先日の新聞に、お笑いコンビのパックンマックンのパックンが、お子さんの子育てについてインタビューを受けた、ほのぼのした記事が載っていました。
「二人のかわいさには理性を失います」だそうです。
いいですね~ ^^)
さて、子どもが他の子のオモチャを取ったりしたとき、子どもになんて言うか。パックンは「Think(考えて)!」と一言。(日本人の)奥さんは「そこは、我慢でしょ」なのだそうです(わかるわかる)。
パックン「我慢という言葉はすごく便利です。僕は英語で育てることにしているから、使えないんだけど。」
面白いですね、こういうの。英語と日本語の違い。そして文化の違い。アサーション・トレーニングにも関係していて、とても興味深いです。
我慢も大事。同時に、Thinkも大事。自分の頭で考え、判断し、行動すること。子ども達がこの両方を身につけてくれたら、ステキですね。
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「冬のソナタ」といえば、ヨン様ブームを巻き起こした例の韓国ドラマですが、登場人物の中でも、母親ミヒは女性ファンから“悪女”として嫌われている役だそうです。なぜなら、これでもかこれでもかと、次々と悲劇に見舞われるチュンサン(ペ・ヨンジュン)ですが、元はと言えば母親の過去と、その後の誤った判断により起こったことだから、というわけです。
ブームの頃にはほとんど関心がなかったのに、ついに何度目かの再放送の時に、ふと見てしまったのが運のツキ。あまりに都合の良い展開や、すれ違いの連続に、「ありえない」「うっそー!」と思いつつ、毎回ついつい引き込まれて最後まで見てしまった私としては、確かに「悲劇のすべての原因は母親にあり」というのもわからないわけではありませんが…。
そうした“ミヒ=悪女”評に対して、フェミニズムの立場から、別の見方を提示している研究者の意見に出会いました。
女たちの韓流 2~「冬のソナタ」未婚の母の苦悩~
未婚の母を選択し、出生の秘密を隠そうとしたために、次々と嘘を重ねなければならなかった母親ミヒ。そのミヒに対して、当時の韓国社会で、あの状況下、男性への愛を貫いて生きていくためには、ミヒにはあの選択しかなかったのではないか、と理解を寄せているのが新鮮でした。
これを読むと、1970~80年代の韓国社会の現状では、ミヒが少しでも自分の納得いく生き方をしたいと望んだとしても、本当に限られた道しか残されていなかったということがわかります。その意味で、ミヒは家父長制の犠牲者と言えるかもしれません。韓国ドラマに出生の秘密に絡んだ同じような筋立てのドラマが多いのも、こうした社会の背景ゆえと考えれば納得できる気がします。
確かに、日本でも1970~80年代といえば、ずいぶん状況は今と違いました。女性は若いうちに結婚して家庭に入るのが当たり前という考え方はまだまだ強かったと思いますし、未婚の母への風当たりも、現在とは比べものにならないくらい強かったように思います。
ですから、儒教の教えの浸透している韓国で、ミヒの置かれた状況が、女性にとっていかに過酷で、ミヒがとった行動以外に選択の余地がほとんどなかったとしても、不思議ではありません。
しかし、というべきか、だからというべきか、現在、韓国は女性支援の対策、特にDV(ドメスティック・バイオレンス)対策では日本よりもずっと充実した政策を推し進めている国になっています。女性の抑圧された現状が厳しかったからこそ、DV対策が待ったなしの緊急性の高い課題にならざるを得なかったのかもしれません。
ミヒやチュンサンのような悲劇をなくすべく、時代は少しずつ変化しています。
それにしても、未だに新しい視点での解釈や話題提供がなされるとは、やっぱり「冬ソナ」、ただのメロドラマではないかも?!
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このところずっと寒い曇り空でしたが、今日は久しぶりに日射しが戻ってきました。風もほんの少し春めいてきた感じがします。
さてさて、次回の瞑想会のテーマが届きました。
テーマは「第三の目」です。
「第三の目」って、皆さんご存じでしたか?
私は、言葉はなんとなく耳にしたことはあっても、内容についてはほとんど知りません。ですので、次回の瞑想会はいつも以上に興味津々、といったところです。
「目」と言うからには、テーマは身体の使い方に関係していそうな気がします。現代人は頭中心の生活をしているとよく言われますが、自分自身の日常を見てもそういう傾向がありますから…。身体を動かすだけではなく、身体をセンサーとしても使わなくっちゃ、っと思います。第三の目って、そういう意味ではないのかしら?(この辺は推測ですから。事実はどうなのでしょうか?)
と、こんなふうに書いても、何のことやらわかりませんよね。
すみません。
詳しいことは、サイトの「イベント欄」でご紹介することにしますね(今週中には掲載できると思います)。
<後日談>第三の目は解剖学とは関係ないそうです。何かの象徴としての目、ということでしょうか?瞑想会当日まで、ナゾです。ということで、あれこれと勝手に想像して興味をふくらませています。でも、より興味を持って体験できるので、想像をふくらませるのも悪くないかもしれませんね。
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寒暖の激しい毎日ですが、皆さん、お元気でお過ごしでしょうか。このところ寒い日が続いていましたが、今日は一気に春の陽気。そんな中、満開の紅梅を目にしました。
さて、近々、当「セレニティ日記」の衣替えを予定しています。装いも新たに皆さまにお目にかかるべく準備中です。より読みやすく、情報量も増やせる仕様になる予定です。今のブログは書き終わってアップする段階で、よくミスして消してしまうことがあるのです。そうした不具合(と言うか私のミスしやすいところ)もカバーされそうなので助かります。
そんなこんなで、過去の記事タイトルも内容が伝わりやすいタイトルになるよう、見直す作業などしているところです。これが結構しんどい作業なのでなかなか進みません。何しろ書いたときは、あまり深く考えずに、気楽にタイトルをつけていたので、ちゃんと内容を表すタイトルとなると困っています。それに、あまり内容のない文章もいっぱいあって、タイトルをつけるほどではなかったりして…。読み返すと冷や汗ものです。
ということで、中身自体が大きく変わるわけではありませんので、あんまり期待しないで(でもちょっとだけ期待して)、待っていてくださいね。
「そんなことよりもっと頻繁に更新を!」---と言う声が聞こえてきそう。
ごもっとも!!
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あらあら、気づいたら1月も終わろうとしています。年明けに書き込んだきりで、すっかりご無沙汰してしまいました。今年はちょっとはマメに、なんて思っていたんですが、ちっとも変わりませんね。
先日、ある本を読んでいてとても納得したことがあります。それは次のような一節です。
「虫や動物や得体の知れない生き物を借りてしか過激になれない時代というものに、私はいささか空恐ろしさを感じています。」『ぼくらの言葉塾』ねじめ正一(岩波新書)
ここでいう「過激」とはどういうことか、詩人である作者の言葉を借りてみると・・・。
・詩の言葉が狭いと感じていて、それを広げたかった
・詩らしい言葉づかいをいったんぶっ壊して、そこから新しい、風通しのいい言葉の世界を作り上げたかった
というねじめ正一さんは、30代の頃、過激詩人といわれていたそうです。「カッコよく言えば、言葉の原初の力を取り戻す」ことをめざしたそうです。
そういう意味の過激です。
もう少し具体的に説明するために、この本の小見出しを拾ってみましょう。
「ギザギザ言葉で原初の力を取り戻す」
「暗黙の了解を打ち壊す」「スリリングに繰り返す」「言葉をぶん投げられる肉体のパワー」「言葉の太刀を振り回しズレを楽しむ」など、過激さの実態をご想像いただけるでしょうか。
小見出しそのものの過激さ加減は、詩人の巧みな修辞によるものであって、語られている内容は、刺激的ではあっても至極まっとうな内容です。「正確な観察から生まれる想像力」という小見出しがあることからも、その方向性はご想像いただけるかと思います。
そして、過激な詩の一例として、皆さんよくご存じの「ねこふんじゃった」(阪田寛夫)が挙げられています。この曲は世界中でさまざまな歌詞がついているらしいのですが、ここに取り上げられた阪田寛夫さんの詩は、
ねこがふんづけられて お空へとんでって かさをさしてふわりふわり雲の上……
そして最後は、「あしたの朝 おりといで」と言いながら、子ども達は「ねこグッバイバイ」とおうちに帰ってしまう、という何とも奇想天外な展開になっています。
長々と拙い説明をしてしまいましたが、ここでの過激がどういうことを指しているか、少しはご理解いただけたでしょうか。
きれいに整えられたものではない、ちゃんと理屈が通っているものではない、常識的なものではない、誰にも好まれるものではない、当たり障りのないものではない、などなど…。私は「過激」をそんなイメージで捉えました。
「きれいに整えられたもの」や「ちゃんと理屈が通っているもの」、そして「常識的なもの」や「誰からも好まれるもの」や「当たり障りのないもの」などなど、そうしたものにつきまとうカラをいったん破って、自分の正確な言葉の表現を試みてみよう、と呼びかけているように思えます。
さて、最初の2行に戻ります。
「虫や動物や得体の知れない生き物を借りてしか過激になれない時代というものに、私はいささか空恐ろしさを感じています」
大学で学生さん達の相談を受けていると、「ぶち壊していいんだよ。やってごらんよ」と心の中で思わず叫びたくなるときがあります。相談に来た彼らが、過激になれない時代の息苦しさを一身に背負っている、そんな気がしてしまうのです。
学生さん達の背負っている息苦しさは、私たち自身にも重なってくるものがあります。
虫や動物や得体の知れない生き物のように過激になれる人間、そんな人間が愛され、許容される社会をふと熱望してしまいます。
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