セレニティカウンセリングルーム

カテゴリー 『 雑感 』

「聴くことって大事」を痛感

セカンドオピニオンを求めて、歯医者さんに行ったときのこと。

きれいな個室の診察室、最新の設備、治療を待つ間、椅子から見える位置の液晶画面には映画まで流れている。ややあって先生が登場。

口の中を見て、幾つかの質問をされ、やりとりした後、こちらが気になっていることを話した。すると、先生が眉間にシワを寄せて言われた。

「おっしゃっている意味がわからないんですけど…。」もっと上手く説明してよ、困っちゃうなあ、という感じ(に思えたし)。で、言葉は感情を抑えている分、表情に不快感が現れている(と思えた)。

私も困ったなあと、言葉を換えて再度症状を説明してみる。
が、先生はさらに首をかしげて、
「え?どういうことを言われてるんでしょうか?」(ガーン!まったく受け付けられず、はね返される感じ。)

私はさらに困って、それでは具体例をと、再度表現を変えて説明してみると、

先生「当然そう言うことはあります。でも問題じゃありません」と言下に否定された。
私「○○・・・で、□なんですが・・・。」と、再度症状を訴えるが、
先生「問題ないです。」
私、「△△・・・    」なおも何とかわかってもらおうと、がんばって説明する。
先生「それは別に問題じゃないです。何か気になりますか?」(気になるからこうして説明しているのに~)
そんなやりとりを何回か繰り返すうち、私は次第に言い換える言葉が見つからなくなり、虚しい気持になってくる。

そして、ついに、
「そうですか、(これ以上話しても無理ということが)わかりました。」と私。私からやっと「わかりました」という言葉が出て安心したように、ではこれで、みたいな感じで先生は出て行かれた。

先生が出て行った後(よくわからないが、ここでは先生が治療の部屋を廻るらしい)、アシスタントの女性が笑顔で言った。「何かほかに気になることはありませんか?」

。。。

はあ、。。。もう。。。。いいです。

歯医者を後にしつつ、カウンセリングの場面でクライアントの方からときどき耳にする言葉を思い出した。

「家族がわかってくれない、聴いてくれない。こっちが話し出すと、それは○○が問題だ、だからああだこうだと説明したり、説得しようとする。だから苦しい。聴いてほしいのに」と。

ご家族は早く元気になってほしいと思うあまり、解決策をあれこれ出されるのだろう。でもその前に辛さをわかってほしいのだ。聴いてほしいのだ。、

歯医者の帰り、この言葉を実感として思った。問題解決の前にまず聴いてほしいということ。それができると問題の半分くらいは解決できることさえある。

これはこの歯医者さんに限らず、私たちが他人に対して、日常何気なくやってしまっていることのように思う。

ふだんの親子の会話から、訴訟や裁判になる社会的な問題まで、最初の段階でこの「聴く」姿勢のあるかないかによって、その後の状況が大きく変わってしまう。

私もカウンセリングの場面ではいっそう肝に銘じなければと、「聴く」ことの大事さを改めて気づかされたできごとでした。(そうそう、家族に対してもね ←これが、むずかし~ ^ ^;)

人間関係あきらめずに、嫌わずに

「人間が何人か集まればイヤなこともあるし、トラブルもある。意見がぶつかってもいいし、やりあってもいいんだよ。
それに、イヤな人間ばかりじゃないよ。
一度きりの人生、自分がイキイキできるように、生きていこうよ。」

また言ってしまった!

学生さん達と話していると、おとな達からいじめられた経験を少なからず聞かされる。おとなの一員として何とも返事のしようがない。彼らは、それで人間不信に陥ったり、傷ついた体験を誰にも言えず持ち続けた結果、疲れ果てていたり…。

それでもあきらめずに、人間関係をつくっていってほしい。
人を嫌わずにいてほしい。
そう願って思わず力が入ってしまう。

もちろん私自身できる協力は惜しまないつもりだけど、実際はたいしたことはできない。

たいしたこともできないのに、元気出せと言っているハチャメチャな理屈。でも、応援しているおとなの一人として何かが伝わってくれれば……と思う。

ああ、カウンセリングは無力かも?…、と思ってしまう瞬間だ。

国際野外の表現展

前回、大学のキャンパスで繰り広げられていた展示会はこちらです。

「国際野外の表現展2007比企」

ちょうど日記を書いた14日までの催しだったようです。
来週後半だったら時間ができて観られるかなと思っていたのですが、考えてみたらそんなにいつまでもやっているわけありませんね。

大学ももうすぐ学園祭ですし、絵画展もフェルメールとかムンクとか大きな催しがあれこれあるようで、まさに<秋>、ですね。

秋ですね 野外展覧会

通りのあちこちからキンモクセイの香りが漂ってきて、秋を深々と深呼吸したい気持になります。

この間など、大学の相談室から通路に出たとたん、キンモクセイの香りがほわ~っと…。ビルの三階、しかも通路も外部とは仕切られているにもかかわらず、です。

吹き抜けのホールから風に乗って吹き込んできたのでしょうか。

この時季、大学の校内にはさまざまな芸術作品が展示されています。毎年、国際野外展覧会(正式名称は?)の会場になっているのです。

建物内外に、布や金属、竹や木、紙など、素材もバラエティに富んだ大小さまざまな作品が展示されていて、キャンパス全体がちょっとしたミュージアム状態です。

「これは何?」と思うような作品もあって面白いです。

とはいえ、帰りを急いでしまってじっくり見ていないのが現状なのですが…。

それでも、吹き抜けのホールに掛け渡された彩り豊かな布の作品は、目にするたびにさわやかで、一年中展示しておいてほしいなあと思うくらいです。

今日はこれから定例のアサーション・トレーニングです。「セレニティ通信」も目下編集中。

それでは、・・・行ってきます。

絵本の並べ方

ある図書館でのことです。

児童書のコーナーに行き、絵本の棚から一冊抜き出そうとしました。

ところがどうでしょう、隙間なくギッシリ並べられた絵本はとても片手で簡単には引き出せません。一方の手で本と本の間を押し広げて、やっと一冊抜き出すことができました。戻すのもたいへん。さっきと逆に、本の間を押し広げて、間にねじこむように戻さなくてはなりません。

ここは絵本の棚です。子どもの目線の低い位置に作られた棚です。その棚がこんなにギッチリなんです。
おとなの私でさえそうなのですから、子どもがサッと引き出すのはとても無理でしょう。

おまけに、絵本は表紙を見て選ぶことも多いのに、ビッシリ並んでいては背のタイトルしか見えませんし…。

その日は平日の午後早い時間でした。
もっと混んでいると思って覚悟して行ったのですが、拍子抜けするくらいガランとしていました。3歳くらいの女の子とお父さんが一組だけ。

でも、なんだか理由がわかった気がしました。

パラパラとめくって楽しめる絵本。
字が読めなくても、手に取りたくなる本。
何となく手にした絵本がお気に入りの一冊になることもあります。
たまたま手にした一冊が面白かったからという理由で、図書館通いが始まることだって…。

キッカケなんて案外単純なものかもしれません。
それには気軽に手に取れること、これがまず第一。
簡単に抜き出せないほどギッシリ並んだ絵本では、そんな楽しみから遠ざかってしまいそうです。

子どもに歓迎されていないのは、こんなちょっとしたことが原因なのかもしれないと思いました。

いや、でも、よーく考えてみたら、これってちょっとしたこと?些細なことなのでしょうか?

当の子どもにとっては些細なことなんかではなくて、もしかしたら、一番大事なことかもしれません。だって、
「物理的に」手に取りやすいかどうか、ですから…。並べ方一つで、利用しやすいかどうか、何度も通いたくなるかどうか、決まってくるのかもしれませんね。