セレニティカウンセリングルーム

カテゴリー 『 雑感 』

歌で涙が・・・

先日、「フタバから遠く離れて」という映画を見ました。東日本大震災で被災した福島県双葉町が埼玉県加須市に避難してからの日々を追ったドキュメンタリーです。その中の一場面に、自衛隊の音楽隊が慰問に訪れて演奏する様子が映されていました。

楽隊をバックに隊員の男性がマイクを持って歌います。曲は「寅さん」だったでしょうか(たぶん)?ついで、福島県か双葉町の歌でしょうか?曲調と歌詞から判断して(たぶん)。これら歌の場面はほんの数十秒だったのですが、耳にしたとたんに、なぜか涙がこぼれてしまったのです。

私は特に寅さんのファンでもありません。特別に双葉町に対して深い思い入れがあるわけでもありません。確かに埼玉県に避難してこられた唯一の自治体という意味では、当初より関心は持っていましたが、しかしだからといってことさら双葉町に、まして町の歌に関心があったわけでもありません。にもかかわらず、曲を聴いたとたんに、なぜかわかりませんが、涙がこぼれてしまったのです。自分でもビックリしました。なぜここで?!

何の涙なのか自分でもわかりません。おそらく、そうした言葉にできない気持ちを涙が代弁してくれたのでしょう。

直接被災したわけではない私であっても、震災以来の被災地での過酷な体験談を聞いたり、今に続く原発や放射能にまつわる情報や今後の対応などを考える中で、知らぬ間にため込んでいた緊張もあったと思います。そうした諸々の思いが含まれていたような気がします。そうしたすべてが、音楽によって一気にあふれ出てきた、そんな感じだった気がします。

音楽の持つ力というものに改めて感心しました。言葉にできない思いを表してくれる手段だということがまさに実感できました。

そして思いました。

歌える人、いいですね!
楽器の演奏できる人、素敵ですね!
どうかたくさんたくさん、私たちの周りに音楽をあふれさせてください。
機会があれば歌ってください。
演奏してください。
音楽を聴いて、氷が溶けるように気持ちが外にこぼれたら、私たちはお互いにもっとゆったり生きられるような気がします。

ヨーロッパの街角のように、もっと音楽が身近にあったらいいなあというのは、私の昔からの願望なんです。

声が出ない体験

お久しぶりです!
今日は暖かでホッとしました。

先月、珍しく風邪をこじらせて、一時はまったく声が出なくなったもので、以来寒さにはちょっと敏感になっています。そんなわけで、「暖かくして、無理なく過ごそう」を言い訳に、いつも以上に怠惰な生活に甘んじている感無きにしもあらずのこの頃です。

実際、声が出ないという体験は生まれて初めてでしたので大いに戸惑いました。「失って気づくありがたさ」と言いますが、まさにそれでした。声が出せるということがこんなに有り難いとは!

その数日前から喉が痛かったのですが、いつものようにそのうち治るだろうと高をくくっていたのがいけませんでした。ある朝起きたら、まったく声が出ないのです。その日は大学の相談担当日。慌ててメールで午前担当の方に連絡し、何とか別の日に振り分けてもらうなど対応していただくことができました。

とはいえ、学年末で相談日数も残り少なくなっていた時期でしたので、休んだのは一日だけ。週の後半は大学に行きました。そして、ささやき声で相談に対応しました。
「ごめんなさい。こんな声しか出ないのですが、大丈夫ですか?」と学生さんに尋ねると、「大丈夫です」との返事。「では次回に」という人は一人もいなかったので、ささやきながら相談に対応しました。すると、なぜか学生さんもささやき声になったりして・・・^^)

今では幸い、声はすっかり元に戻りましたが、声が出ない時に無理に出そうとすると元に戻らなくなることもあるそうですので、皆さまもくれぐれもお気をつけくださいね。
私の場合、「歳を考え体調管理せよ」というサインですね、きっと。

さあ、春になるまでもう少し。心も体ものびのびと過ごせますように・・・。

「ワクワクドキドキ」を大切に!

明けましておめでとうございます。

年末にバタバタしているうちに、締めくくりのご挨拶をする間もなく年が明けてしまいました。新しいスケジュール帳に新年の抱負などを書くのが自分の中の年中行事みたいになっていたのですけれど、気づくと去年も今年もやっていませんでした。その気力が出てこなかっというか、やはり311のいろいろな意味での心理的ダメージが大きかったことに今更のように気づきました。

震災と原発事故は私にとって向き合わなければいけない課題でありながら、まだ整理がつかないままでもあります。向き合うことでたとえ気持ちが落ち込むことがあったとしても、そこからしか次の一歩は踏み出せないとも思います。ですから、この間の重い気持ちそのものも必要なプロセスでした。

そして新たな一年を前にして、まだ言葉にすることはままならないながらも、ほんの少しずつ夢や希望といった言葉に心を寄せる自分がいます。重い部分も抱えつつ、同時に夢も希望も語れるような年にしていかれたらと思っています。

。。。。。

さて、私の好きな言葉に、海洋生物学者レイチェル・カーソン(「沈黙の春」の著者)の「センス・オブ・ワンダー(sense of wonder)」という言葉があります。自己流で「ワクワクドキドキ」と勝手に解釈しているのですが、言ってみれば、誰もが子どもの時に持っていたあの新鮮で生き生きした感覚のことです。新しい物や出来事に触れたとき、好奇心いっぱいに目を輝かせて集中する力、自分の中から自然に湧き出てくる直感的で原初的で力強い、自分を動かす力の元でもあります。

カーソンの言葉を借りれば「神秘さや不思議さに目を見張る感性」です。そしてカーソンは、教育の文脈でこんなふうに言っています。親たちが「自分に豊富な知識がないために子どもに教えてやることができない」と嘆くのに対して、

「『知る』ことは『感じる』ことの半分も重要ではないと固く信じています」

と言い、子どもと一緒に体験し、感動することの重要性を説いています。知識を与えることよりも、まずは体験し感動することの方が大事、と言っています。感動する体験こそが、やがて子ども達の中に知識を取り入れ、育てていく肥沃な土壌を育てることになるのだとも。

。。。。。

大学の相談室でもこのことは実感として感じます。
「この学科が適切であったか」「大学院に進むか就職するか」「自分はどんな仕事をしたいのか」など、迷いの中で学生は選択を迫られ、自分の気持ちを問わないわけにはいかなくなります。そこで初めて、学校教育の中で先送りしてきた<自分で選ぶ>という場面に行き当たって悩みます。それまでのように、親や教師や塾の講師に決めてもらうわけにはいきません。こうした自分自身の選択の場面に至って、自分が何をしたいのかわからないという学生も少なくありません。

(彼らが望んでそうなったというよりは、そうした学校教育システムになっているためです。このことは重要な問題ですが、ここでは省きます)。

とはいえ、そんな彼らの中にもちゃんと「センス・オブ・ワンダー」は存在するのです。が、日頃使っていない感覚なので、彼らの中では眠っていて、意識しないと気づくことができません。カウンセリングを進める中で、次第に学生達の気持ちに変化が起き、本来持っていた力が蘇り、「ワクワクドキドキ」の感覚が戻ってくるのです。

学生相談とは、いわば眠っている「センス・オブ・ワンダー」を呼び覚ますための作業なのかもしれません。カウンセリングはもともとクライアント自身が持っている力を発揮できるようお手伝いすることなのですから、当然と言えば当然ですが…。

私自身もワクワクドキドキの感覚を思い出しながら、より元気になれる年にしたいなあと思います。

今年もよろしくお願いいたします。

今年が皆様にとって良い年となりますよう・・・。

キャンパスも秋

抜けるような青空。大学のキャンパスは比企丘陵の頂上に位置しているので、空を遮る物がありません。冷たくなってきた風が吹き抜け少し寒いですが、気持ちの良い秋本番の到来です。

今週末は学園祭なので、大学の相談室はお休みです。大学で参加する人、郷里に帰る人といろいろ。

下の写真は玄関前の看板。写りが悪くてすみません。第〇〇回△△祭の看板が毎年新しい実行委員会のもと作り替えられます。

今年の看板のインパクトはなかなか。実物は鮮やかな原色が自然に映えて美しかったです。


晩夏のつれづれに

今日から9月。すっかりブログの更新がお留守になってしまって、失礼しました。連日の猛暑は、「これでもか、これでもか」と体力テストを強いられている感がありますが、どうにかこうにかやっています。
皆さんはお変わりありませんか?

天下国家の動きもここのところすごいですねえ。目まぐるしい速さでいろいろなことが展開し、十分に吟味したり、考えをまとめたりできないまま、日々の流れに乗せられていく感じです。昨年の3月11日から、ものごとの本質が露わになってきたように思います。

そして、こうした混沌とした時代であるからこそ、基本的なこともまた露わになってくるとも言えます。それは、どんなときも基本は一人ひとりの心の中から始まるということです。必要なのは、耳目を惹きつける大げさな言葉や、他者の声をかき消すような大声ではなく、真摯で誠実な言葉なのだと思います。それは、心の底からの、本質を捉えた静かな訴えの中にこそあると思っています。つまり、一見、非力に思われる私たち一人ひとりの心からの願いや希望がこの混沌とした世界を変えていく源泉になると信じています。

ときどき連絡をくれる福島の青年S君が、先日こんなことを言っていました。
「村興しをするに当たって、何から始めるか、何をめざすかを考えていくと、むしろ全体の大きな枠で考えるのではなくて、一人ひとりの個人がどんなことを考えているのか、何を大事にしているかを考えていくことになるんじゃないかと思っています。一人ひとりが大事にしているものを大事にできる共同体をつくること、そういうことなのかなあと」

一から始める復興は(というより失ったものの癒しと回復から始める、むしろマイナスからの復興かもしれないけれど)、立ち上がる一歩はそこ(=個人の声に真摯に耳を傾け、思いを共有するところ)からしか始まらないし、それこそが今現在待望されていることだと思います。
ことは福島だけに留まりません。日本全体、ひいては世界に共通する課題として、個人の願いと希望に光を当てていくところから始まっていくのではないかと思います。

話が大きくなってしまいましたが、混沌としているときこそシンプルに捉えることで本質が見えてくる気がします。一人ひとりの声を聞くことの最初の作業といったらなんでしょうか?それは自分自身の声を聞くことですね。自分に正直であること、自分の声に耳を傾けて言葉にすること。嫌なものはイヤとハッキリ言い、おかしいことにはおかしいと意思を表明し、嬉しいことや喜びを表現すること。そんな当たり前と思えることをコツコツと、できるところからやっていくことが、急がば回れの近道ではないかと、そんなことをS君との電話の後で思いました。

長々と述懐してしまってすみません。つい、気になってしまうんです、将来の日本のこととか(明日の自分のことも分からないのにね・・・苦笑)。年齢的なこともあるかもしれませんね。この歳になると、孫やその次の世代のこととか、気になるものなんですよ。ということで、独白的言及、お許しください!

残暑もきっとあと少し、ご自愛くださいませ。