セレニティカウンセリングルーム

カテゴリー 『 社会 』

派遣村のニュースに光…新年のご挨拶

あけましておめでとうございます!

晴れた元日になりました。
新しい年の青空です。
自然界は変わりなく、昨日の続きの青空ですが…。

それでも、人間にはやっぱり区切りがあるほうがいいですね。延々と毎日が続いていたら、どこかで息切れがしているに違いないと、自分の日常を振り返っても思います。

何はともあれ、気持ちも新たに、この一年をスタートしたいと思います。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。

大晦日のニュースで、派遣切りされた人達へ、ボランティア団体が炊き出し支援した様子を伝えていました。

温かい食事を振る舞われた男性の一人が、目を潤ませて「本当にありがたいです。自分がここから立ち上がれたら、何かの形で必ずこのお礼をしたいと思います。来年もこれをやっていたら、自分もここに来てボランティアで手伝いたいと思っています」と、湯気の立ち上るドンブリを片手に語っていました。

人の輪(和)のありがたさを、一緒になって感じてしまいました。

どうかこの一年が良い年になりますように………。

化粧とカップラーメン…香りの誘惑

前回「ビパサナ」という瞑想について書きました。ブッダが考案した呼吸に注目する、とても簡単な瞑想法です。

目を閉じて、吐く息・吸う息に注目すればよいので、どこでもできます。

で、ある時、電車に乗っているときに試みることにしました。その日の車内はほぼ座席が埋まるくらいの混み具合で、混雑していると言うほどでもありません。当然、乗客の話し声もしますし、電車の機械音や外の音も耳に入ってきます。

でも、それらの音は車内全体の音として聞こえてはいても、目をつむって呼吸に注目すれば、そんなに意識の妨げにはならないように思いました。

私は座席に座って、電車の揺れと、適度な騒音に身を任せながら目を閉じました。
そして呼吸に注目します。
呼吸が、ゆっくりと気持ちを落ち着かせるリズムのように感じられ始めたちょうどその時、ツーンと鼻腔を刺激する匂いが漂ってきました。

きつい香水のような匂いです。

目を開けると、隣りに座った若い女性が化粧道具を取り出しています。そして、今まさに目のお化粧に取りかかろうとしているところでした。

この時わかったこと。
騒音は意識から遮断することはできても、匂いは無理だということです。化粧品の強い香りは気持ちを集中しようとしても、何の遠慮もなくこちらの意識を刺激してきます。

匂い・香り、これらは音よりももっとダイレクトに感知されてしまうのだと気づきました。それだけに、うまく使えば効果的だけれど、逆にマイナスに働くと、ある意味暴力的なくらいに相手に不快感を与える場合もあるかもしれないなあと…。

そういえば、帰宅途中の中学生(高校?)男子の一団が、車内でスナックやハンバーガーを食べる場面に出会うこともあるのですが、その時の匂いもけっこう強烈です。この間などカップラーメンです!

電車内がラーメンの匂いで一杯。
育ち盛り、伸び盛りだからお腹のすくのは分かるんですけど…。

こんなふうに、車内が化粧室や食堂になるのはどうなのでしょう?公共の乗り物でのマナーという意味で。

そんな疑問を持ちながら、注意するべきか否かで迷ったり、悩んだりするそんな自分にも歯がゆい。

ヘッドフォンの音漏れなら、指摘して音量を下げてもらうけれど、こういう場合はどうなのだ?アサーション・トレーニングだったらどうなるか?………などなど。
悩みます!

ビパサナどころではなくなってしまったのでした。

(続)お坊さんの講話(若者の場合は?)

テレビで見たお坊さんの話の続きです。

お坊さんに司会のアナウンサーが質問しました。
「とは言いましても、一度求めてみないことには、求めているものがすでに自分に備わっているのかどうかさえわからないと思いますけれども、いかがでしょうか?」

お坊さん「確かにそうです。実際、釈迦も6年間、探し回った末に、私たちのほしいものはすでに備わっているのだから求める必要はないと言われたわけですから」

(ここでは、お坊さん、ちょっと説得力がなくて分が悪いように思う)が、それでもかまわず「すでにあるのだから、求めなくてよいのですよ。」と念を押される。

そこでふと思い出した、
ある若者が以前、こんなことを言っていました。

悩んでいるその青年に対して、ここでのお話のように「すでに、人は生きているだけで意味のある存在だと思う」というようなことを私が言ったときのこと。

「年をとってからなら、そうも言えるだろうけど、今の自分にはとてもそんなふうには思えない。」と言われました。

だからお坊さんの話は、やはり年齢によっても違った聞こえ方がすることだろう。人間の存在そのものに価値があるとしても、その上でやはり、若い人には特に、何かやるべき事が必要だと思うのです。

それがたとえ「当面」のことであってもよいから、「何か」があれば日々が過ごせるはずです。言い換えれば『自分が他者から必要とされる」何かが、必要になります。

それはやはり「人とのつながり」に行き着くのかなと思うのです。たとえそれがほんのちょっとしたことであったとしても、自分が必要とされる形で社会に関わり、自分も社会から関わられる。今、若い人達の多くに、そうした仕事(職業と言うのでなくても、ささやかな活動でも何でもよい)が求められているということではないだろうかと思いました。

それは単に労働力として消費されるのではない働き方や活動の仕方と言えるかもしれません。

報いを求めず、すでに自分に備わったもののすばらしさに気づくことは大事。同時に、そうした自身のすばらしささえ当たり前のように思わずにいられない、若い人の向こう見ずなくらいなパワーも否定されるべきではないと感じます。

お坊さんの含蓄のあるお話を聞きながら、世俗の些事に限りない愛着を感じている自分に気づいたのでした。悟りにはとお~~~い、ですね。

(以上、仏教に詳しい方が読まれたらメチャクチャな解釈かと思いますが…、思うまま。)

他愛ないオシャベリ

夏休み間近のある日、大学の学生相談室に、ヒョッコリ、A君がやって来た。A君は今年の卒業生だ。心身の不調で卒業できるかと成績を心配していたが、何とか無事卒業できたようで、私もホッとしていた。でも、就職先が決まらないと言っていたので、気にはなっていた。

「ちょっとだけ話していいですか?誰か来たら、すぐ帰ります。」

遠慮がちに言うA君。

持病もあり、対人関係も苦手、家族ともコミュニケーションがとれていないという状況で、一刻も早く仕事を見つけて自活したい。でも、仕事が決まらない。と、暗中模索の堂々巡りが何ヶ月も続いていた。

その日も、イスに座るやいなや、
「ダメです。決まらないッス。就職先、何度面接受けても、みんな落ちちゃって」

質問しながら、いろいろと現状を聞いていくが、聞けば聞くほど八方ふさがりの状態で、私としても掛ける言葉もない。学生相談なら、相談に乗りようもあるけれど…。卒業生では、話を聞いてあげるのがせいぜいだ。

「そう、困ったわね」と、一緒に考えこんでしまった。

すると、「迷惑がってません?」と訊いてきた。

「別に迷惑とは思っていないけど、何か有効なアドバイスもできないし、どうしたらいいのかと考えているのよ」
と正直に言った。

そして気持ちを切り替え、ズルッとした姿勢でイスに腰掛けたA君を見て、ふと、こんな言葉を投げかけたくなった。

明るい調子で笑いながら、問いかけた。
「もしかしたら、面接の時、そういう態度で行っていない?」

「ええー?行ってませんよ。そんなことはないっす。絶対にないッス。今だけですよ」と、笑いながら、「ありえない!」というふうに、猛烈に否定している。

私「そう、ならいいけど、態度は大事だからね。気持ちがあるなら、それをちゃんと表さなくちゃ。」

すると、

A「あ、もしかしたら、読まれてるかも、相手に。そんなにその会社で働きたいとか思ってないから。とりあえずどこかにと思っているから」

私「無意識のうちに気持ちが態度に出ているかもしれないわね。少なくとも、今仕事が欲しいなら、『やらせてもらえるなら一生懸命やります』という態度で面接に臨まないとね」

「とにかく、態度の大きいのはダメよ!」と、こっちも笑いながら、ビシッとクギを刺す。

A君、それは分かってますと何度も言いながら、

「あー、ラクになった!ずっと誰とも話してなかったから~。」
と、ほんとに肩の力の抜けたような一言。

私「誰でもいいから、話ができる相手がいるといいね。売店のオバサンでも誰でもいいから、ちょっとしたオシャベリができるだけで、違うでしょ」

「無理ッス」と、首を振りながら、立ち上がったA君。

「仕事見つかるように祈ってるからね」

「はい、ありがとうございました」
来たときよりは、少しだけ元気な後ろ姿に、私もホッとする。

他愛ないオシャベリのできる、家族、友人、同僚、誰でも良いから、話せる相手がいれば…と思う。

日本中に、日頃、誰ともオシャベリすることのない多くの若者が、悶々と一人で苦悩を抱えているのだろうな。
人に話したからと言って、問題が解決するわけではないかもしれないけれど、少なくとも一時元気を取り戻せれば、また自分で歩き出そうという気持ちにもなれるだろう。

対人関係が苦手で、一見、人を遠ざけているように見える若者も、心の底では人との触れあいを望んでいる。A君に限らず、学生達の中には、日頃、家族とも友人とも会話をほとんどしないという者も、珍しくないことが彼らの話から伺える。

どうかほんの少しでいいから、人のつながりがゆるやかに結べる社会になってほしいとつくづく思う。
今日もまだA君は、面接にと向かっているのだろうか。

日本中のA君、とにかく生き抜いて!
自暴自棄にならず、このつらい一時を何とかやりすごそうよ。
がんばれー!

(日頃、相談室で学生達の悩みを聞く中で感じていることを、A君個人の出来事に絡めて書いたものです。趣旨を変えない範囲で設定に手を加えてあります)

迷子とおじいさん

デパートへ行ったときのこと。売り場で品物を選んでいると、どこかから男の人の声が聞こえてきます。

「何かしら?」と思っていると、そのうち子どもの泣き声がしてきました。次第にそれが大きくなります。

声のする方を見ると、エレベーター前にお年寄りの男性と、泣いている男の子が立っています。声を聞いて、近くの売り場から店員さんが一人、そしてまた一人と、駆けつけてきました。

どうやら、迷子の男の子を見つけたおじいさんが、通りすがりに男の子に声を掛けた模様です。

男の子は泣き続けています。おじいさんの声は次第に大声になってきて、「エレベーターが…」「親はどこにいるんだ」「親の顔が見たい」というようなことを言い続けています。

私は、店員さんが来たのでもう大丈夫と思い、買い物に専念しようとしました。ところが、おじいさんの声がイヤでも耳に入ってきます。「親は何してるんだ!」と一層大きな声で言い続けています。

気になって振り向くと、二人の女子店員につきそわれて、男の子が売り場の奥の方へ移動していました。歩きながらも男の子は泣き続けています。こういう時はお母さんの顔を見るまでは不安でしょうがないものです。子どもは泣くことで自分を保っています。

私にも経験があります。自分自身が迷子になったときの経験と、親になってから、息子が迷子になったときの経験が。その経験から言っても、こういうときは親の顔さえ見れば即笑顔なのです。

だから、店員さんに保護された時点で、どんなに泣いていてもお母さんが来れば大丈夫、とホッとしたのです。

ところがです。おじいさんはずっと「母親は何してるんだ!」と怒気を含んだ声を張り上げています。そして、店員さんと男の子が移動する後から、おじいさんもトコトコついていくではありませんか。

店員さん二人が「ありがとうございました」と何度も何度もお礼を言いながら遠ざかっていくにもかかわらず、おじいさんは「どんな親なんだ」「どんな親か顔を見てやろう」と繰り返しながらついていくのです。

なんだかイヤーな気持がしました。誰でもうっかりすることはあります。まして子ども連れで買い物をするのはすごく神経が疲れるし、体力も使います。

十分気をつけていても思いがけないことが起こります。たとえば自動ドアが開いた拍子に子どもが出て行ってしまったり、エレベーターが開いた拍子に乗り込んでしまいそうになったりと、本当に買い物どころではありません。

子どもを預けて出かけられたり、一緒に買い物をしてくれる人がいればよいのですが、場合によっては一人で子どもを連れて買い物をしなくてはならないこともありますし…。そんなとき、ほんの一瞬のスキで子どもが迷子になったりするはあるのです。

男の子と店員さん達が奥に行き、静かになったので、私はとにかく買い物をすませようと品物選びに戻りました。そして、しばらくして振り返ると、お母さんが子どもをダッコして何度も頭を下げているのが目に入りました。お母さんはホ笑顔で何か言っています。おじいさんも何か言っているようでしたが、聞き取れません。その場の様子から、母親を執拗に責めているようには見えませんでした。

お母さんがあんまり嬉しそうなのと、男の子が泣きやんだので、おじいさんも拍子抜けしたのかもしれません。

どうなることかとハラハラしていた私も、やっと買い物に専念できるようになりました。

それにしても、おじいさんはデパート歩きが日課なのでしょうか。買い物をする風でもなく、時間をつぶしているように見えました。それにあの怒りは、おじいさんの中に不満や憤りが溜まっていたとしか思えません。これからは高齢化社会、いろんな世代がどうやってつきあっていくか、お年寄りがどんなふうに自分の時間を使うかなど、考えなくてはいけないこともたくさんありそうですね。

だからこそ、もうあとほんの少し温かい目で、子育て中の親御さん達を見守るゆとりを持ちたいなあと思います。もちろん自戒を込めてですが。