セレニティカウンセリングルーム

アサーション・トレーニング後のエネルギー

先週の土曜日はアサーション・トレーニングでした。毎回、少人数制で、参加者個々の体験に基づいた事例をとりあげさせていただきます。それだけにどんな事例が飛び出すか、すべてライブの緊張感があります。終わって皆さんが笑顔だと、やっとホッとできます。

また、数時間のトレーニングが終わる頃には、それぞれの個性がいきいきと輝き出すのが何ともたまらない魅力です。それは単に、言いたいことがうまく伝えられるようになっていくというスキルの問題だけではないような気がします。

自分が自分でいられる、そのことが私たちにとってどれだけ自然で安定した状態であるかということを、毎回、改めて学ばされるのです。

アサーション・トレーニングの終了後は、会場の中に自然で快活な雰囲気が満ちています。何とも言えない良い雰囲気なんです。・・・って、自画自賛みたいになってしまいますが、これは、自己表現できると、誰もが本来のいきいきとしたエネルギーを取り戻すことによって起こってくる、ごく自然な状態なのであって、決して私が何かをしたからということでも何でもないのです。自然に、当たり前に、誰もが自分自身でいられる、その心地よさです。これからももっともっとプログラムを充実させて、一人でも多くの方にこの価値ある体験を味わっていただけるようにと思っています。

心の悩みにバンソウコウ

私は週に二回、大学の学生相談室で相談員をお引き受けしています。

最近つくづく思うことは、学生達は大なり小なり、大学に来るまでに、人間関係やら社会の軋轢やらでずいぶん傷ついて来ているんだなあということです。

自分に自信がなかったり、対人関係にとまどっている学生達も多いです。優しくて真面目な人が多いのです。そして誰もが、当たり前のことですが、自分の人生をどう歩んでいこうかと真剣に悩んでいます。「いまどきの若者は…」とマイナスイメージで一括りにされてしまいがちですが、ちゃんと話を聴いてみると、それぞれにそうならざるを得ない理由があるのも確かです。

一見、何ごともなく、気楽に学生生活を送っているように見える学生達が、話を聴いてみると実は深刻な悩みを抱えていたりします。それらは主にコミュニケーションの問題なので、表れ方はさまざまですが、形を変えて大なり小なり、多くの学生達に共通する課題となっているのだろうなあと想像します。

よく事件があると「普通の中学生がキレた」みたいな言い方がされますが、おとなが「普通」だと思って見過ごしている一人ひとりの中に、深刻な悩みが潜んでいるのが現実でしょう。第一「普通」って何でしょうか?「普通」という言葉でくくってしまうと見えなくなる一人ひとり。そこにこそ、おとなが目を向けなくてはいけない部分ではないでしょうか。そのことを子どもや若者達が身体を張って訴えているのかもしれません。

それらの問題は10代後半から20代といった、子ども時代の総仕上げともいえる時期に噴出してきます。大学はちょうどその時期に当たりますし、。そして大学の場合なら、それは社会に出る前の最後のチャンスかもしれません。そう考えると、学生相談室の責任は重大で、その責任の重さに、一瞬たじろいでしまうほどです。

が、そうも言っていられません。たとえ学生相談でのカウンセリングが、手術に対するバンソウコウや包帯くらいの役目しかなかったとしても、包帯を巻きに行かないわけにはいきません。たとえ一時の包帯でも、それがあることで苦境から脱出できる学生達がいるのならね。

だって若い人たちの生命力はすごいのです。ひとたび気づくとグングン元気になっていきますから…。こちらも励まされます。

君の人生、好きなように生きていいんだよ。やりたいことをやってみたら。とオバサンがハッパを掛けると、彼らの目がキラキラとし始めます。本当に純粋なんです、みんな!それが「バンソウコウ」を貼る私の、原動力になっているのも確かなようです。

学校における子どもの人権

今日は、以前に学校の先生から頂いたお便りを抜粋してご紹介します。今読み返しても、あるいは今だからこそいろいろ気づかされることも多いように思います。

実は数年前に私は、アンケートのような形で何人かの先生にご意見を伺ったことがあります。今思えば、一言では答えにくいこんな質問をよくもお送りしたものだと我ながら恐縮してしまうのですが、その時頂いたお返事の一部です。

(「子どもの人権」をもっと教育に取り込むことはできないかと伺ったところ・・・。以下、お返事のメールから抜粋)
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かつての同和教育から一歩進めて「人権教育」をしようという流れが現勤務校にもあるのですが、果たして教師がどの程度人権について理解しているか疑問です。

今の学校では「子どもの権利条約」は学校教育とは相容れないものだと豪語している輩もいますし、先日地元に「子どもの権利を守るネット」みたいのが生まれた際も、「退学者も人権侵害を訴えてそういう相談機関に相談に行く可能性があるから学校は気をつけないといけない」とか言ったりして(ちなみに彼は生徒指導主任です)まったく???です。生徒の方がよっぽど健康な人権感覚をもっています!

日々いろんな先生たちとの感覚のずれを感じ孤立感を感じていますが、アメリカ人のAET(英語指導助手)だけは私の疑問とか不満を理解してくれて助かっています。

それに、生徒たちが何より私を支援してくれるのがありがたいです。授業の方も、まだまだだけれど、「勉強が楽しくなった」と休み中に勉強するからと放課後プリントをもらいに来る生徒もいたりしてほんとにありがたいです。まだまだ道は長いけれど、自分を信じてやっていくしかありません。

なんだかまとまりませんが、今日はこのへんで。
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(お返事ここまで)

子ども達に寄り添い、教育の本質に沿って日々励んでいらっしゃるこうした先生達がおられればこそ、毎日の学校は廻っていくのだとつくづく思います。

久しぶりの瞑想会…自分を「見る」

終わって外に出ると、昼間の暑さが残るものの風はさわやか。夕方5時と言っても今は明るいですね。土曜の夕方だからか、道行く人も何となくのんびりしていて街がゆったり感じられます。

瞑想会の後のこのリフレッシュした自分をいつも感じられたらいいと思うのだけれど、すぐにいつものバタバタとした日常にもどっってしまうのですよね。

とはいえ、ふだん「自分を見る」ことなんてまずないので、とても貴重な時間になっています。

瞑想会では毎回、「自分を見る」ということをします。いろんな方法で。
この場合、「見る」のは、反省したり、評価したりということじゃなくて、ただ「見る」ということ。
良いとか悪いとかじゃなくて「見る」だけ、なんです。

ちょうどお母さんが見ていてくれると子どもは安心して遊んでいられるのに似ています。自分で自分を見てあげることで、安心して自分が自分でいられるということ。

何だかわかんないなあ、雲をつかむような話だ、って思われますか?

う~ん、そうかも…。
もし機会があったら、ぜひ一度体験してみてくださいね。実感をつかんでいただけることと思います。

言葉の力(激励メール)

このところ「セレニティ通信」の編集をしています。といっても、あれやこれややりながらなので、なかなか進みませんが…。

編集に行き詰まると、ずっと以前にいただいたお便りやメールを読んだりしています。頂いた当初、何かしら心に残るものがあって、そのまま保存してあった文章は、今読んでもやはり心に響くものがあります。

時間が経っても、古くならないもの、価値は変わらないということなのですね。それは言葉の力と言っても良いでしょうか。

(ある友人のメールより)
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私の感想は
自分自身の決心を判断をあるいは決意を尊重してあげることだと思います。
それが自分を大切にすることとなると思います。
たとえ結果がどうであろうとも
自分自身のためにエネルギーを注いであげられるのならそうするべきでしょう。

(略)

自分自身を信頼すると言うことは
このような状況からはぐくまれます。

もちろん現実的なことも必要ですが
少なくとも「今現在」大本さんが問われているのは
自分自身を信頼するということでしょう
成功とか失敗は実はどちらでもよいのです
自分自身に従うことが成功であり多くの学びとなっていきます。

生はいつもチャレンジの連続です。
そしてそれは人を育んでいきます。
しかしチャレンジは自分自身の決意から生まれた
チャレンジであるべきです。
そして
どのような決断であれ
決断した自分自身を信頼し力を貸してあげて下さい。

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実はこれ、私自身が仕事ですごく悩んでいたときにある友人から受け取ったメールです。

「結果よりも自分の本当の必要性から下した決断・決意こそ、自分の糧である。」…その後、体験によって本当にその通りだなあと多くを学びました。案外、当の本人は「そんなこと書いたっけ?」と、忘れていると思いますが…。

「アサーション・トレーニング」の中でも、<決断・決意>は重要なポイントです。言葉を発するのはある意味での小さな決断の連続です。その自分自身の決断を積み重ねる体験が、より<自己肯定>へとつながっていきます。

皆さんからいただいたお便りやメールは、私の宝物であり、成長の糧にもなっています。