関連するコトバ 『 意思表示 』
英語より、まず日本語で
アサーション・トレーニングや瞑想会の会場として使っているコミュニティセンター周辺はバラ祭りで有名です。今年のバラ祭りは5月の18、19日に行われとのことで、写真を撮った日はすでに見頃を過ぎていました。
それでも、初夏を思わせる日差しの中、駅前に出た途端に鮮やかな色彩が目に飛び込んできて、通りがかりの女性が「うわ、すごい!」と小さく声を上げたほど、結構壮観でした。私も目的地に向かって道路沿いの花壇を横目に見ながら歩く数分間、五月のバラを楽しみました。
駅構内の改札脇にもバラの鉢植えが……。(一番上の写真)
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ところで、話は変わりますが・・・。
2~3日前、ラジオを聞いていたら、文科省が英語でのコミュニケーション能力を上げるために、小学校段階から英語教育に一段と力を入れるという政策を巡って、町の声や視聴者の意見、専門家の立場から鳥飼久美子さん(立教大学特認教授)のコメントなどが取り上げられていました。鳥飼さんは外国語の重要性は認めながらも、単に授業数を増やしたり、英語以外の科目をすべて英語で教えるなどという具体策に疑問を呈していました。
強調されていたのは、英語で話す以前に、自分の意見を持ち、それを日本語で表す能力を養うことが先、ということでした。子ども達が日本語で自分の意思表示をちゃんとできるような教育が先で、それができて初めて英語でのコミュニケーションが成り立つ、と至極まっとうな意見でした。これについては、町の声も視聴者の声も同様でしたので、心強く思いました。そして、もちろん私も鳥飼さんの意見に大賛成です。このことは、アサーション・トレーニングで常々お伝えしていることとも重なります。
大学で学生さん達の悩みを聞いていると、「自分の気持ちがよくわからない」「自分の気持ちを話したいと思わない(投げやり、もしくはあきらめている)」といった声を時々耳にします。気持ちがわからないのは、ふだん自分の気持ちを無視してしまっているから。
意思表示をあきらめている学生さんを前に、私はこんなふうに言います。
「でも、あきらめずに自分の気持ちを意識するようにすれば、徐々に気持ちに気づけるようになるし、それを言語化しようという気持ちも生まれてきますよ」と。そして、今日から新しいコミュニケーションに向けてスタートすることを提案します。善は急げです。どんな感情や意見も自分のありのままの状態だから、それをまず認めてあげる。そうやって自己肯定感を育て、言語化して意思表示し、コミュニケーションへの足がかりを創っていけるようサポートします。
本当は小学校段階でそうしたコミュニケーションの土台となる<自分の気持ちや意見>を安心して話せる場や機会を持つことが大事なのだと思います。文科省がやるべきことはむしろこっちですね。
その土台があれば、外国語での意思表示も可能になろうというものです。
自分の気持ちに気づき、自分の意見を持ち、それを言葉にして相手に伝えたいという気持ちがなければ、英語は愚か日本語でさえコミュニケーション能力は磨かれようがありません。「表現したいことがあり、表現したいという欲求がある」、この二つがなければ、何語であれコミュニケーションをとることは難しいでしょう。
生まれたときから意思表示をあきらめてしまっている赤ちゃんはいません。赤ちゃんはお腹がすいたりおしめが濡れたりすれば大声で泣いて教えます。それが、成長過程のどこかで「言わない方が無難」「言ってはいけない」「言わないことが身を守る安全策」と学習してしまった結果、気づいたら言えなくなっていたということではないでしょうか。
家庭や学校で話を聞いてもらえなかったとか、言ったばかりにいじめられたとかいう、ちょっとした(本人にとっては重大な)理由で、人に関わることに不安感を覚えてしまったのかもしれません。
子ども時代は、一生の土台を創る大事な時期として、安心して意思表示できる機会や場を創ってやることが、英語でしゃべるより先に必要な、教育の大きな役割であると思います。とはいえ、何歳であれ、「変えたい」と思ったときがチャンス!卒業までの短時間ではありますが、学生さん達が少しでも自信を持って意思表示できるようになれば、カウンセラーとしてはと~っても嬉しいです。
晩夏のつれづれに
今日から9月。すっかりブログの更新がお留守になってしまって、失礼しました。連日の猛暑は、「これでもか、これでもか」と体力テストを強いられている感がありますが、どうにかこうにかやっています。
皆さんはお変わりありませんか?
天下国家の動きもここのところすごいですねえ。目まぐるしい速さでいろいろなことが展開し、十分に吟味したり、考えをまとめたりできないまま、日々の流れに乗せられていく感じです。昨年の3月11日から、ものごとの本質が露わになってきたように思います。
そして、こうした混沌とした時代であるからこそ、基本的なこともまた露わになってくるとも言えます。それは、どんなときも基本は一人ひとりの心の中から始まるということです。必要なのは、耳目を惹きつける大げさな言葉や、他者の声をかき消すような大声ではなく、真摯で誠実な言葉なのだと思います。それは、心の底からの、本質を捉えた静かな訴えの中にこそあると思っています。つまり、一見、非力に思われる私たち一人ひとりの心からの願いや希望がこの混沌とした世界を変えていく源泉になると信じています。
ときどき連絡をくれる福島の青年S君が、先日こんなことを言っていました。
「村興しをするに当たって、何から始めるか、何をめざすかを考えていくと、むしろ全体の大きな枠で考えるのではなくて、一人ひとりの個人がどんなことを考えているのか、何を大事にしているかを考えていくことになるんじゃないかと思っています。一人ひとりが大事にしているものを大事にできる共同体をつくること、そういうことなのかなあと」
一から始める復興は(というより失ったものの癒しと回復から始める、むしろマイナスからの復興かもしれないけれど)、立ち上がる一歩はそこ(=個人の声に真摯に耳を傾け、思いを共有するところ)からしか始まらないし、それこそが今現在待望されていることだと思います。
ことは福島だけに留まりません。日本全体、ひいては世界に共通する課題として、個人の願いと希望に光を当てていくところから始まっていくのではないかと思います。
話が大きくなってしまいましたが、混沌としているときこそシンプルに捉えることで本質が見えてくる気がします。一人ひとりの声を聞くことの最初の作業といったらなんでしょうか?それは自分自身の声を聞くことですね。自分に正直であること、自分の声に耳を傾けて言葉にすること。嫌なものはイヤとハッキリ言い、おかしいことにはおかしいと意思を表明し、嬉しいことや喜びを表現すること。そんな当たり前と思えることをコツコツと、できるところからやっていくことが、急がば回れの近道ではないかと、そんなことをS君との電話の後で思いました。
長々と述懐してしまってすみません。つい、気になってしまうんです、将来の日本のこととか(明日の自分のことも分からないのにね・・・苦笑)。年齢的なこともあるかもしれませんね。この歳になると、孫やその次の世代のこととか、気になるものなんですよ。ということで、独白的言及、お許しください!
残暑もきっとあと少し、ご自愛くださいませ。