カテゴリー 『 雑感 』
沖縄(嘉陽)の浜辺
またもやすっかりご無沙汰してしまいました。
もうすぐ雛祭りですね~ ^ ^;
季節は梅から、桃へ。。。
まだまだ寒いけど、春を感じるときもありますね。
☆ ☆ ☆
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写真は11年前に訪れた沖縄の名護市嘉陽(かよう)の海岸です。
当時、まったく偶然にブログを通じて知り合った沖縄のお友達と、知り合ってから一週間後に沖縄で催されたライブにご一緒しました。おまけに彼女のご主人の車で沖縄本島北部まで案内してもらいつつドライブするという「おんぶに抱っこ」の旅程を過ごさせてもらったのでした。
Bさんとご主人様、その節は本当にどうもありがとう!
何しろ、ライブ会場の前でお互い顔も知らずに携帯番号を頼りに電話を掛け、行列の中から携帯電話を耳に当ててキョロキョロしている相手を見つけて、「あ、いたいた!!」と手を振り合ったのが初対面でした。でも、昔から知っていたかのように意気投合。
そして席に着くや否や、彼女が「明日夫の車で辺野古に行くんですけど、よかったらいかが?」と誘ってくれたのです。
「え?いいんですか?」と、一応は遠慮がちに言って見つつ、心はもうすっかりその気に。。。
そんなこんなで、辺野古の米軍基地反対の座り込みをしているおじぃやおばぁの所へ、彼女の持参した差し入れを持参して、その後大浦湾を回ってこの美しい海辺に連れて行ってもらったのです。
もちろん、もちろん、辺野古もこの海と同じように美しい海でした。あの海を実際目にすると、そこに基地を造ることなど、どんな理由を付けられても首を縦に振る人はいないでしょう。一人の生身の人間として考えた場合。
国家や政治やお金やら権力やらで、人間が自分の大事な感性に頼らないで決めたときに判断を誤るのでしょうね。
毎日、調査や工事のための重機やオモリで、珊瑚が潰されていくのが辛いです。
珊瑚の生きられる海でないと、ジュゴンのエサもなくなってしまいます。
一人ひとりにできることは小さくても、未来の世代にもやっぱりこの美しい海と、そこに生きる人々の生活を守りたいと、祈りつつできることをしたいです。
11年前の春、この海で2時間もなん~んにもしないで、ボンヤリ座っていました。時々近所の人が犬を連れてお散歩に来たり、親子連れが網打ち際で遊んだり。。。2時間もいて、私たち二人以外に、ほんの数人だけ。ご主人はお仕事で私たちだけ落っことしていってもらったのです(拾ってもらって帰りました。お世話になりっぱなしでした)。
おしゃべりしながら、石ころや砂でいたずら描きしたり、波の音とサヤサヤ草を渡る風の音だけが聞こえる、ただただ至福のひとときでしたよ。
そう、絶対この海は残さなくては!!!
こんなふうに書けたら・・・。
寒さの中にも、日だまりの空気には
春の気配がほんのすこ~し
混じっているのが感じられるこの頃です。
もちろん、風はまだまだ冷たいんですけれどね。
☆ ☆ ☆
さて、ちょっとさかのぼって年賀状の話題です。
これ、たぶん、今でなくては書けない一生に一度の年賀状だな、と。
見てると、心もからだも、ホワ~ンとゆるんでくる・・・。
誰にもこんなときがあったんですよね。
特に、「れ」と「と」が最高!!! \(^^)/
「人に何かを伝えたい原点はこれなんだ!」って思い出させてくれました。
間違えたってちゃんと気持ちは伝わるんだよ。
そのときの自分の最高の一生懸命で書いたらいいんだよってね。
2015という数字
2015年。
もう21世紀になってから15年目なんですねえ。
ふ~、早いなあ!
20世紀の真ん中に生まれた私としては、2000年という数字そのものが、現実離れした数に思えていた時期がありました。19〇〇年は実感できるけど2000年以降はSFの世界、みたいな感覚だったのです。さすがにこの頃は2000という数字にも慣れましたけれど・・・。
ところで、
20世紀から21世紀へと切り替わった当時は、戦争の世紀と呼ばれた20世紀から、平和なミレニアムへと変わることを期待した空気が自然に生まれていたように思います。平和なミレニアムの創造はいつどんな形で始まるのか?淡い期待を抱きつつ、何かを待っていた自分もいました。
そのまま月日が過ぎて・・・
2011年、私たちは東日本大震災という未曾有の惨禍を経験するに至ります。
「これで何かが変わる!」と思ったのも束の間、
惨禍の痛手から気づいたことや学んだことを忘れ去り、
再び何ごともなかったかのように20世紀の続きを歩いている、
そんな2015年の年頭です。
☆ ☆ ☆
でも、考えてみれば当たり前ですね。
私たち一人ひとりが変わらなければ、
本当の意味での社会の変化は起きないのですから・・・。
どこからか変化がひとりでにやってくるなんてことはないですから。
権力を持った人たちが好きなように力をふるってきたのが
20世紀までの歴史だとしたら、
それを超えるには権力者ではない人たちが、
今までに発揮できなかった力を使って乗り越えるしかないのでしょう。
そして、乗り越えることのできる力があるとすれば、
それは権力者と同じような種類の力ではなく、
自分を生かし、人と人とをつなぐことのできる力であるはずです。
「自分を生かし、人と人とをつなぐことのできる力」を使う。
それは誰にも教わったことのない方法だから、
不安に駆られるかもしれません。
でも、そのもとになるのは、誰もが本来持ち合わせている力です。
誰かの指示を待つのではなく、
自らの魂の声に耳を傾けて動くとき、
きっと何かが少しずつ変化し始めます。
魂の声に耳を傾けることは、
もしかしたら勇気のいることかもしれないけれど、
自分自身の生を生きるただ一つの道ではないでしょうか。
そんなことを考えながら明けた今年のお正月。
少しでも形にしていけたらいいなと思っています。
今年もよろしくお願いいたします。
キャンパスの秋
こんにちは!
巷ではけっこう風邪がはやっているようですが、皆さん、お元気ですか?
私はおかげさまで元気にしています。
今年も後2ヶ月だなんて嘘みたいですね。
あんまりいろいろなことがありすぎて、つい1ヶ月前にあったことも随分昔のことに思えてビックリすることがあります。
そんな中でも季節の変化は、慌てず騒がず順調です。
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写真はキャンパスの秋。
秋は空を見上げたくなりませんか?
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澄んだ空気。
冬の始まりの冷たい空気はまだ震えるほど寒くはなくて心地よい。
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木の葉も日ごとに色づいて、銀杏並木が黄色に染まる日も近いです。
桜の木がバッサリと。。。
9月下旬のある日のこと。
朝、電車に乗るため、最寄り駅に着いてビックリ!
何と、駅前の桜の木がバッサリと切られていました。
ご覧のように一抱えもある太い幹が、です。
切り口が太陽にさらされて痛々しい!
夏の間に茂った枝が邪魔だったのでしょうか?
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もちろん、理由もなく切られたのではないでしょうが、それにしても無惨な姿になってしまいました。
果たして来年は花を咲かせてくれるかしら?
駅が建て替えられる前は、なかなか見事な枝振りで楽しませてくれ、花吹雪の舞う駅前の雰囲気は風情があって好きでした。
もともとは駅舎の脇に2本あったうちの1本で、駅のホームにも太い切り株だけが残っている所が何カ所かあるので、このあたりは駅ができる前は桜の木がたくさん植わっていた場所だったのかもしれません。
駅ができた当時、ホームを造るのに邪魔だった何本かは切り倒されたようで、今でも切り株の一部がホームの隅にそのまま残っています。その駅舎も古くなった数年前、立派な今風の駅に建て直され、その時に駅前の2本がバッサリと枝を落とさました。そして今回は、さらにこのような姿に・・・。
3枚目の写真は、数年前に駅が新しくなった後、駅の2階から見たところです。
大きな枝を切られた後も、残った枝からはこんなに花が咲いていたのです。でも、来年の春はどうなることか?
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「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」ということわざがあるそうですが、梅は無駄な枝を切ってやることでよく咲くようになるが、桜は切るとそこから腐って咲かなくなってしまうことから来た言葉だとか。
このまま腐って咲かなくなってしまうのでしょうか?
いやいや理屈上はそうでも、樹木にも個体差はあるでしょうし、種々の条件もあるでしょう、腐らずにすむかもしれません。どうにか乗り切って咲いてくれますように・・・。
私が気をもんでも仕方のないこととわかりながら、やっぱり来年の春が気になってしまいます。