セレニティカウンセリングルーム

カテゴリー 『 雑感 』

選挙戦、立候補者のオーラ

随分ご無沙汰してしまいました。あれよあれよと月日は過ぎて、学校では早くも夏休み目前、という時期になってしまいました。ジメジメの梅雨空が続いていますが、こんな時期は何となくだるかったりということもあるので、体調管理に気を遣わねばと思っているところです。皆さんは、お変わりありませんか?

ところで先日、ターミナル駅の改札を出たところで、参院選立候補者の街頭演説に出くわしました。ノボリバタを立てて、応援演説のスピーカーが元気な声を張り上げる中、日焼けした精悍な雰囲気の男性候補者が、聴衆と次々と握手をしていました。

急いでいた私は、候補者を囲む人垣とぶつからないように横からすり抜けようとしたのですが、移動しながら握手している候補者と、たまたま私の進路が合致してしまい、すり抜けようとした私の目の前に、突然候補者が握手しそうな姿勢でこちらに振り向いたので、大いにビックリしました。

なんせ、アチラは選挙戦の真っ最中、エネルギッシュな雰囲気が満ちあふれています。「本人の〇〇です!!(握手)」「〇〇本人です(握手)」と次々に握手、握手。その勢いでこちらに振り向くと、<立候補者オーラ全開!>です。もう、握手の態勢に入っている。

(え?あなたどなた?主義主張も存じあげませんし、別に、握手はいいんですけど・・・。)と、握手の手を取られそうになり、私が一瞬戸惑ったそのとき、候補者氏は目の前の私を透明人間のごとく見過ごして、私の左後方へスーッと歩を進め、「やあー、△△さん!お久しぶりー!良く来てくれましたあ・・・」と大きな声で話しかけつつ、握手をしていました。馴染みの方だったのでしょう。短い会話が弾んでいるようでした。

私はおかげで、ホッ!安心して人垣を抜けることができました。それにしても、候補者氏はどこかでお見かけしたような・・・。う~ん、どこでだったかな?

帰宅後、運動員から受けとったチラシを見て、納得。かつてテレビで評論や解説をしていたOさんだと判明しました。テレビで見たときは、理路整然、クールな印象の方でしたが、さすがに選挙戦の最中、候補者本人の醸し出す雰囲気は熱かったです。

今まで何人もの選挙の候補者を間近で見ていますが、今回のように、突然目の前に候補者が現れたことはなかったので、不意をつかれて、今まで以上に人間の醸し出す雰囲気やエネルギーの持つ威力みたいなものを強く印象づけられました。

これは何も、選挙の立候補者だけに限ったことではないのだと思います。私たち誰もが同じように、その時その場で、エネルギーがアップしたり、ダウンしたりしているのだろうと思います。そしてその分、周りの人に与える印象も、その時々でかなり変化していて、時には人を圧倒するようなオーラを発揮したりもしているのでしょう。

選挙の立候補者が、周囲の協力を得て、自分の良さやアピールポイントを多面的に引き出し、それを自信にしてさらにオーラを発揮するように、私たち一般人も、自分の良さを率直に、恥ずかしがらずにアピールできたら、さぞステキだろうなあと思いました。きっとその時は、かのO氏に負けず劣らずのオーラが漂っていることでしょうね。

キャンパスの緑でリフレッシュ

新緑のキャンパス 学生相談室の窓から見える風景です。木々の向こうには、森林浴にピッタリの深い緑の丘陵地帯が広がっています。たまに散歩途中のおじいさんが、ベンチに腰を下ろして、林の中を眺めていたりします(大学の先生ではないと思うのですが・・・、もしそうだったら、ごめんなさい!)。写真を撮ったときは気づきませんでしたが、撮った写真をよく見ると、いつの間にか日射しは初夏を思わせる強い日射しになっているのですね。

相談室の重たいサッシの窓を開けると、にわかにいろいろな野鳥のさえずりが聞こえてきます。自宅の近くでは聞いたことがないほど、バラエティに富んだ小鳥の鳴き声が聞こえます。それだけでもふーっと力が抜けていく感じです。

そして、小鳥のさえずりとともに、木立の匂いに包まれます。フェトンチットでしたっけ、樹木の出す香りにはリラクセーション効果があると言われますが、そんな効能は抜きにしても、かぐわしい木々の匂いとおいしい空気を吸い込むと、それだけでからだの隅々にまで、すがすがしいエネルギーが広がる感じがします。「3分間リラクセーション」とでも言えそうです。

新鮮な空気を吸った後は、また重たい窓を閉め、大きな鍵をガチャッと閉めると、またいつもの学生相談室の静寂と現実がもどってきます。お昼休みの束の間のリフレッシュです。

リフレッシュと言えば、朝、相談室までキャンパスを歩いてくるときも。わざわざたくさんの木々の横を通り抜けて来るルートを選んでいるのです。若葉がフワフワとそよぐ、枝がシダレヤナギのように垂れ下がっている木の下を通って、白いハナミズキ(もうとっくの昔に咲き終わってしまいましたが)の並ぶ通路を眼下に見つつ、(芝生を育てる)養生のためのロープが張られた芝生を抜けて、相談室のある建物に入ります。

わざわざ回り道したり、階段を上がったり下りたりしながら移動する私みたいな人もあまりいないかもしれませんが、せっかくこんなに木々の多いキャンパスなのだからと、回り道を楽しんでいます。

でも、帰りはそんなこと言ってられません。終業時刻になるやいなや、大急ぎで部屋の鍵を掛け、担当スタッフへの挨拶もそこそこに、脱兎のごとく相談室を飛び出します。バスの時刻がぎりぎりなのです。

でも、そうして乗ったバスの窓からは、またもや自然を感じることができます。浅い緑色の鏡のように、キラキラと輝く田植えのすんだ田園地帯を目にすることができるのです。こんなふうに、四季の変化をそこここで感じることができるのは、ささやかながら幸せなことだなあと、しみじみ思っているこの頃です。

キャリアデザイン、キーワードは「必要性」

ある時、キャリアデザイン学科の学生さん(仮にAさん、女性)から取材を受けたことがあります。ゼミの課題で、自分の興味のある職業を選び、実際にその職に携わっている人の話を聞いてレポートを書くという課題でした。

最初、連絡をもらって真っ先に思ったことは、「私でいいのかな?」ということでした。およそキャリアデザインとは縁遠い歩みだと思ったので、率直にそのことを伝えました。しかし、Aさんが言うには、セレニティのサイトを見て興味を持ったので、ぜひ話を聞かせてほしいとのことでした。私の方でも、サイトの何に興味を持ったのか聞いてみたい気もして、取材を引き受けました。

そんな経緯で始まった取材でしたが、生い立ちから語り初め、一通りのヒストリーを話し、何とか無事にインタビューも終えました。そして後日、書き上げたレポートが送られてきました。

自分のことが人の筆で語られるというのは、何とも不思議な気持ちでした。レポートはポイントを押さえてうまくまとめられていました。一番感心したのは、そこに書かれていたレポートのキーワードについてです。キーワードは「必要性」となっていました。私自身、自分のキャリアをキーワードで捉えるということはなかったので、新鮮で面白く感じました。

必要性・・・これは日頃の私のやり方をそのままズバリ言い当てている気がします。今必要とされることに全力投球すること。すると次にやるべきことが見えてくる。その積み重ねが、また次の一歩につながる、そんな気持ちでやっているので、「必要性」と言われると、まさにその通りと思い、感心しました。

そんなことがあって後、このことを知り合いの大学院生に話したところ、「それって、行き当たりばったりってことですよね」といたずらっぽく返されてしまいました。で、すかさず、「もちろん、そうも言えるけど、行き当たりばったりと捉えるか、必要性と捉えるかは大きな違いよ」と反論。

「私の意識としては、行き当たりばったりといった感覚はぜんぜんなくて、必要性を感じて動き出すという感じ。必要性を感じるからこそ、モチベーションが上がって、熱意を持って行動に移すことができるというわけ」とも付け加えました。

そう、私の場合「必要性」は、いろいろな行動のベースにあるような気がします。アサーション・トレーニングに関わるキッカケも、私自身がもっと率直に表現できて、ラクになりたかったからだし、女性の問題も私自身が女性としての生きづらさを感じ、何とかそこから抜けだしたかったからであり、教育問題も子どもを育てる過程で考えざるを得なくなったので学び始めましたし、環境問題も、行政や政治への関心も・・・と、いつも必要だから「情報が欲しい」「学びたい」でやってきました。自分の必要性から来る問題だから必死に学びます、すると次に何をすればよいかが見えてきました。

う~ん、でも、これでは・・・キャリアがデザインされていないということなのかなあ。というより・・・もはやキャリアをデザインする歳でもなく、リタイアする時期の方が早く来てしまいそう。だからやっぱり、必要性を感じたら、どんどんやっていこうと思っています。行き当たりばったり、って言わないでくださいね。

新年に「時」を思う

あけましておめでとうございます。

今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

年々お正月らしさが薄らいでいく感じですが、特に今年は、あっという間に三が日が終わってしまった気がしています。皆さんはいかがでしたか?どんなお正月を過ごされたでしょうか?

この年齢になると、一日一日が「何となく昨日の続き」みたいになりがちです。が、幼い子どもの成長を見ると、昨日と今日が確実に違うと思わされることがあって、時は流れていることをハッキリと感じさせられます。

時間の経過だけではなく、その時間をどのように成長に生かしているかという証しとでもいうのでしょうか。一日で、「昨日できなかったことが、できるようになった!」と驚かされることがあります。子育てを経験された方なら、たぶんどなたにもそんな経験がおありでしょう。

昨日はまったくハイハイできなかったのに、今日は少し身体をずらして移動できるようになったとか、昨日は言えなかった言葉が、今日はちょっとだけそれらしい発音になったとか…。一日で、変化を感じることができるときがあります。

(おとな=私の場合、子どもとは反対に、悲しいことに記憶の低下だけは確実に早いです。まったく嫌になります。当然出てきて良いはずの名前が出てこないときとか、焦ります。幸い今のところ、出てこないのが女優さんの名前くらいですんでいますが、この先が心配~~~)

子どもにもおとなにも、同じだけの長さの一日。大事にしたいものです。それに、何と言ってもこれから先の長さを考えたら、時間の価値の大きいのはおとなのほうかもしれませんよね。

とまあ、こんなふうに今年も、愚にもつかないことをグダグダ書きそうな気がしますが、どうぞよろしくお願いいたします。

皆さまにとりまして、今年がよい年でありますように!

指先をケガして気づいたこと

「一般的に〇〇だ」と言いたいとき、自分自身もその中に含めた上で、よく「私たちは」という表現をします。でも、ふっと思ったのです。この「私たち」ってすごく大ざっぱだなあって。「私たち」と言うとき、「私たち」とはどんな人を想定しているのでしょう。考えてみると、とても曖昧なくくりであることがわかります。

言ってみれば、この「私たち」は「多数派」ということに過ぎないように思います。私自身、「私たち」と安易に使ってしまうのですが、そのとき、私は自分を多数派の側に身を置いて使っているわけです。そして「私たち」と何気なく使うことで、「私たち=多数派」に属さない人達を知らず知らずのうちに除外してしまう結果になっているのではないだろうか、とも思うのです。そんなことに気づかされた出来事がありました。

先日、料理をしていて包丁でほんの少し指先を傷つけてしまいました。たいした傷ではなく、「バンドエイドを貼って、ハイおしまい!」という程度のものでした。ですが、そんなたいしたことのない傷であっても、ドアの取っ手をつかんだり、重い物を持つときに力が入らず、とても不便な思いをしました。

ささいなことから不便が生じたり、何かができなくなってみて初めて、世の中は「元気な人=心身共に不自由のない人」を基準につくられているという現実に直面することになります。そこで初めて、ふだん何気なく使っている「私たち」という表現は、決してすべての人を意味する「私たち」ではなく、「元気な人=心身共に不自由のない人=多数派」を表している言葉に過ぎなかったということにも気づかされます。

指先の切り傷は、数日でほとんど不便なく使えるようになりました。「私たち」が意味するもの、忘れないように、何かしらの形で常に意識させることが必要なんだろうなと思います。自分の忘れっぽさ、を思うと…。