セレニティカウンセリングルーム

お元気ですか?(暑中お見舞い)

暑中お見舞い申し上げます。

このところ関東地方は、梅雨に逆戻りのようなジメジメお天気が続いていますが、皆さまはいかがお過ごしですか?
豪雨に見舞われた地方の皆さまにはお見舞い申し上げます。

朝から外を元気に走り回る子ども達の声が聞こえてくると、夏休みだなあと実感しています。そんなにぎやかさをアクセントに仕事をしています。

「暑い暑い」ってぼやきたくなるのですが(実際ぼやいてるんですけど)、夏を味わいながら過ごせたらなあ。

夏の空、夏の風、草や木々、水の色、そして味覚も…。今だけの楽しみですものね。

体調に気をつけて(自分に言ってる)、それぞれの夏を、ステキなことを見つけて過ごすことができますように…。

国産小麦の給食パン…継続の力

今から20年ほど前、都内の某所に小若順一さんを訪ねて話を聞く機会がありました。当時の団体の名称は忘れました(現在「日本子孫基金」と改称)が、食品の放射線照射やポストハーベスト(収穫後の農薬散布)など、食品の安全性について啓発する市民団体で、小若さんはその団体の代表でした。

輸入小麦の安全性への疑問、国産小麦のおいしさ、そんな話をしながら「学校給食に国産小麦パンを導入できないだろうか」というような話題を持ち出した記憶があります。

小若さんの話では、価格その他の面で(ふわふわしたパンにならない国産小麦の特性が理解を得られるかどうかとか、それを克服する技術の面で難しいとか)、現状では非常に難しいという話でした(予想通りの答えではあったのですが、それでも聞きに行ってしまうところがしつこいというか、私のアホさ加減だなあと…)。

「安全性を考えたら国産小麦のほうがいいに決まっている。だけどどう考えても今は難しい」必要性と同時に現場の困難も知っている人の発言なので説得力がありました。「ヤッパリ無理か」とガッカリしたのを思い出します。

というように、学校給食に国産小麦パンを導入することは、当時としては考えるのも愚かといって良いほど、まったく現実離れした問題だったのです。

しかし、あれから20年。
今では学校給食に国産小麦パンを導入している学校があちこちで見られます。4~5年前、初めてそのニュースに接したときは感慨深いものがありました。
「変わるんだ!変われるんだ!」っと。

同時に、たぶんこれは給食の問題だけではないはず、とも思いました。

教育にしても、子育てにしても、問題と思っていることや疑問に思っていることは、地道に変える努力をしていけば、きっと変えることができる、そう気づかされたのです。

もちろん、何もしないでいては変わりません。

学校給食での国産小麦パン導入にしても、そこに至るまでには、多くの関係者のひとかたならぬ努力があってのことです。消費者の安全な食べ物を求める気持ちや環境問題への関心などが、政治を動かし、社会を変え、実現への力になったのだと思います。

あきらめないで、進むこと。
給食パンが教えてくれました。

名前を覚えるⅡ…教え子の名前をフルネームで

教育雑誌に紹介されていたエピソードから…。

ある公立小学校での出来事です。

A先生(養護教員)は子ども達の名前をフルネームで覚えることを日頃の目標にしていました。そのため朝会に出席するときも名簿を持って参加し、全学年の顔と名前を一致させるように努力していたのだそうです。

すると、それを知った校長先生が「私もやる」と言って、同じように子ども達の名前を覚え始めたそうです。養護の先生も校長先生も、担任と違って、いつもクラスの子ども達を見ているわけではないので、子どもと接する条件としては同じです。

そうしてしばらくしたところ、次第に校長先生の集会などでの話の内容が変わってきたのだそうです。

子ども達の様子がわかるようになってから、校長先生がとても講話を大事にするようになったのです。子どもの心に響く話に変わっていきました。

そんなとき、A先生はすかさず、「校長先生、今日の話はいい話でしたね。子ども達はこんな反応でしたよ」と声を掛けるようにし、校長先生にも一緒に「管理職として育ってもらう」のだそうです(=校長先生には内緒^^)。ベテランの養護の先生ならではの心強いサポートだなあと感心しました。また、素直に学んだ校長先生もすばらしいと思います。

「私は管理職であって教育者ではない」と公言する校長先生もいる現状を考えると、たとえそうした状況でも、やりようによっては一歩ずつ変えていくことができるのだと、良いお手本を見せてもらったような気がしました。

難しく考えず、できることから始めればいいんだ。まだまだやれることはありそう、そんな気にさせてくれます。

それにしても、人間関係ってちょっとのことで風通しが良くなったり、会話や笑顔が増えたり、居心地がよくなったりするものなんですね。

名前を覚えるⅠ…学生時代の体験から

私事で恐縮です。だいぶ古い話です。

大学時代のあるクラスの担当教官が、さほどの人数でもないのに、毎回出席をとるたびに私の名前を読み間違えるということを繰り返したことがあります。

名字を間違えるか、名前のリョウコをヨシコと読み間違えるかします。当時の名前(旧姓)は大本ではなく、難しい読みの漢字でもなかったのですが、毎回「鈴木」と読み間違えられました。

ときには、名字と一緒に名前も間違われるときがあって、「スズキヨシコ」と呼ばれたときなど、私のことだとは思わずに返事をしなかったところ、危うく欠席にされそうになったときもありました。以後、注意深くなり、「それらしき」名前が呼ばれるたびに、訂正を入れるようになりました。

名前の音読み・訓読みを間違えるくらいは仕方ないとも思いましたが、それだって出席簿にふりがなを付けたり、どこかに注意書きをメモしておくなどすれば、防ぐことのできるミスだったと思います。それもせずに、毎回出欠を取るたびに間違い、私が訂正を申し出るということを繰り返していました。

そのうちウンザリしてきました。

教室に座っているのが「〇野△子」であろうが「△田◇子」であろうが、先生にとってはそんなことはどうでもよくて、「学生なんて、カボチャやジャガイモが並んでいるのと変わりないのかもしれないなあ」と、だんだんとそんな冷めた気持ちにもなっていきました。

そのせいか、私は最初のうちは前列に座っていたのですが、次第に後列に座るようになり、授業に身を入れて聞こうという気持ちが薄れていきました。

先生が教え子の名前をちゃんと覚えるということが、どれくらい大事か、私のこうした体験からも痛感します。

という長い前置きなんですが、先日ある教育雑誌を読んでいたら次のようなエピソードを知って、ご紹介したくなりました。私の経験と正反対の教師の姿勢で、感動しました。長くなったので、明日の日記に回します。

「すみません」と「ありがとう」

つい最近、あるブログのコメント欄で次のような言葉に出会いました。

「ほめられたとき『いえいえ』などと言わずに、素直にありがとうというのが関西では当たり前だった…」と書かれていました。

「ほお~、なるほどね!」と、ことさら興味をひかれて読んでしまったのには理由があります。

5月のアサーション・トレーニングでは、<ワンポイント・レッスン>で「すみません」と「ありがとう」という言葉を取り上げました。

日頃、お礼や感謝を伝えるときに「すみません」と言う場合がありますが、「すみません」と「ありがとう」ではどんなふうに違うのかを、実際にロールプレイで体験して検討してみたわけです。

そうすると、「ありがとう」と言ったときのほうが、相手に嬉しい気持ちが伝わりやすいし、相手からもすっきりと受け入れられるとわかり、「そんなふうに素直に言えたらいいですねえ」と、参加者の方とも話したばかりだったからです。

なるほど、関西では「ありがとう」が当たり前だったのか………。「軽いカルチャーショック」と言っては大げさですが、私の経験からも、確かにそう言われてみれば思い当たる節もあれこれ見つかります。

コメントの主は東海地方在住の方だそうですから、関西と東海でもこうした違いがあるということは、関西と関東ではもっと違いがあるということなのかもしれないなあと、妙に納得してしまいました。

全国津々浦々、(少なくとも標準語の場合は)同じ日本語を同じように使っていると思ってしまいがちですが、実は地域によって、言葉の使い方やニュアンスに微妙な違いがいろいろあるのかもしれませんね。

それにしても、ちょっとしたひとことでさえ、人により、地域により、受け止め方や表現の仕方もさまざまなんですねえ。そう思うと、複雑で面倒だけど、言葉ってホント面白いです。