関連するコトバ 『 学生相談 』
巣立つ学生の、心に残る何かを
だいぶ日が長くなりましたね。
陽射しもすっかり春です。
もうすぐ新学期が始まります。
先週、久しぶりに用事があって大学に行って来たのですが、
実験や研究、または部活動のために来ている学生がパラパラというくらいで、ひっそりとしたキャンパスはのどかな庭園の趣でした。
そんなキャンパスの小道を抜けると、これまたひっそりと、梅の花が咲いていました。
姿はひっそりでも、香りはしっかりと高貴な存在感を放っていました。
凛とした美しさ。
梅の花を見ると、
「凛とした」という表現が、
これほどピッタリした花もないのではないか、と思ってしまいます。
梅が終われば、桃、桜と、春が駆け足でやってきますね。
春といえば、出会いと別れの季節でもあります。
今年も相談室で出会った学生達がそれぞれの進路に向けて巣立って行きました。卒業、休学、退学など、試行錯誤しながら、それぞれが迷いながら確かめながら歩いていく道。
この先の長い人生の中で、あの相談室での、あのときのこと、あの一言、それが人生で生きてくる、そんな何かを持ち帰っていてくれたらなあと思います。相談の中で、そのような対応ができるようにというのは、私自身の指針でもあります。でも、彼らが大学の相談室から何を持ち帰ってその後の人生に生かしてくれるかは、確かめようがありません。
しかし、ときにはこんな嬉しいことも。
ある年、卒業も間近に迫った相談室でのこと。相談が終わっての帰り際、女子学生が鞄から小さな袋を取り出しました。
「この前、部活で〇〇へ行ったんです。少しですけど・・・」と、うつむいて照れながら差し出された小さな包み。学業も部活も行きつ戻りつ、恐る恐るの半歩、一歩。それでも諦めずにねばり強く続けて、卒業、就職までこぎつけてきたこれまでが思い出され、感無量でした。
シャイな彼女には、おみやげを手渡すこと自体かなり勇気がいっただろうと思うと、この小さな包みがいじらしく見えました。
家に帰り開いた包みには、一口サイズのかわいらしいお菓子が入っていました。小さなお菓子をさらに小さく切り分けながら、一口ずつかみしめ、味わって頂きました。格別のおいしさでした!
あと2週間もすれば、新入生を迎えて、また新たな一年が始まります。
「ワクワクドキドキ」を大切に!
明けましておめでとうございます。
年末にバタバタしているうちに、締めくくりのご挨拶をする間もなく年が明けてしまいました。新しいスケジュール帳に新年の抱負などを書くのが自分の中の年中行事みたいになっていたのですけれど、気づくと去年も今年もやっていませんでした。その気力が出てこなかっというか、やはり311のいろいろな意味での心理的ダメージが大きかったことに今更のように気づきました。
震災と原発事故は私にとって向き合わなければいけない課題でありながら、まだ整理がつかないままでもあります。向き合うことでたとえ気持ちが落ち込むことがあったとしても、そこからしか次の一歩は踏み出せないとも思います。ですから、この間の重い気持ちそのものも必要なプロセスでした。
そして新たな一年を前にして、まだ言葉にすることはままならないながらも、ほんの少しずつ夢や希望といった言葉に心を寄せる自分がいます。重い部分も抱えつつ、同時に夢も希望も語れるような年にしていかれたらと思っています。
。。。。。
さて、私の好きな言葉に、海洋生物学者レイチェル・カーソン(「沈黙の春」の著者)の「センス・オブ・ワンダー(sense of wonder)」という言葉があります。自己流で「ワクワクドキドキ」と勝手に解釈しているのですが、言ってみれば、誰もが子どもの時に持っていたあの新鮮で生き生きした感覚のことです。新しい物や出来事に触れたとき、好奇心いっぱいに目を輝かせて集中する力、自分の中から自然に湧き出てくる直感的で原初的で力強い、自分を動かす力の元でもあります。
カーソンの言葉を借りれば「神秘さや不思議さに目を見張る感性」です。そしてカーソンは、教育の文脈でこんなふうに言っています。親たちが「自分に豊富な知識がないために子どもに教えてやることができない」と嘆くのに対して、
「『知る』ことは『感じる』ことの半分も重要ではないと固く信じています」
と言い、子どもと一緒に体験し、感動することの重要性を説いています。知識を与えることよりも、まずは体験し感動することの方が大事、と言っています。感動する体験こそが、やがて子ども達の中に知識を取り入れ、育てていく肥沃な土壌を育てることになるのだとも。
。。。。。
大学の相談室でもこのことは実感として感じます。
「この学科が適切であったか」「大学院に進むか就職するか」「自分はどんな仕事をしたいのか」など、迷いの中で学生は選択を迫られ、自分の気持ちを問わないわけにはいかなくなります。そこで初めて、学校教育の中で先送りしてきた<自分で選ぶ>という場面に行き当たって悩みます。それまでのように、親や教師や塾の講師に決めてもらうわけにはいきません。こうした自分自身の選択の場面に至って、自分が何をしたいのかわからないという学生も少なくありません。
(彼らが望んでそうなったというよりは、そうした学校教育システムになっているためです。このことは重要な問題ですが、ここでは省きます)。
とはいえ、そんな彼らの中にもちゃんと「センス・オブ・ワンダー」は存在するのです。が、日頃使っていない感覚なので、彼らの中では眠っていて、意識しないと気づくことができません。カウンセリングを進める中で、次第に学生達の気持ちに変化が起き、本来持っていた力が蘇り、「ワクワクドキドキ」の感覚が戻ってくるのです。
学生相談とは、いわば眠っている「センス・オブ・ワンダー」を呼び覚ますための作業なのかもしれません。カウンセリングはもともとクライアント自身が持っている力を発揮できるようお手伝いすることなのですから、当然と言えば当然ですが…。
私自身もワクワクドキドキの感覚を思い出しながら、より元気になれる年にしたいなあと思います。
今年もよろしくお願いいたします。
今年が皆様にとって良い年となりますよう・・・。
派遣村を出て実家に帰る選択は有る?
昨年暮れからお正月明け頃まで、日比谷公園に「派遣村」ができました。全国から集まった派遣切りにあった人達に対して、「行くところがなかったら実家に帰ればよいのに」と言う意見もあったと聞きます。
それは難しいなあ、と言うより無理ではないかなあ。と瞬間思ってしまったのは私だけでしょうか。
なぜなら、実家に帰れない(帰りたくない)事情があって、ネットカフェに寝泊まりしていたのでしょうから、仕事や泊まる所がなくなったからと言って、突然「実家に帰ろう」ということには、なかなかならないと思ったのです。
日ごろ、大学生の話を聞いていると、話題が直接家族との関係に触れていなくても、学生達と家族の人間関係の温度の高低みたいなものは伝わってきます。
特に家族の仲が悪いというのではないけれど、なんとなく疎遠…というような感じも多く見受けられます。
では、学生達が家族のことを無視しているのかというとそうではなく、むしろ気遣っているからこそ、自分が迷惑を掛けないようにしようとして、疎遠になっている。そんな感じです。
そして時には、同じ家にいてもほとんど話をしないとか、生活リズムが違うため顔を合わせる機会がほとんどないとか、食事は自室に持って行って一人で食べるとか、…家族というより同居人みたいな感覚に近いかなあと思ったりするときもあります。
これらは良い悪いの問題ではなく、人によって、状況によって、生活していると自然にそうなっていく、そんな現状社会一般の状況が現にあるということだと思います。
同じ一つ屋根の下に暮らしている家族の中であってもこうした状況です。仮にもし、ある人が派遣切りにあった場合、その人がふだん家族と連絡をとっていなかったとしたら、その状態からいきなり、「仕事も住む所もないから実家に帰ろう」とすんなり決められるものではない気がします。
そんなことを思っていた矢先、精神科医で引きこもり問題に詳しい斎藤環さんの講演を聴く機会がありました。
そしたら斎藤さんが、「派遣村の人達は実家に帰ればいいという話があったけれども、それは彼らの選択にないでしょうね」と、サラッと言われました。
思わず、「オっ?」と思ったのですが、斎藤さんの場合は、私とは少しニュアンスが違うのです。実家が逃げ込み先にならなくなったのが「ネットカフェ難民」と言われている人達だというわけです。
イギリスでは若年ホームレスが26万人だそうです。日本のネットカフェ難民は一応5000人とされています。
イギリスの場合、「パラサイトは恥」という文化社会の国なので、家に居続けるわけに行かず、ホームレス化することになっってしまったのであり、日本の場合、今までは「引きこもり」という形で家が抱え込む力を持っていたのだと言えます。
家に抱え込む力がなくなったとき(不況もその一因)、ネットカフェへ流れたのではないかというのが斎藤さんの意見でした。だから、また家に戻ると言うことは考えられないというわけです。
いずれにしても、家族、個人、社会、文化、いろいろな意味で、変化や柔軟な思考を鍛えられずにはおかない状況のように感じます。
柔軟な思考と変化で、この先いつまでついていかれるかしら?
と、ちょっと自分に不安。
&、ちょっとこれからの社会の変化に期待。期待というのは、思いがけず、既存の価値観や方法にないものが見つかるかもしれないという期待です。