セレニティカウンセリングルーム

カテゴリー 『 雑感 』

雲、暮れゆく年の瀬に

大学のキャンパス。

雲の形に目を惹かれました。

11月下旬のこと。

 

 

 

 

今年は遅い紅葉でした。

例年だとすっかり葉を落としている時季なのですが・・・。

12月2日。

 

 

 

 

12月3日。

夕日に染まる雲。

 

 

 

 

今年も残りわずかになりました。ここへ来て大学の相談室が結構忙しい。大好きなフィギュア(スケート)も観なくてはいけないし、冬休みには孫達が遊びに来るのでその準備も。っと、大したことはしていないのになんとなく気ぜわしい年の暮れです。健康に感謝しつつ、しっかり仕事納めを、と思っています。

皆様もどうか良いお年を!

稲穂

近所の田んぼ。

実際はもっと冴え冴えとした濃い緑だったのですが、写真の撮り方がへたで・・・。あんまり美しかったのでつい写真に撮ってしまったのに、これでは伝わりませんね。想像力で補ってくださいね(T_T)。

 

「実るほど頭(こうべ)を垂れる稲穂かな」

母が諺とか四文字熟語が好きな人で、子どもの頃、よくいろいろな言葉を聞かされました。その中の一つがこれ。↑

稲穂を見ると、確かにそんな言葉が浮かんでもおかしくないなと思います。昔の人はうまいこと言うな~。

稲穂を見習おう。素直にそんな気になる。

秋色

先日、久々に東京タワーが間近に見える公園を訪れる機会がありました。

この公園も、例年であればとっくに落ち葉で埋まっているのでしょうが、今年はこんな感じ。

赤や黄色の葉をつけた樹木もあれば、枯れて茶色に縮れた葉っぱや、まだ緑色の残る広葉樹もあって、暖かい今年はいつもの秋とはちょっと趣が異なるようです。

でも、そういえば、去年もこんな感じだったような気がします。去年も今年も、大学の銀杏の並木道は美しい黄色に染まることもなく、緑色が色あせて薄茶色になり、そのまま樹上で縮れていつの間にか落ちていく、みたいな変化の仕方でした。

 

これから毎年こんなふうだと、ちょっぴりさみしい気がします。

夏から秋への温度変化が、順調に、また一気に気温が下がるほど美しい紅葉になるそうなので、そういう条件の整わない場合は仕方ないのですけれど・・・。

 

 

 

 

大学のキャンパスもこんな感じです。

以前は一気に赤茶色の葉に変わって、なかなか壮観だったんですよ。

とは言え、

考えてみると、自然は無理してないですね~。

「なるべきときに、なるように・・・」
あるがままに生きています。

見習いたい!

けど、できない(笑)

 

 

こんな所に広大な原っぱが!

気づいたら、季節はすっかり秋も深まって。。。
今までで一番長いご無沙汰をしてしまいました。

この景色に接したときは、心の中でわお~っと叫んでしまいました。眼前に横一線この景色が広がっていたのですもの!

写真ではわかりづらいですが、遠くに見える高層ビルはさいたま新都心付近のビル群です。そこからほんの少し足を伸ばしただけで、こんなに静かな野原が広がっているのを初めて知りました。11月だというのに、暖かいせいかまだ緑が多いですね。

この原っぱの脇に1本の細い道があって、そこを通ってお仕事に行く機会が最近できました。そのことでたまたま知ることができた道なのですが、仕事の帰りにこの広い原っぱに沿って続く小道を、10分ほど歩くことができるのは結構楽しみになっています。

実は、歩きながら見える景色の片側はこんな感じですが、道を挟んで反対側はこの景色とは一変して住宅街なのです。

でも、この写真だけ見るととてもそうは思えませんよね。それもまた面白いところです。

そしてこの原っぱには何もないのですが、それがまたいい。

いえ、正確には何もなくはないです。
この草地沿いに10分ほど歩くと、広い道路に出る直前=つまりこの原っぱの一角に、小さな公園があるにはあります。でも、それ以外は何もありません。今や何もない原っぱや空き地は都会では貴重な存在ですね。

先日、私がその小さな公園の脇を通ったときは、うっそうとした樹木の間のベンチで数人のお年寄りがおしゃべりしていました。

そして原っぱが途切れて広い道路に出ると、途端に人と車の喧噪の世界が始まります。

 

 

それまでのほんのわずかの異空間。私には深呼吸のように心地よく、貴重な時間に思えます。1ヶ月後、ここを通るときに景色がどのように変化しているか、それもまたささやかな楽しみになりそうです。

静寂と喧騒

ずいぶん長いことご無沙汰してしまいました。ごめんなさい。

落ち着いてパソコンに向かう余裕がなく(時間的にというよりは気持ち的に)、気がつくと2ヶ月以上もご無沙汰していました。

(写真は大学のキャンパスで仰いだ青空)

 

5月下旬に弟が亡くなり、闘病中だったとはいえ突然のことでショックでした。訃報を聞いて真っ先に思ったことは、死って静かだなぁということ。

訃報を耳にする一瞬前までは、希望・期待・不安・怖れなどなど、いろいろな感情が交錯して気持ちはザワザワしていました。そこに飛び込んできた訃報、亡くなったと聞いた瞬間、時が止まり物音一つない静寂の世界に一人ポツンと佇んでいる感覚。

本当に静かで、ただひたすらな静寂。
思えば生きていくことそのものが饒舌な世界での営みなのだと今さらながら知ることとなりました。絶え間なくおしゃべりを続けているかのような喧騒の世界に生きているのが私達の日常なのかもしれません。

☆  ☆  ☆  ☆  ☆

多少なりとも、ふだん瞑想に親しんでいれば、身近な人の死に臨んでも死の受け入れ方も悲しみも薄らぐのではないかと思っていたのですが、そんなことは全然ありませんでした。ショックなものはショックだし、悲しいものは悲しいままでした。

でもそれでよいのだと・・・。
悲しいときは悲しむしかない。そして、そういう自分を見ていればよいのだと。
瞑想とはそういうものだそうです。

ただ、こんなふうには思います。瞑想を通して、死を深いところで受け止められているのかもしれないと。重層的にと言うのでしょうか・・・。やはりなんだかんだ言っても、瞑想は私にとって欠かせないものになっていることは間違いないようです。

 

 

 

近所の田んぼ。冴え冴えとした緑が美しい。

田植えの季節には子どもたちがカエルを覗きに来ていました。