カテゴリー 『 心理・精神 』
あれから一年
夕暮れの帰り道、見上げた空がこれ。
なんて素敵な色合い!オレンジ色とブルーの縞模様が空一面に広がって・・・。
秋の空は朝から晩まで、一日中、いろいろな顔を見せてくれて、見飽きることがありません。
今年は夏から秋へと、行ったり来たりしていたような・・・。
行きつ戻りつしながらゆっくり季節が移り変わっていく・・・そんな秋。
☆ ☆ ☆
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個人的には、9月はそれこそアッという間に過ぎてしまった気がします。気づいたら10月。カレンダーも残り2枚だけ。早いなあ~。今年何か成長したことあったかしら?(お腹の周りだけだったりして^^;)
たった一つだけ、一年前に始めた毎日の瞑想が、まがりなりにも一年間続きました。奇跡です!
朝、一日が始まる前に、15分だけ座る=瞑想することにしています。瞑想とはいっても、大半の時間雑念に振り回されているのですが・・・(泣)
ただし、めげずに2年目に突入します。ほんの一瞬の(雑念でない)瞑想が垣間見えた瞬間を希望にして。なぜ続いているのかわからないのですが、やっぱり何か、何かいいんです。落ち着くというか、大事な何かに出会っている気がするのです。
うまく説明できないのですが、それがあるとないとではやはり何か違ってくるような・・・。理屈ではなく、何となく続いている、何となくやめる気にならない。そんな消極的な動機なのですが、とにかくいまや自分の生活の一部になりつつあります。
それにもかかわらず、いざ座って瞑想をとなると、あれやこれやの雑念に振り回られて、15分終了のチャイムがなって、「あ~あ、今日もまただ~」
と、少々のガッカリ感を感じつつ、気を取り直して「よし、明日こそ!」と思うのでした。リセットする感覚で。
そしたら先日、瞑想の師匠に言われた一言。
「明日はないですよ。いつでも今日が本番」
ク、ク、ク~~~(泣)
そうなんですよね~。
そう、まさにそう。だから、今日のこの一瞬を大事に、ですね。
反省したり嘆いたりする間があるなら、今のこの一瞬に全力を注ぐ・・・そう切り替えて、瞑想しているつもりなのですが、すぐにまたあれこれ考え始めるという無限ループに入っていくのです。
でも、でも、またあきらめずに一年間、いえ、この一日を、一瞬を生きることにトライしようと思います。
何度挫折しようが、気にしない、気にしない。
巣立つ学生の、心に残る何かを
だいぶ日が長くなりましたね。
陽射しもすっかり春です。
もうすぐ新学期が始まります。
先週、久しぶりに用事があって大学に行って来たのですが、
実験や研究、または部活動のために来ている学生がパラパラというくらいで、ひっそりとしたキャンパスはのどかな庭園の趣でした。
そんなキャンパスの小道を抜けると、これまたひっそりと、梅の花が咲いていました。
姿はひっそりでも、香りはしっかりと高貴な存在感を放っていました。
凛とした美しさ。
梅の花を見ると、
「凛とした」という表現が、
これほどピッタリした花もないのではないか、と思ってしまいます。
梅が終われば、桃、桜と、春が駆け足でやってきますね。
春といえば、出会いと別れの季節でもあります。
今年も相談室で出会った学生達がそれぞれの進路に向けて巣立って行きました。卒業、休学、退学など、試行錯誤しながら、それぞれが迷いながら確かめながら歩いていく道。
この先の長い人生の中で、あの相談室での、あのときのこと、あの一言、それが人生で生きてくる、そんな何かを持ち帰っていてくれたらなあと思います。相談の中で、そのような対応ができるようにというのは、私自身の指針でもあります。でも、彼らが大学の相談室から何を持ち帰ってその後の人生に生かしてくれるかは、確かめようがありません。
しかし、ときにはこんな嬉しいことも。
ある年、卒業も間近に迫った相談室でのこと。相談が終わっての帰り際、女子学生が鞄から小さな袋を取り出しました。
「この前、部活で〇〇へ行ったんです。少しですけど・・・」と、うつむいて照れながら差し出された小さな包み。学業も部活も行きつ戻りつ、恐る恐るの半歩、一歩。それでも諦めずにねばり強く続けて、卒業、就職までこぎつけてきたこれまでが思い出され、感無量でした。
シャイな彼女には、おみやげを手渡すこと自体かなり勇気がいっただろうと思うと、この小さな包みがいじらしく見えました。
家に帰り開いた包みには、一口サイズのかわいらしいお菓子が入っていました。小さなお菓子をさらに小さく切り分けながら、一口ずつかみしめ、味わって頂きました。格別のおいしさでした!
あと2週間もすれば、新入生を迎えて、また新たな一年が始まります。
菩提樹
皆さん、ご覧になったことありますか?
菩提樹(インド菩提樹)。
釈迦がこの木の下で悟りを開いたことから、この名前が付いたとか。
葉の先端が細く伸びているのが特徴だそうです(写真はクリックすると大きくなります)。
温室育ちです(新宿御苑の温室にて)。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
私は初めて見たのですが、日本人にはあまり馴染みのない木であるのは確かですね。
でも、菩提樹という名前自体は、身近で見ていないにもかかわらず、子どもの頃から知っていました。確か中学か小学校の頃に、音楽の教科書にシューベルトの歌曲「菩提樹」が載っていたからではないかと・・・。
「 泉に沿いて 茂る菩提樹~ ♪ 」と文語調の日本語歌詞でした。この歌のせいか、「菩提樹」には重厚な印象があったのですが、ご覧のように全然そんな感じはしませんね。
菩提樹つながりでもう一つ。
新宿御苑で菩提樹を目にした日、ランチでドリンクバーを利用したのですが、ハーブティのティーバッグの中に、あまり見慣れないお茶があったので選んでみました。袋の説明を見ると「菩提樹」と書いてあります。袋には細かく砕かれた木片がパラパラと入っていて、お湯を注ぐとほのかに森の香りというか、檜のお風呂の芳香がしました。
こんなふうに菩提樹に縁のある不思議な一日でした。
ここでちょっと気になったのは、、、、、
「菩提樹」の名前の由来は、お釈迦様がこの木の下で悟りを開いたことから来ていると言われています。だとすれば、本来亜熱帯地方の樹木なはず。現に、日本では温室栽培ですからね。それなのに、なぜシューベルトの曲に登場するのかしら?
ということで調べてみたところ・・・。
シューベルトの歌曲に登場する菩提樹は、「リンデン(西洋菩提樹)」と呼ばれ、お釈迦様に由来する菩提樹とはまったく別種であることがわかりました。リンデンと聞いて、私が思い出すのは「リンデンバウム」です。
昔、そんな歌がありましたね。ワンフレーズがパッと浮かびます。
「 リンデンバウムはわたしの頬に 伝う涙を知っている ♪」だったかな?
「リンデンバウム」で検索を掛けると、梓みちよさんのきれいな歌声がyou tubeで聞けます。私の覚えていた歌詞は、三番の歌詞の一部とわかり、そんな終わりの方の一部分だけ、なぜ印象に残っていたのか私にもナ ゾです。
すみません、どんどん話がそれていってますね。
結局、「インド菩提樹」とティーバッグの「リンデンバウム」はまったく別の種類だということがわかったわけです。この日はリンデンバウムのお茶を飲み、インド菩提樹を見てお釈迦様の樹下の瞑想姿を思い浮かべたのでした。
そして、、、、
この日から、私の一日15分の瞑想がスタートしました。何とか今のところ続いているんですよ、奇跡的に!
と書くと、インド菩提樹のおかげかと思われるかもしれませんが、そういうことではなく(それも間接的にはあったかもしれませんけど)、ちょっとした出来事のおかげでした。それはまた筆を改めて・・・。
「ワクワクドキドキ」を大切に!
明けましておめでとうございます。
年末にバタバタしているうちに、締めくくりのご挨拶をする間もなく年が明けてしまいました。新しいスケジュール帳に新年の抱負などを書くのが自分の中の年中行事みたいになっていたのですけれど、気づくと去年も今年もやっていませんでした。その気力が出てこなかっというか、やはり311のいろいろな意味での心理的ダメージが大きかったことに今更のように気づきました。
震災と原発事故は私にとって向き合わなければいけない課題でありながら、まだ整理がつかないままでもあります。向き合うことでたとえ気持ちが落ち込むことがあったとしても、そこからしか次の一歩は踏み出せないとも思います。ですから、この間の重い気持ちそのものも必要なプロセスでした。
そして新たな一年を前にして、まだ言葉にすることはままならないながらも、ほんの少しずつ夢や希望といった言葉に心を寄せる自分がいます。重い部分も抱えつつ、同時に夢も希望も語れるような年にしていかれたらと思っています。
。。。。。
さて、私の好きな言葉に、海洋生物学者レイチェル・カーソン(「沈黙の春」の著者)の「センス・オブ・ワンダー(sense of wonder)」という言葉があります。自己流で「ワクワクドキドキ」と勝手に解釈しているのですが、言ってみれば、誰もが子どもの時に持っていたあの新鮮で生き生きした感覚のことです。新しい物や出来事に触れたとき、好奇心いっぱいに目を輝かせて集中する力、自分の中から自然に湧き出てくる直感的で原初的で力強い、自分を動かす力の元でもあります。
カーソンの言葉を借りれば「神秘さや不思議さに目を見張る感性」です。そしてカーソンは、教育の文脈でこんなふうに言っています。親たちが「自分に豊富な知識がないために子どもに教えてやることができない」と嘆くのに対して、
「『知る』ことは『感じる』ことの半分も重要ではないと固く信じています」
と言い、子どもと一緒に体験し、感動することの重要性を説いています。知識を与えることよりも、まずは体験し感動することの方が大事、と言っています。感動する体験こそが、やがて子ども達の中に知識を取り入れ、育てていく肥沃な土壌を育てることになるのだとも。
。。。。。
大学の相談室でもこのことは実感として感じます。
「この学科が適切であったか」「大学院に進むか就職するか」「自分はどんな仕事をしたいのか」など、迷いの中で学生は選択を迫られ、自分の気持ちを問わないわけにはいかなくなります。そこで初めて、学校教育の中で先送りしてきた<自分で選ぶ>という場面に行き当たって悩みます。それまでのように、親や教師や塾の講師に決めてもらうわけにはいきません。こうした自分自身の選択の場面に至って、自分が何をしたいのかわからないという学生も少なくありません。
(彼らが望んでそうなったというよりは、そうした学校教育システムになっているためです。このことは重要な問題ですが、ここでは省きます)。
とはいえ、そんな彼らの中にもちゃんと「センス・オブ・ワンダー」は存在するのです。が、日頃使っていない感覚なので、彼らの中では眠っていて、意識しないと気づくことができません。カウンセリングを進める中で、次第に学生達の気持ちに変化が起き、本来持っていた力が蘇り、「ワクワクドキドキ」の感覚が戻ってくるのです。
学生相談とは、いわば眠っている「センス・オブ・ワンダー」を呼び覚ますための作業なのかもしれません。カウンセリングはもともとクライアント自身が持っている力を発揮できるようお手伝いすることなのですから、当然と言えば当然ですが…。
私自身もワクワクドキドキの感覚を思い出しながら、より元気になれる年にしたいなあと思います。
今年もよろしくお願いいたします。
今年が皆様にとって良い年となりますよう・・・。
「生」善説?
キンモクセイが咲き始めました。こんなに小さな花からあんなにゴージャスな香りが漂ってくるなんてウソみたいですね。
これから書こうとすることは言葉にするのがなかなか難しい問題です。私の中でもよく整理できていないからです。でも、何となく大事なことのように思うので、忘れないうちにここにメモ代わりに書いておきたいと思います。「何を言ってるんじゃ?」とわかりにくい部分もあると思いますので、その部分は適当にスルーしてください。
「性善説」という言葉がありますが、最近思っているのは「生善説」です。
<生命=つまり生きること=善>というものの見方といったらよいでしょうか。私が勝手に作った言葉ですが、私の中では「命は大事。だから、命があるうちは一生懸命生きるのが当然だし、生きるために努力することは良いことである」という考え方がごく自然にあります。だから、当然、自分の命も他者の命も大事にすべきなんだとなるのです。
でも、最近、時々大学その他で若い人と話していると、必ずしもこの考え方はすんなり受け入れられないのかもしれないと思うような問いに出会うことがあります。相手が悩んでいる若者である場合が多いので、それ故の問いということもあるかもしれませんが…。
それは、「なぜ生きなくてはいけないのか?」という問いです。
確か以前、「なぜ人を殺してはいけないのか」という若者の問いに、大人は答えられるかというような報道がにぎわった時期がありましたが、その質問とも違う、「なぜ生きなくてはいけないのか」という質問です。
私の中では、答えは簡単なのです。
「今、生きているから」
この一言で私の中では十分なのです。私が今生きているのは私自身の力によってではなく、何者かによって生かされていると感じています。それは、どんなに生きていたいと思っても自分の力で生きることはできないときがあるからです。与えられている命があるうちは、それは「生きなさい」というメッセージなのだから生きる。というごくシンプルな答えが私の日頃の考え方です。
「事故や病気で、どんなに生きたいと思っても生きられないときがあるのは、私たちが自分の力の及ばない何かによって生かされている存在だからではないか?」と、相手に返します。
しかし、質問した彼・彼女の中では少しもシックリこないらしく、「確かに、そう言われればそうなんですけど……」と言いつつ、次のような言葉が続きます。「生きていても良いことがあるとは思えないし…」「生きていて何の意味があるんですか?」など、もちろん各自少しずつ表現のニュアンスは異なるものの、将来に希望をもてない状態を語る言葉であることは共通しています。
「生きていることはそれだけで価値がある」「人の存在はそれこそが価値なのだ。あなたの存在そのものが」と伝えたい私のことばは空回りすることも少なくありません。
ではありますが、伝えたいことの十分の一、いえ百分の一も伝わらなかったとしても、やっぱり言えることは一つ。「あなたの存在は何にも代え難いもの、かけがえのない存在である」ということです。この言葉を信じるかどうかは本人次第ですが、言い続ける価値はあると思っています。同時に、若者がこの言葉を自分の言葉とできるような社会に近づけていく責任もまた、大人に科せられていることを痛感せずにいられません。
若者に向き合うということは、とりもなおさず自分の生き方を問われることなのだなとつくづく思います。そして現実社会への向き合い方を問われることでもあります。それは、ある意味シンドくもあるけれど、本質を見失わないための貴重なチャンスを与えられているとも言えます。
容赦なく、飾り気のない直球の言葉。それに対する知識や、感性や、時には私の存在そのものを総動員しなくてはならないような言葉の応酬は、表面的には何気ないやりとりのように見えて、実はスリリンなグ真剣勝負の場でもあるのだと、今、これを書きながら再確認しています。面談が終わってグッタリ疲れるのも納得といった感じです。
若者達は、詰まるところ、カウンセラーに相談云々ではなく、正面から向き合ってくれる大人を求めているのかもしれません。たとえ未熟な受け答えであっても、私の語った何かが、彼らの中の「生きる」という課題にほんのわずかでもヒントになり、希望につながる何かがあってくれたなら嬉しいなあと思います。