またまた、すっかり、ご無沙汰してしまいました。
今、原稿書きに追われています。(本の執筆依頼を頂きました)
一応、元気でおります。
今日はまとまったことが書けませんが、少し落ち着いたら、書かせていただきます。
春ですね!日射しが気持ちいいです。
公園に散歩にも行きたいし、間もなく桜の季節なので、近場でいいからお花見を!
その頃までには、何とかもう少し原稿のほうに形を付けたいと思います。
それまで、しばらくごめんなさい!
どうぞ皆さま、季節をお楽しみくださいますように♪
私も原稿の合間を縫って、鉢植えの植物にお水などやりながら、今はただ、ささやかに春を楽しんでおります。
今日は簡単な近況報告だけで、すみません。近況報告にもなっていないかもしれませんね。一応無事にやっておりますのご報告のみで失礼します。
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映画を見ていて、「あっ、これは?」と興味を引く場面に出会うことがあります。映画の本題とは全然関係ないささいなことなのに、つい興味がそちらのほうに向いてしまう、そんな経験ってありませんか?
先日、アメリカ(イギリスだったか)の恋愛もののコメディをDVDで見ていたとき、そんな場面に出会いました。(カウンセラーという仕事柄、何でもない場面を心理描写を交えて自己流に解釈したというだけのことかもしれないのですが…。)
主人公の男性と恋人が、友人の気軽な誕生パーティーに出席しました。そろそろお開きという頃、料理は食べ尽くされ、テーブルの真ん中にはチョコレート菓子(ブラウニーだったかな?)が一つだけ器に載っていました。その一つを手にとって、仲間の一人が提案します。
「さあ、この最期に残った一つは、今日ここにいる中で、最も惨めな一人へのプレゼントにしよう。」(一同、笑いながら同意)
そこで、テーブルを囲んだ男女7~8人の仲間は、笑顔で、淡々と、あるいはしんみりと、次々に自分たちの過去に出会った惨めな体験を語っていきます。(これは心理援助の方法の一つである、自助グループの分かち合い(=シェアリング)体験と同じですね)
ここで語られる内容ときたら、実は「ちょっと惨め」どころか、本来かなり深刻でつらい内容の過去だったりもするのですが、気心しれた仲間うちということもあって、それぞれが率直にあけすけに言いたいことを語っていきます。お互いが、語られる内容を自分の体験や思いにも重ねたりしながら、気持ちを受け入れることで、安心して語り合える場になっていきます。
そうしたなか、最期に主人公の男性が自分の体験を語り、「〇〇〇〇ということだから、この中で一番惨めな話をしたのはなんといってもこのボクだね。では、これはいただきだ!」と、その日一番ホットで惨めな体験にもかかわらず、ユーモアを交えてブラウニーを手に取ります。
私自身もこうした「分かち合い」はワークショップでとりいれることもありますが、そういう場合はたいてい「嬉しかったこと」などをテーマに話すことが多いので、「惨めな話」をテーマに語るというのは、新鮮な感じでした。
ヘタをするとものすご~く暗く、それこそ惨めで、惨めな体験がさらにつらい思い出にならないとも限らない中、この暗くならないすれすれの微妙な雰囲気でユーモアを保っているところに、とても興味が湧きました。文化の違いも大いにありそうな気がします。
「惨めな話」を披露しあってお菓子をゲットするためには(もちろん映画というのもあるけれど)、自分自身を少しばかり距離を置いて眺められる冷静さと、それになんといってもユーモアを解する感覚が欠かせない要素であるように思います。
また、他人の意見に左右されない自分もいないと、目の前で自分に関する話が出てくると冷静に聞けなくなるということも考えられます。
それぞれ人生の山あり谷ありの起伏が、ほんのちょっとした小休止のような空間を必要としていたのかもしれません。はち切れる若さでもなく、かといって老いを感じる年には遠い、40代か、それよりちょっと前の年齢層の人達が、立ち止まる地点として・・・。
そうして話した後は、ちょっとばかり話す前よりもラクになって、ほのぼのお互いの存在を認め合う空間が出来上がっている、そんな雰囲気が心地よい場面でし た。
おしゃれでほろにがブラウニー味のラブコメディでした。
映画は「Notting Hill」(邦題「ノッティングヒルの恋人」1999米 ヒュー・グラント、ジュリア・ロバーツ)」。
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すっかりご無沙汰してしまいました。
最近ずっと、原稿依頼の仕事を頂き、まとまった原稿を書いていまして(これはまとまった量ということで、内容の方は全然まとまらなくて困っているところなのですが…^^;)、それが子どもの自己表現に関する内容なので、自然に「意思表示」とか、「子育て」とか、「親子」「家族」「教育」とか、いろいろな切り口のコミュニケーションに関する断片が、頭の中をグルグルと渦巻いている感じです。
「自己表現における言葉の持つ力」という意味でも、すごくいろいろなことを考えさせられています。
私たちが何かを表したいと思ったとき、それは言葉だけでなされるものではないけれど、やはり言葉の持つ力というのは大きいと思います。
ちょうどそんなことを考えているときに、新聞で東京都教育委員会が校長先生に対して行った「学校経営自己点検表」というのを知りました。私自身、「表現とは何か」と言うことをいつも以上に意識しているときだったので、先生方の意見表明、すなわち学校での先生方の発言がどのように扱われるかということに興味がありました。そして、東京都の現実を知って、大きな違和感を覚えてしまいました。
まず最初に、「学校経営自己点検表」なるものがあること自体、ビックリ!
これは、学校経営に関して、校長先生自身が〇△×の三段階評価によって、自己点検するために作られているのだそうです。何を点検するかというと、校長先生が教職員の意見を聞かずに、自分自身の判断でものごとを決定しているかどうかということらしいです。普通に考えれば、担当の先生や詳しい知識を持った人、あるいは経験者など、いろいろな人の意見を聞いた上で、最終的に校長自身が決定を下すというのが、望ましいあり方のように思うのですが、どうもそうではなく、むしろ教職員の意見を聞いたりしないで校長先生が自分だけで判断しなくてはいけないということのようです。それに関するいろいろな点検項目があります。
職員室の意見交換が、まったくなければ『〇』なのだそうで・・・。世間一般の常識とは正反対です。
職員会議での「挙手」や「採決」もダメで、意見交換もないとしたら、先生達ストレス溜まらないでしょうか?校長先生だって、やりにくいでしょうねえ。
事務連絡の伝達をするだけの職員会議だったとしたら、とても虚しい気がします。教育活動は人間を相手にするお仕事なのですから、一日過ごせばいろいろな思いが先生達の中にあるはずです。職員室や会議で、お互いの情報交換や、うまくいったこと、いかなかったことなどを自由に出しあうことで、切磋琢磨し、子どもと笑い合うゆとりも生まれるというものです。
先生達がもっと自由に思ったことが言え、子ども達も安心して自分の意見や気持ちを表現するようになってほしいなあ。
アメリカの大統領選挙のニュースを見ていると、人々を動かすあの言葉のパワーと、意見の応酬は魅力的に映ります。言葉を駆使して、議論し、理解を得、相手を納得させ、社会を動かしていく。アメリカに限らず、そういう国際社会を相手に、ちゃんと意見表明するには、日頃から自分の気持ちや意見を言う習慣がないと言えません。子ども達のために、教育の場がまず、意思表示できる場所になってほしいと思います。
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先日、東京の公立小学校で、塾と連携して夜間の特別講習が行われたそうです。
民間の経営手法を学校に応用すべく抜擢されたその校長先生は、「噴きこぼれ」をつくらないための新しい取り組みだと言われます。
その夜間スペシャル塾についての是非はこの際置いておきますが、この校長先生の言う「噴きこぼれ」という表現が気になりました。
その校長先生によれば、いわゆる成績上位の子ども達、もっと成績を上げたいのに、学校が教えないために学力を伸ばせない子ども達を「噴きこぼれ」と呼んでいるのだそうです。
従来から落ちこぼれという言い方がありました。私は、この表現も好きではありません。
「落ちこぼれ」と「噴きこぼれ」、どちらも人を人と思っていない発想から出ているように感じられてしまうからです。学校という「器(鍋)」がまずあって、そこに納まるか納まらないか(基準に合うか合わないか)という発想だけで子ども達を分類しているように感じるのです。仮に、本気で子どもたち一人ひとりに向き合うつもりがあったなら、「鍋」という発想は出てこないだろうなあと。
とは言っても、現実問題としてすべての子どもたちに個別指導するなんて無理ですし、一斉授業で教えるのはしかたありません。でも、だからこそ、学校はどんなにがんばっても個々のニーズには応じきれない部分もあるし、子ども達を集団の一員に過ぎないと見てしまうことのないように最低限意識しておくことが必要になってくるのではないでしょうか。
それに何より、先生に「落ちこぼれ」「噴きこぼれ」と呼ばれたら、子どもとしてはとても悲しい気持ちになりますよね。面と向かって自分に言われるのではないとしても、自分たち生徒が先生にそう言う目で見られていると思うことは、淋しい気持ちにすると思います。
おソバをゆでていると、ふわーっと泡が盛り上がって鍋の縁からお湯が溢れそうになる。ギリギリでお水を一杯投入、が一瞬間に合わなくて、少しだけお湯が噴きこぼれた。・・・・・子ども達は「噴きこぼれ」なんかじゃない!
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大学の後期授業が終了しました。学生相談室はお休みになります。
当然4年生の学生達は卒業していきます、カウンセリングが終了してもしなくても…。
相談室での悩みも解決し、晴れて卒業する学生の場合は、私もとても晴れ晴れした嬉しい気持です。
いっぽう、大学の相談室では手に余る問題のこともありますし、短期間に解決できない問題のことも…。そうした場合にも、卒業と同時にカウンセリングのまとめのような形に持っていかなくてはなりません。
ここが一般のカウンセリングルームなどと違うところですね。カウンセリングの途中であっても終結しなくてはいけないのです。
複雑な心境です。もちろん、卒業に合わせてカウンセリングが終了して送り出せるように最大限努力するのですが、必ずしも願ったとおりには進みません。
そうしたとき私にできることは、卒業までとにかく寄り添い、伴走すること。
解決できない問題を抱えたまま卒業する学生にはこんな風に伝えることも…。
最後の面接で―、
「とにかくこれからの人生どんな時も諦めないで、自分を大切に毎日を送っていってほしい。良い出会いがあることを祈っているよ。」
言葉に思いを精一杯込めて送り出します。
普段と変わらぬ様子で、背中で私の言葉を聞いて出て行った○くん、がんばれ!
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