛着を感じている自分に気づいたのでした。悟りにはとお~~~い、ですね。

(以上、仏教に詳しい方が読まれたらメチャクチャな解釈かと思いますが…、思うまま。)

お坊さんの講話(「ために」でなく)

ついこの間まで、暑くてフーフー言っていたのに、何という変わりようでしょう。朝晩など肌寒いくらいです。

またまた、ご無沙汰続きの日記になってしまいました。

ふと耳にした言葉が、心に残ることってありますね。
何気なくテレビをつけたら、こんな言葉が耳に飛び込んできました。

「『ために』やってはいけないんです」

 ???

画面には、お坊さんが映っていました。

「『食べるために働く』といいますね。食べなくてはいけないからその『ために』働くと。そうではないんです。」

 ???

「働くときは、その日精一杯ただ働く、ただそれでいいのです」

 ・・・・・

確かに、振り返ってみるとそうかもしれないと思い当たる節がある。

現実には働かないと食べられない。だから、「食べるために働く」ということになる。

では、食べているときはどうかというと、「働くために食べなければ」となっているかもしれない。

食べるために働く→ 働くために食べる→ 〇〇のために□□する→□□のために〇〇する→……………

これではいつもいつも、次の何かのために、今これをやらなくてはと思ってやっていることになる。だとしたら一体いつになったら、「~のために」ではない、それ自体を正面に据えて取り組むことをするのだろう?

そんなことを思いながら聞いていました。
セレニティの瞑想会でもよく「『今、ここ』を大事に」、ということが言われますが、これにも通じるように思います。

お坊さんの話は、道元の説法を引用しての話でした。
「報いを求めるな」「すでに自分の中にすべてあるのだから、外に求めなくても良い。それでもなお求めるのは、<水の中にいて、のどの渇きを訴えているようなもの>」なのだそうです。

「報いを求めるな」…とはいえ、現実にこれを実行に移すのは難しい~!
でも、
心がすがすがしくなるから好きです、こういう話。「ありがたがって聞いているだけではダメでしょ」、と言われそうですが…。

この後、聞き手が興味深い質問をしたのですが、それについては次回に…。

テレビには大勢の人が登場しますが、話の内容もさることながら、話し手の人相、表情や全体の雰囲気なども含めて聞くと面白いです。テレビ画面って意外に正直かもしれません。

この場合も、お坊さんがとても良い表情をして話していらしたので、つい引き込まれて聞いてしまいました。

次回は、座禅についての話だそうです。
<こころの時代~宗教・人生「道元のことば~正法眼蔵随聞記にきく(5)報いを求めず」>
駒澤大学教授…角田 泰隆
NHK教育テレビ 日曜早朝、翌週午後に再放送

他愛ないオシャベリ

夏休み間近のある日、大学の学生相談室に、ヒョッコリ、A君がやって来た。A君は今年の卒業生だ。心身の不調で卒業できるかと成績を心配していたが、何とか無事卒業できたようで、私もホッとしていた。でも、就職先が決まらないと言っていたので、気にはなっていた。

「ちょっとだけ話していいですか?誰か来たら、すぐ帰ります。」

遠慮がちに言うA君。

持病もあり、対人関係も苦手、家族ともコミュニケーションがとれていないという状況で、一刻も早く仕事を見つけて自活したい。でも、仕事が決まらない。と、暗中模索の堂々巡りが何ヶ月も続いていた。

その日も、イスに座るやいなや、
「ダメです。決まらないッス。就職先、何度面接受けても、みんな落ちちゃって」

質問しながら、いろいろと現状を聞いていくが、聞けば聞くほど八方ふさがりの状態で、私としても掛ける言葉もない。学生相談なら、相談に乗りようもあるけれど…。卒業生では、話を聞いてあげるのがせいぜいだ。

「そう、困ったわね」と、一緒に考えこんでしまった。

すると、「迷惑がってません?」と訊いてきた。

「別に迷惑とは思っていないけど、何か有効なアドバイスもできないし、どうしたらいいのかと考えているのよ」
と正直に言った。

そして気持ちを切り替え、ズルッとした姿勢でイスに腰掛けたA君を見て、ふと、こんな言葉を投げかけたくなった。

明るい調子で笑いながら、問いかけた。
「もしかしたら、面接の時、そういう態度で行っていない?」

「ええー?行ってませんよ。そんなことはないっす。絶対にないッス。今だけですよ」と、笑いながら、「ありえない!」というふうに、猛烈に否定している。

私「そう、ならいいけど、態度は大事だからね。気持ちがあるなら、それをちゃんと表さなくちゃ。」

すると、

A「あ、もしかしたら、読まれてるかも、相手に。そんなにその会社で働きたいとか思ってないから。とりあえずどこかにと思っているから」

私「無意識のうちに気持ちが態度に出ているかもしれないわね。少なくとも、今仕事が欲しいなら、『やらせてもらえるなら一生懸命やります』という態度で面接に臨まないとね」

「とにかく、態度の大きいのはダメよ!」と、こっちも笑いながら、ビシッとクギを刺す。

A君、それは分かってますと何度も言いながら、

「あー、ラクになった!ずっと誰とも話してなかったから~。」
と、ほんとに肩の力の抜けたような一言。

私「誰でもいいから、話ができる相手がいるといいね。売店のオバサンでも誰でもいいから、ちょっとしたオシャベリができるだけで、違うでしょ」

「無理ッス」と、首を振りながら、立ち上がったA君。

「仕事見つかるように祈ってるからね」

「はい、ありがとうございました」
来たときよりは、少しだけ元気な後ろ姿に、私もホッとする。

他愛ないオシャベリのできる、家族、友人、同僚、誰でも良いから、話せる相手がいれば…と思う。

日本中に、日頃、誰ともオシャベリすることのない多くの若者が、悶々と一人で苦悩を抱えているのだろうな。
人に話したからと言って、問題が解決するわけではないかもしれないけれど、少なくとも一時元気を取り戻せれば、また自分で歩き出そうという気持ちにもなれるだろう。

対人関係が苦手で、一見、人を遠ざけているように見える若者も、心の底では人との触れあいを望んでいる。A君に限らず、学生達の中には、日頃、家族とも友人とも会話をほとんどしないという者も、珍しくないことが彼らの話から伺える。

どうかほんの少しでいいから、人のつながりがゆるやかに結べる社会になってほしいとつくづく思う。
今日もまだA君は、面接にと向かっているのだろうか。

日本中のA君、とにかく生き抜いて!
自暴自棄にならず、このつらい一時を何とかやりすごそうよ。
がんばれー!

(日頃、相談室で学生達の悩みを聞く中で感じていることを、A君個人の出来事に絡めて書いたものです。趣旨を変えない範囲で設定に手を加えてあります)

「音祭り」の照明に感謝、そしてお別れを

もう2年以上も前になりますが、「2200kmを結ぶ!音祭り」というイベント(音楽ライブ)をやりました。沖縄のシンガーソングライター下地勇さんと、地元さいたまのギタリスト下館直樹さんに出演していただきました。

音楽を通して、心をつなぎ、地域をつなぎ、人と人とのつながりを育てよう、というイベントでした。

出演者、裏方のボランティアさん、それに音響や照明担当の方、ホールの担当者の方など、本当に多くの皆さんのご協力で出来上がったステージでした。

今、そのときの照明担当の北谷さん(女性)のことを思い出しています。打ち上げの時、「チャタンです」なんて冗談を言われてました(沖縄方言では北谷をチャタンと読むそうで…)。北谷さん自身は沖縄のご出身ではないのに、でも、チャタンと読む方がお似合いの、沖縄の空気を感じさせる方という印象が私にはありました。

北谷さんの照明はとってもステキでした。下地さんの歌にピッタリの照明をアレンジして、ステージを盛り上げていました。北谷さんにお願いできたらいいなあ、と思いつつも、とても弱小セレニティでは無理だと諦めていました。

でも、あるとき、都内であった下地さんのライブの終了後、お見かけした北谷さんに声を掛けたところ、「音祭りの企画ができたら、一応声を掛けて」と仰ってくださったのです。傍らでは、同じミュージシャン仲間の下館さんが(彼は、音祭りの企画に陰ひなたとなって協力してくれた功労者です)、「とても無理ですよ」と私に小声で忠告してくれていました。

そして、いよいよ企画が固まってきた頃、本来の金額ではとうていお願いできないような厚かましいお願いをしたにもかかわらず、採算度外視、しかも職人肌の内容重視と心意気で、数人のアシスタントとともに、泊まりがけで当日の照明を引き受けて下さいました。そのおかげで、本当に素晴らしい照明のステージにすることができました。

北谷さん曰く、「日頃セレニティの活動のことを(下地さんから)聞いているから」と、温かいご理解を頂けたことが、とてもうれしかったです。その橋渡しをしてくださった、下地さんやマネジャーのOさんのおかげでもあります。

音祭りは、こうした目に見えないところで、皆さんからたくさんの贈り物を頂いてできたものなのだと、今でも思い返すと感謝の気持ちでいっぱいになります。

北谷さんのお仕事ぶりは、舞台裏でちょっと拝見しただけですが、厳しく、熱く、「職人」を感じさせました。

「2200kmを結ぶ!音祭り」

また、いつか下地さんライブなどでお目にかかれるだろうなあと思っていたのです…。
でも、その北谷さんが、5月下旬に急逝されたとの知らせを、つい最近聞かされました。まだ、私よりずっとお若い方です。元気なお顔が浮かんできて、にわかには信じられませんでした。

先日の、手塩研のメンバー浜田先生といい、このところ、ご縁のあった方々とのお別れが続いてしまいました。やはりお別れは辛いです。

改めて、音祭りの照明に感謝しつつ、北谷さんのご冥福を心よりお祈りいたします。合掌