セレニティカウンセリングルーム

自分の身体に感謝する。

年末ですね。

門扉に、松の枝と締め飾りが掛けられているお宅を目にすると、「お正月が近いんだなあ」と実感が湧きます。

それにしても、今年もアッという間の一年でしたね。

このブログも、「今年こそはもっと頻繁に更新しよう」と、気持ちも新たにスタートしたはずなんですが・・・。
結果的に、またもや「月記」になってしまいました。
と書きながら、懲りもせず、また来年も月記から抜け出せるように頑張ろうなんて思っているんですから、いやはやまったく・・・。

とにもかくにも、今年一年何とか無事に過ごしてこられたことには感謝しなくてはなりません。ひとまず、健康でいられることは何にも代え難いありがたいことです。
2週間ばかり前に、珍しくちょっとしたことで寝込んだのですが、たった二日間でも、熱が出て食欲もなく、身体の節々が痛いとなると苦しいものだなあと、日頃の健康のありがたさを痛感しました。

熱が下がった後は、妙にスッキリ爽やかで、その時は何かちょっと嬉しかったです。
今はもうすっかり健康ですので、ご心配なく。

その時に感じたことは、もっと丁寧に自分の身体と対話することの必要性でした。以来、以前よりは、少しは自分の身体に優しくなった気がします。たとえば、窮屈な靴を履いた日は、靴を脱いだらすぐに、「ご苦労さま!」という気持ちで、足の指を伸ばしながらほぐしてやるとかしています(その前に、窮屈な靴を履くなという話ですが、私の足は日本人の平均からは遠い足型らしく、どれもソコソコ我慢して履かなくてはならないのです)。

毎朝、ほんの短時間ですが、瞑想をしていることも、身体に目を向けることには役立っているかもしれません。いつも雑念に惑わされてばかりで、純粋に瞑想をしているのはそのうち何分位なんだろうというお粗末さですが、それでも毎日やれているのは不思議です。

目を閉じて自分の呼吸に意識を向けると、身体のあちこちに自然に意識がいくので、そんなことからも、ふだんの生活の中における身体に目を向け、いたわりとねぎらいの気持ちが生まれるのかもしれません。

今年も頑張ってくれた私の身体に感謝しつつ、老化とも折り合いを付けつつ(←これ大事!)、来年も健康で過ごせるといいなと思っています。

今年一年、セレニティと大本個人とに関わってくださった皆さま、本当にありがとうございました。

2016年が、皆様にとって、健やかで良い年になりますようお祈りいたします。

秋のギャラリー

日頃おなじみの食欲の秋から、

今日は一転して、

「芸術の秋」ということで、

銀座の画廊に・・・。

。。。。。
。。。。。

もう10年近く前になりますが、友人の誘いで水彩画教室にしばらく通ったことがあります。

お花屋さんの一角をお借りして、お店の花を好きに選ばせていただいて、お店で借りた花器に自由にアレンジして描くという、とても贅沢なひとときを過ごさせてもらいました。

先生(男性)は、その道ではすでに要職にあるにもかかわらず、権威的なところがなく、親しみやすく基本を丁寧に教えつつ、何よりも描く楽しみを尊重してくださる方でした。その後、諸事情でその教室は閉室になってしまい、私の水彩画とのお付き合いも途切れてしまったのですが、先生の個展が開かれると聞くと、当時の教え子仲間で訪問しては、ソフトで親しみやすい先生のお人柄を良いことに、軽口を叩いたりしながら、和やかに絵を鑑賞させていただくというのが、ここ数年の秋の行事になってきています。

この日も当時の仲間と絵を鑑賞しながら、ちょっぴり「芸術の秋」に浸ることができました。

あれから一年

夕暮れの帰り道、見上げた空がこれ。

なんて素敵な色合い!オレンジ色とブルーの縞模様が空一面に広がって・・・。

秋の空は朝から晩まで、一日中、いろいろな顔を見せてくれて、見飽きることがありません。

今年は夏から秋へと、行ったり来たりしていたような・・・。

行きつ戻りつしながらゆっくり季節が移り変わっていく・・・そんな秋。

☆  ☆  ☆

   ☆  ☆  ☆

個人的には、9月はそれこそアッという間に過ぎてしまった気がします。気づいたら10月。カレンダーも残り2枚だけ。早いなあ~。今年何か成長したことあったかしら?(お腹の周りだけだったりして^^;)

たった一つだけ、一年前に始めた毎日の瞑想が、まがりなりにも一年間続きました。奇跡です!
朝、一日が始まる前に、15分だけ座る=瞑想することにしています。瞑想とはいっても、大半の時間雑念に振り回されているのですが・・・(泣)

ただし、めげずに2年目に突入します。ほんの一瞬の(雑念でない)瞑想が垣間見えた瞬間を希望にして。なぜ続いているのかわからないのですが、やっぱり何か、何かいいんです。落ち着くというか、大事な何かに出会っている気がするのです。

うまく説明できないのですが、それがあるとないとではやはり何か違ってくるような・・・。理屈ではなく、何となく続いている、何となくやめる気にならない。そんな消極的な動機なのですが、とにかくいまや自分の生活の一部になりつつあります。

それにもかかわらず、いざ座って瞑想をとなると、あれやこれやの雑念に振り回られて、15分終了のチャイムがなって、「あ~あ、今日もまただ~」
と、少々のガッカリ感を感じつつ、気を取り直して「よし、明日こそ!」と思うのでした。リセットする感覚で。

そしたら先日、瞑想の師匠に言われた一言。
「明日はないですよ。いつでも今日が本番」
ク、ク、ク~~~(泣)

そうなんですよね~。

そう、まさにそう。だから、今日のこの一瞬を大事に、ですね。
反省したり嘆いたりする間があるなら、今のこの一瞬に全力を注ぐ・・・そう切り替えて、瞑想しているつもりなのですが、すぐにまたあれこれ考え始めるという無限ループに入っていくのです。

でも、でも、またあきらめずに一年間、いえ、この一日を、一瞬を生きることにトライしようと思います。
何度挫折しようが、気にしない、気にしない。

倉敷、児島虎次郎記念館

もうすっかり秋ですね。
同時に台風シーズンでもあります。
今日は関東もあちこちで大雨警報が出ていますが、皆さんの地域は大丈夫でしょうか?

8月も数日で終わるという日に、所用で岡山に行ったのですが、せっかくなので倉敷にも足を伸ばしました。

夏の観光のピークも過ぎ、何となく「祭りの後」のようなもの悲しい感じさえ漂っていました。ビアガーデンは閉まっているし(アルコールがダメな私には関係ないですが)、観光客もまばらで、「もう夏は終わりだなあ」という空気が感じられました。

そんな中、ふと入った「児島虎次郎記念館」がよかったです。

ここも観覧者は私と、他に一人だけ。建物は明治期の紡績工場の織物倉庫なので、重い織物を天井まで積み上げたときに耐えられるよう床板の厚さが6~7センチはあろうかという重厚な建物です。現在のクラボウ(倉敷紡績)の発祥の地になります。

児島虎次郎さんの絵が素晴らしかったです。有名な大原美術館の所蔵絵画は、倉敷紡績のオーナーであり、美術館創設者の大原さんが、パリ在住の児島虎次郎の進言で収集を始めたものだそうで、当時まだパリ画壇でも注目されていなかった印象派の絵画もいち早く収集しているのは、児島の審美眼の的確さゆえだったと思われます。あの有名なエル・グレコの「受胎告知」も実物がここにあるのです。

東京の美術館などに比べると、本当にさりげなく展示されていて、そこにまた親しみを感じました。(写真を撮るのも忘れて見学していて、ほとんど写真がありません。何となく雰囲気を感じていただければ・・・)

感動したことがもう一つあります。
大原孫三郎さんは企業人であると同時に、社会貢献でも重要な仕事をしていました。友人のクリスチャンに影響を受けたそうですが、社員の健康や安全な労働管理、生活支援のための生協活動や厚生設備、社員のための保育所整備や孤児院の運営まで、企業の発展を図りつつ、社会的にも大きな貢献もしていたという事実は、写真や事実で読むだけでも胸のすく思いがしました。

今の社会を見るとき、大企業の多くが収益を一部の者の懐を潤すことのみに使い、そこで働く労働者がないがしろにされ、地域社会にも冷淡であるという事実が社会問題にすらなっています。明治期の企業人には、大原さんに限らず、社会全体を視野に入れ、人間的な目て企業を運営する視点と度量があったのです。そうした人物を生み出す社会、そうした人物を育てる教育であってほしいとつくづく思います。

結局半日を、児島虎次郎記念館と大原美術館で費やし、他の観光地は観ることもなく帰ってきてしまったのですが、それでも大満足でした。とっても幸せな半日を過ごすことができましたから…。もし、倉敷にいらっしゃたら、大原美術館はもちろん、児島虎次郎記念館にも、ぜひ足を運んでみてください(先に児島虎次郎記念館を観て、それから大原美術館に行くのがお薦めです。係の女性のアドバイスなんですが、より味わいが深まります)。

「アサーション」と人権、そして憲法

またしても長いことブログの更新をサボってしまいました。
本当にごめんなさい。
書きたいことがなかったわけではないのですが、気づいたら2ヶ月近くにもなってしまって・・・。

ところで、夏から秋にかけての夕暮れ時は、ビックリするくらい鮮やかな夕焼けを見られる時があります。

先日、ワークショップのレジュメ作りにちょっと行き詰まったとき、ふとカーテンを開けたら真っ赤な夕焼けが・・・。
こんなとき、思わず誰かに教えたくなってしまうのはなぜでしょうね。
「ねえ、見て!見て!夕焼けよ!」って・・・・。写真ではその十分の一もお伝えできていないので、この十倍の鮮やかさだと思って見てくださいね。

さて、今日はアサーション・トレーニングについて、人権とのからみで少し書きます。

アサーション・トレーニングでは毎回、基本的な考え方をお話しする中で、人権についての話もします。自己表現は基本的人権の主要な権利の一つだからです。

基本的人権は、人種・性別・能力・職業・地位などに関わらず、すべての人が生まれながらに持っている権利です。
だから、基本的人権である自己表現をしないままでいると、長い間には自分の気持ちがわからなくなったり、小さな事でも自分で決めることが難しくなったりという弊害が出てくることがあります。だから、些細なことでもちゃんと意思表示することは大事です。と、自己表現の大切さは、基本的人権を行使することでもあるという流れでお話しします。

実際、トレーニングの中で、自分の思いを自分の言葉で表現できたとき、誰もが本当に生き生きと輝いてきます。表情が和らいで、エネルギーが体の中から解放されたかのように変化します。特別大胆な何かを口にしているのではないのです。日常のちょっとした一言なのですが、それが口にできるかどうかはとても大きな意味を持つのです。こうした変化を目の当たりにすると、一人ひとりが素晴らしい個性をもった存在なんだって実感させられます。

こんなふうに、アサーション・トレーニングの度に自己表現の大切さと、自己表現を保障されているありがたさを実感しています。

ですから、今、問題になっている憲法については、個人的にも仕事上でも、私にとって非常に大きな関心事でもあります。自己表現の自由が保障されなくなる懸念があるからです。

私たちは戦後の日本で、今日まで平和憲法に守られて生きてきました。空気のようで目に見えないけれど、確実に私たちは憲法によって守られていました。その私たちが、将来の世代に対して、人権をないがしろにした社会で生きることを押しつけるなんてできません。

戦争の記憶が薄れていく中、親世代から戦争の話を聞くことのできた最後の世代が私たちです。やがて戦争を記憶している人がいなくなったとしても、平和な社会づくりへの貴重な道筋を示してきた日本国憲法を「守る」だけでなく、「守る」から「使う」へ、そして「使い続ける」、さらには「使いこなす」日本であってほしいと願っています。

自分にできることは小さいですが、やれることをやっていきたいと思います。

夕焼けの美しさを、安心して心から美しいと思えるのも、平和であればこそですものね。