カテゴリー 『 近況報告 』
温かいお別れの会
年齢のせいでしょうか、このところ、葬儀やお別れの会に出席することが続きました。
そうした会場では、喪主や主催の親族の挨拶があり、故人と縁のある人が思い出のエピソードや短いメッセージを語ります。出席者はそれらを聞きながら、故人をしのんだり、久しぶりに顔を合わせた親族と近況を伝え合ったりすることで、普段とはちょっと違った流れのひとときを過ごすことになります。
懐かしい面々と久しぶりに顔を合わせ、同窓会のように話が弾んだり、そんなときでもないと会うこともない遠い親戚と初めて言葉を交わしたり・・・。悲しみの席ではあるけれど、どこか穏やかで優しい空気に包まれていることが多いです(もちろん病死や事件や事故など、亡くなられた原因によってはまったく違うでしょうから、あくまで私の経験した中でということですが)。
そこでは、死という普遍的なものにまつわる話題だけに、深い洞察につながる思いが想起してハッとさせられることもあります。
先日、出席したお別れの会でのこと。
喪主は人前での挨拶が苦手な人でした。ゆっくりと落ち着いた口調で始まり、しばらくは順調だったのですが、次第に言葉に詰まる場面が増えてきます。沈黙があり、また思い出しつつ先へ進む。また少し話しては、言葉が止まって5秒10秒と時間が流れる。ついに、ポケットからメモを取り出して確認し、また一言一言ゆっくりとスピーチを始める。という具合で、聞いているこちらがハラハラ、ドキドキしてしまい、「もう読んでくれていいから~」とすら思ってしまいました。
それでも、途中ではしょったりすることもなく、用意されていた言葉を最後まで言い終えて、何とか無事に挨拶が終わりました。終わったときは、こちらもホッとしました。
会が終わって、「まったく冷や冷やしたよね~。もう原稿読んじゃえば良かったのに~」と、身内の気安さもあって数人で笑い合ったのですが、みんな同じことを思っていたみたいです。こうして、ちょっとした笑えるエピソードで終わるはずの出来事でした。
ところがそれから数日して、そのスピーチを思い出したとき、私の中に別の見方がふっと湧いてきたのです。
あの日、喪主が、用意してきた原稿の内容を全部話さなかったとしても何の問題もなかったでしょうし、途中でキリの良いところで終わってもよかったはず。そうすれば、本人も聞く側も安堵の胸をなで下ろすことができたでしょう。でも、それをせずに最後までとつとつと、故人の生い立ちや略歴を律儀に紹介したのは、喪主としての、故人と会葬者に対する誠実さの表れにほかならなかったのではないか、と思い至ったのです。
スピーチする本人もきっと冷や汗をかきながら、ドキドキしながらのスピーチだったことでしょう。聞き手もハラハラさせられて、うまいスピーチとはお世辞にも言えません。しかしそれでも、そのときにできる精一杯の誠実さで、会を準備し挨拶をしたことが、故人への何よりのはなむけになったのだと思います。
そのことに気づいたとき、うまいスピーチって何だろう?要領良くって何だろう?(生い立ちや履歴は細かく話さなくてもすんだし、忘れたら途中からメモを読んでしまえばよかったのに・・・。)要領の良さ、うまいスピーチ、それらとは対極に位置するこのスピーチ。周りが抱く危惧や評価とは、まったく別次元のところにあるスピーチ。
ただひたすら、丁寧に誠実に弔いをするという思いだけがあり、それを実行に移す。人により思いを表す方法はさまざまで、それがどのように人の目に映るかも考え方によってかわるものだということを改めて知らされたできごとでした。こうしてこのお別れの会は、私にとって故人を送るとても良い会となり、かつほのぼのと温かい思い出となりました。
夏の終わりに・・・

暑さの中にもどことなく秋の気配が感じられるようになりました。
早く涼しくならないかな~と思っていたのに、涼風が吹き始めると夏が名残惜しくなるというこの気まぐれ!なんなんでしょう?
写真は8月に学会で山形に行ったときのスナップです。
ここは駅に続く大通りなのですが、人通りは多くなく、片側3車線くらいの道路に広い歩道もあり、背景には山波が見えるという、ご覧のようにのびのびした風景です。
朝から大学の構内で缶詰になって講演を聴き、帰りは疲れた頭で、この道をのんびり宿泊先のホテルまで歩くと、ほんのちょっとした時間なんですが癒されました。8月にしては涼しい日だったのも幸いでした。
ところで、この写真の右奥の樹木、一抱えもある大木が数本切られずに歩道の中央に残してあるのです。樹木の下にはベンチ(これも切り株)が置かれていて、良い木陰を作っていました。道路の拡張などであっさり大木が切られてしまうことも多い中、地元の人や行政の優しさを感じました。
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さて、今回の旅行、どこへも観光にも行かず、コンビニ弁当を昼食用に買い込んで、大学とホテルを往復していたという・・・こうして自分で書いていても、「なんと味気ない旅行!」としか思えないのですが、ところが個人的には満足だったんです。まず、講演の中身がとても良かったこと(聴きたい話が聴けたこと)。そしてやはり、初めて訪れる土地は、別にイベントや観光地に行かなくてもリフレッシュさせてくれました。

学会の今年のテーマは「こころとからだ」
カウンセリングの分野も、混沌とした世界の動向と無縁ではなく、これからは、人の生き方、人権、環境、社会とのつながりなど大きな枠で見ていく時代にならざるを得なくなるだろうということ。
過去の知見や学派(もちろんそれらが無用だというのではありませんが)に縛られず、人間丸ごとを見ていく必要性が出てきたのだと思います。
それらは頭の中で構築された回答ではなく、感情や直感を含めた(むしろそれらを信頼した)人間観が基になっていくように思われました。
ようやくそこに至ったという感じですが、希望もまたそこにあるように思いました。
柳の芽吹いた公園で
近くにあるのに一度も行ったことのなかった公園に、孫達を遊ばせるため、初めて足を運びました。
連休ということもあり、若いファミリーがいっぱいでした。
バアバの役目は、お弁当と一緒にベンチで留守番。3人の孫達は思い思いの方向に散っていきました。
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しばらくして孫のうちの長男が、海賊船を模したアスレチックのてっぺんに登り、「海賊ごっこする人はいませんかー?」と公園中に響き渡る声で仲間の募集を始めたのにはビックリ!そのうち妹も一緒になって声を揃えています。
(地元の公園ではないんですよ。東北から埼玉に遊びに来て、初めて来た公園で、これです^^;)
なかなか「応募」がないようで、募集の呼びかけが続きます。いつまでやるつもり?とハラハラしていると、そのうち男の子が何人か来て何やらやりとりしている様子。後で聞いたところ、結果的に男の子二人と一緒に鬼ごっこをしたそうです。
子どもと一緒でなくては、なかなか味わえない新鮮な体験でした。
こちらもリフレッシュ、リフレッシュ!
芽吹いた柳がと~ってもきれいでした。
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春本番も間近ですね。
大学の新学期も、もうすぐです。
卒業の季節
春のような暖かさの日もあるかと思うと、また急に冷え込んできて、油断ならない時季ですね。インフルエンザもはやっているそうで、結構不調の方も多いみたいなので気をつけたいですね。
さて、そんなこの季節ですが、大学の相談室としては今は春休み。
4月の新学期を待つ時期でもあります。
1月の相談室が終了する間際には、卒業していく学生さんがチラホラ挨拶に来てくれることがあります。
中には、数年前に相談に来て、その後は元気になり、ずっと顔を見せることのなかった人もいます。
そんなときは突然の来訪と、雰囲気が変わっているのとで、一瞬誰だかわからないときも・・・。
特に女性の場合は、お化粧や髪型の変化もあって、「え?〇〇さん?!」と、聞き返して失礼してしまったり。
でも、一言二言言葉を交わすと、「あ、そうだ。〇〇さんだ」と、思い出されてきます。
「お元気そうね。溌剌として」と、こちらが感じたままを口にすると、
「そんなことなくて~、今でも自信ないんですよ~」などと、照れた横顔に、当時のことがよみがえってきます。
相談室で交わした会話のあれこれ、共有した時間、辛かったこともーそのどれもが貴重な体験として糧になってくれていたのだろうか。
ドアを出て行く後ろ姿にエールを送りながら、幸せのお裾分けをいただいたような、カウンセラーとして感慨深く嬉しいひとときです。
自分の身体に感謝する。
年末ですね。
門扉に、松の枝と締め飾りが掛けられているお宅を目にすると、「お正月が近いんだなあ」と実感が湧きます。
それにしても、今年もアッという間の一年でしたね。
このブログも、「今年こそはもっと頻繁に更新しよう」と、気持ちも新たにスタートしたはずなんですが・・・。
結果的に、またもや「月記」になってしまいました。
と書きながら、懲りもせず、また来年も月記から抜け出せるように頑張ろうなんて思っているんですから、いやはやまったく・・・。
とにもかくにも、今年一年何とか無事に過ごしてこられたことには感謝しなくてはなりません。ひとまず、健康でいられることは何にも代え難いありがたいことです。
2週間ばかり前に、珍しくちょっとしたことで寝込んだのですが、たった二日間でも、熱が出て食欲もなく、身体の節々が痛いとなると苦しいものだなあと、日頃の健康のありがたさを痛感しました。
熱が下がった後は、妙にスッキリ爽やかで、その時は何かちょっと嬉しかったです。
今はもうすっかり健康ですので、ご心配なく。
その時に感じたことは、もっと丁寧に自分の身体と対話することの必要性でした。以来、以前よりは、少しは自分の身体に優しくなった気がします。たとえば、窮屈な靴を履いた日は、靴を脱いだらすぐに、「ご苦労さま!」という気持ちで、足の指を伸ばしながらほぐしてやるとかしています(その前に、窮屈な靴を履くなという話ですが、私の足は日本人の平均からは遠い足型らしく、どれもソコソコ我慢して履かなくてはならないのです)。
毎朝、ほんの短時間ですが、瞑想をしていることも、身体に目を向けることには役立っているかもしれません。いつも雑念に惑わされてばかりで、純粋に瞑想をしているのはそのうち何分位なんだろうというお粗末さですが、それでも毎日やれているのは不思議です。
目を閉じて自分の呼吸に意識を向けると、身体のあちこちに自然に意識がいくので、そんなことからも、ふだんの生活の中における身体に目を向け、いたわりとねぎらいの気持ちが生まれるのかもしれません。
今年も頑張ってくれた私の身体に感謝しつつ、老化とも折り合いを付けつつ(←これ大事!)、来年も健康で過ごせるといいなと思っています。
今年一年、セレニティと大本個人とに関わってくださった皆さま、本当にありがとうございました。
2016年が、皆様にとって、健やかで良い年になりますようお祈りいたします。

