セレニティカウンセリングルーム

カテゴリー 『 未分類 』

英語より、まず日本語で

アサーション・トレーニングや瞑想会の会場として使っているコミュニティセンター周辺はバラ祭りで有名です。今年のバラ祭りは5月の18、19日に行われとのことで、写真を撮った日はすでに見頃を過ぎていました。
それでも、初夏を思わせる日差しの中、駅前に出た途端に鮮やかな色彩が目に飛び込んできて、通りがかりの女性が「うわ、すごい!」と小さく声を上げたほど、結構壮観でした。私も目的地に向かって道路沿いの花壇を横目に見ながら歩く数分間、五月のバラを楽しみました。
駅構内の改札脇にもバラの鉢植えが……。(一番上の写真)

☆ ☆ ☆

ところで、話は変わりますが・・・。
2~3日前、ラジオを聞いていたら、文科省が英語でのコミュニケーション能力を上げるために、小学校段階から英語教育に一段と力を入れるという政策を巡って、町の声や視聴者の意見、専門家の立場から鳥飼久美子さん(立教大学特認教授)のコメントなどが取り上げられていました。鳥飼さんは外国語の重要性は認めながらも、単に授業数を増やしたり、英語以外の科目をすべて英語で教えるなどという具体策に疑問を呈していました。

強調されていたのは、英語で話す以前に、自分の意見を持ち、それを日本語で表す能力を養うことが先、ということでした。子ども達が日本語で自分の意思表示をちゃんとできるような教育が先で、それができて初めて英語でのコミュニケーションが成り立つ、と至極まっとうな意見でした。これについては、町の声も視聴者の声も同様でしたので、心強く思いました。そして、もちろん私も鳥飼さんの意見に大賛成です。このことは、アサーション・トレーニングで常々お伝えしていることとも重なります。

大学で学生さん達の悩みを聞いていると、「自分の気持ちがよくわからない」「自分の気持ちを話したいと思わない(投げやり、もしくはあきらめている)」といった声を時々耳にします。気持ちがわからないのは、ふだん自分の気持ちを無視してしまっているから。

意思表示をあきらめている学生さんを前に、私はこんなふうに言います。
「でも、あきらめずに自分の気持ちを意識するようにすれば、徐々に気持ちに気づけるようになるし、それを言語化しようという気持ちも生まれてきますよ」と。そして、今日から新しいコミュニケーションに向けてスタートすることを提案します。善は急げです。どんな感情や意見も自分のありのままの状態だから、それをまず認めてあげる。そうやって自己肯定感を育て、言語化して意思表示し、コミュニケーションへの足がかりを創っていけるようサポートします。

本当は小学校段階でそうしたコミュニケーションの土台となる<自分の気持ちや意見>を安心して話せる場や機会を持つことが大事なのだと思います。文科省がやるべきことはむしろこっちですね。
その土台があれば、外国語での意思表示も可能になろうというものです。

自分の気持ちに気づき、自分の意見を持ち、それを言葉にして相手に伝えたいという気持ちがなければ、英語は愚か日本語でさえコミュニケーション能力は磨かれようがありません。「表現したいことがあり、表現したいという欲求がある」、この二つがなければ、何語であれコミュニケーションをとることは難しいでしょう。

生まれたときから意思表示をあきらめてしまっている赤ちゃんはいません。赤ちゃんはお腹がすいたりおしめが濡れたりすれば大声で泣いて教えます。それが、成長過程のどこかで「言わない方が無難」「言ってはいけない」「言わないことが身を守る安全策」と学習してしまった結果、気づいたら言えなくなっていたということではないでしょうか。

家庭や学校で話を聞いてもらえなかったとか、言ったばかりにいじめられたとかいう、ちょっとした(本人にとっては重大な)理由で、人に関わることに不安感を覚えてしまったのかもしれません。

子ども時代は、一生の土台を創る大事な時期として、安心して意思表示できる機会や場を創ってやることが、英語でしゃべるより先に必要な、教育の大きな役割であると思います。とはいえ、何歳であれ、「変えたい」と思ったときがチャンス!卒業までの短時間ではありますが、学生さん達が少しでも自信を持って意思表示できるようになれば、カウンセラーとしてはと~っても嬉しいです。

学校教育の新風に一票

カラスウリ。

住宅街の道端で見つけました。

。。。。。。。。。。。。。。

あっという間に、カレンダーが残り一枚だけになってしまいました。今年は、年の瀬に加えて選挙も加わり、慌ただしさもひとしおの感があります。東京では都知事選もおこなわれますね。
先日、インターネット動画でその都知事候補の一人、弁護士の宇都宮健児さんのお話を聞きました。その中で学校教育に関して触れられていて、日の丸君が代問題など管理的傾向の強まっている現状を是正していきたいと話されていました。以前、セレニティで先生方からお聞きした話と重なる部分があって、とても共感を覚えました。

10年くらい前になりますが、セレニティでは学校の先生方の授業作りの勉強会を年に何回か開いていました。そうした折、現場の先生方からさまざまな声をお聞きしました。とりわけ、東京の公立校の先生方からは、提出文書や会議などの事務的な仕事がものすごく増えて子どもと接する時間が減ったり、休み時間の取り方や研修会の参加なども細かく管理されて自主的に動けなくなったことなど、先生自身が息苦しい職場になっていることをいろいろな方からお聞きしました。

1980年代の終わり頃から徐々に強まってきた全国的な傾向かと思いますが、そうした管理的な学校教育と受験競争を経て子ども達は大きくなってきました。今、大学の相談室を訪れる彼らはちょうどそうした管理的な傾向が強まってきた頃に生まれた年代に当たります。

そんな彼らの話を聞いていると、一人ひとりのかかえる悩み自体が、決して個々の生い立ちや性格にのみ起因するものとは思えないこともしばしばあります。むしろ社会の流れの中で、そうならざるを得なかった部分の方が大きいように思われます。

「常に外からノルマが課せられ、それを達成しないと、そこにいてはいけないような気がしていた」と語った学生がいました。だからいつも必死に走り続けてノルマを達成しようとがんばって来た。でも、そうしてがんばって来て気づいたら、自分が自由に思ったり感じたりすることや、自然に湧き出てくる意欲など見出せなくなってしまっていた。そんな状態の彼ら(男子も女子も)。

二十歳前後の若者が、すでに意欲や希望を失ってしまっている社会は、やはりどこかに大きな歪みを抱えていると思わないではいられません。

ところで、東京都の予算はフィンランドの国家予算に匹敵するのだそうですね。驚きました。巨大都市とは思っていましたが、そんなに大規模だったとは!そんな巨大な東京都が、教育に新風を吹き込んでくれたらいいなあと思っています。きっと日本全国に影響があるに違いありません。

学校教育の現場が一人ひとりの存在をもっと大事に育むことのできる余裕のある場所になってほしいと思います。「忙しすぎる先生、ノルマの達成に負われる子ども達」ではなく、「教育とは共に希望を語ること」というルイ・アラゴンの言葉を実践できる場になってほしい。それは夢物語なのでしょうか。

いくらお金持ちの国になっても、いつまでも夢は夢物語のままでしかないとしたら寂しい気がします。それではお金を持っていても貧しい国です。本当の豊かな国になってほしいと思います。宇都宮さんの説得力あるお話と柔和な笑顔に魅せられて、思わずこんな「夢」の実現を期待してしまいました。選挙権のある都民の皆さんがちょっぴり羨ましい。