関連するコトバ 『 17才 』
「17歳」は今…
昨晩はHa先生の告別式でした。教え子の中学生達が20人ほど列席していました。いつも感じるのですが、お葬式の時など、子どもや若い人達がいると何だかホッとします。
悲しい気持ち、淋しい気持ちが、少し和らぐような気がします。そんなとき、若い人の存在が本当にありがたく思えます。
命は次の世代につながっている…、限りある命を大切に生きて、次の世代につないでほしい。彼らの背中にそんな希望を託したくなります。
そうした若者であったはずの一人の青年が、秋葉原で悲惨な事件を起こしました。「彼の気持ちがわかる」「わたし(オレ)と一緒だ」という何人かの若者の声も聞きました。
こうした事件のたびに、原因の徹底究明をと盛んに言われます。
でも、本当にまだ原因が解っていないのでしょうか?
これ以上、まだ考える材料が必要なのでしょうか?
本当は解っているのだけれど、気づかないふりをしているだけではないのでしょうか?
見ないようにしているだけではないのでしょうか?
ここに一冊の本があります。
「少年サバイバルノート」(西山明 集英社新書 )
プロローグから少し抜き出してみます。
「家族を取り巻くシステムが過去の時代のものとなり、家族は孤立化して、子育てから老人介護まで、その重荷を一手に負わされてきた。 …略…
そうした家族の内部で子どもはどのように育っているのか、子どものさまざまなつぶやきや不可解に見える行動は、この現実を必死に生きるために子ども自身が編み出した「自己表現」ではないか、と思っている。ときには彼らの歯止めがないような日常の振る舞いや言葉遣いに慨嘆するときもあるが、この時代に死にもせずによく生き残った、という感慨の方が私には強い。」
この時代に死にもせずによく生き残った――本当にそう思います。子どもは本当によく頑張っていると思うし、ただただ生きていてくれることに感謝せずにいられません。
そして、こう続きます。
「子どもは歴史の中に自らの記録を残さない。ときどき想像することがある。子どもが彼らの目の高さから、目撃した周りの大人の姿を毎日記録していたら、逆に大人はどれだけ子どもの視線に耐えられるだろうか、と。」
少年法が改正され、子どもをおとな並に裁こうとする風潮が強まっています。教育基本法も改正され、子どもを国の材として育てることが目標とされるようになりました。
子どもに要求する前に、おとながまず何をしなければいけないか、ただそれだけを、子ども達(若者)は身をもって訴え続けているようにしか思えないのです。
先の本の帯には「『17歳』はなぜ危ないか」とあります。この本が出た2000年当時、17歳の起こす事件が多発したことを受けてです。あれから8年、私たちは少年達の起こす事件から何を学んだのでしょう。
以前、読んだときは、サーッと読めたように思うのですが、今はもっと重く一言ひとことが、胸に響いてきます。それだけ状況が厳しくなり、問題の深刻さが増したのかもしれません。
事件が起きたときだけ関心を持つのではなく、日頃から、社会全体がじっくり取り組んでいかなければならない問題だと改めて思いました。