関連するコトバ 『 若者 』
(続)お坊さんの講話(若者の場合は?)
テレビで見たお坊さんの話の続きです。
お坊さんに司会のアナウンサーが質問しました。
「とは言いましても、一度求めてみないことには、求めているものがすでに自分に備わっているのかどうかさえわからないと思いますけれども、いかがでしょうか?」
お坊さん「確かにそうです。実際、釈迦も6年間、探し回った末に、私たちのほしいものはすでに備わっているのだから求める必要はないと言われたわけですから」
(ここでは、お坊さん、ちょっと説得力がなくて分が悪いように思う)が、それでもかまわず「すでにあるのだから、求めなくてよいのですよ。」と念を押される。
そこでふと思い出した、
ある若者が以前、こんなことを言っていました。
悩んでいるその青年に対して、ここでのお話のように「すでに、人は生きているだけで意味のある存在だと思う」というようなことを私が言ったときのこと。
「年をとってからなら、そうも言えるだろうけど、今の自分にはとてもそんなふうには思えない。」と言われました。
だからお坊さんの話は、やはり年齢によっても違った聞こえ方がすることだろう。人間の存在そのものに価値があるとしても、その上でやはり、若い人には特に、何かやるべき事が必要だと思うのです。
それがたとえ「当面」のことであってもよいから、「何か」があれば日々が過ごせるはずです。言い換えれば『自分が他者から必要とされる」何かが、必要になります。
それはやはり「人とのつながり」に行き着くのかなと思うのです。たとえそれがほんのちょっとしたことであったとしても、自分が必要とされる形で社会に関わり、自分も社会から関わられる。今、若い人達の多くに、そうした仕事(職業と言うのでなくても、ささやかな活動でも何でもよい)が求められているということではないだろうかと思いました。
それは単に労働力として消費されるのではない働き方や活動の仕方と言えるかもしれません。
報いを求めず、すでに自分に備わったもののすばらしさに気づくことは大事。同時に、そうした自身のすばらしささえ当たり前のように思わずにいられない、若い人の向こう見ずなくらいなパワーも否定されるべきではないと感じます。
お坊さんの含蓄のあるお話を聞きながら、世俗の些事に限りない愛着を感じている自分に気づいたのでした。悟りにはとお~~~い、ですね。
(以上、仏教に詳しい方が読まれたらメチャクチャな解釈かと思いますが…、思うまま。)
「聴く」時間を持つ
今から10年位前に17才の少年犯罪が多発し、社会問題化した時期がありました。先日、その頃に読んだ一冊を読み返す機会があったのですが、問題の指摘はそっくりそのまま今に通じるので、ちょっとビックリしました。少しも古びていません。でも、こういうことで鮮度が落ちないなんていう現状は、ちっとも喜べませんね、少し長いですが、引用します。
『「親が子どもにしてやれることは何だろう」と考えたときに、思い浮かべるのが学歴である。しかし学歴を与えれば一生安泰かと言えば、そのようにはだれも信じていない。信じていないが、親としてやれるのはそれくらいしかない、といまだ学校ブランドにすがっている現状が、近代化を達成した日本の親の姿でもある。
だが子どもは砂をかむようなつらさや、虚しさを抱えているのだ。
「みんなと同じにしていなさい」と「個性を発揮しなさい」。
「とりあえずいい大学に入りなさい」と「いい大学に入っても先行きは分からない」。
こうした相反するメッセージに縛られて、子どもは身動きがとれない。子どもは二つのメッセージに引き裂かれている。子どもは学校に行く意味を探っているのだ。
なぜ、学校に行くのか。その問いに対して、経済成長を目指して走る中で、大人は「大学に行ってから考えなさい」という先延ばし論でごまかしてきたが、もはや近代化が達成された段階では、ごまかせなくなった。』
不登校、学級崩壊などの問題も、なぜ学校に行くのかという子ども達の問いを含んでいると、著者は指摘します。
そして、「不登校は逃げだ」と言われるが、
『問題の所在は子どもにあるのではなく、大人の側にある。・・・長い間、逃げていたのは私たち、大人であった』と結んでいる。
(「少年サバイバル・ノート」西山明 P45~P46)
書かれたのは今から8年前ですが、このまま今も通用しそうです。
学生たちの相談を受けていると、進路に迷う学生も少なくありません。授業に身が入らず、成績がふるわないとき、このまま続けるか、退学して他の選択肢(就職、専門学校)を考えるか迷います。
一般的に学生達は気持ちが優しく、親に学費を出してもらっているので、親の考えを最大限尊重しようとします。大半の親は、迷っているわが子を前に、「とにかく大学だけは出なさい」と勧めます。
かくして迷いつつも学生は、もう一度努力しようと心を決めます。そして努力はするのですが、しかしほどなく、「やはりこれ以上は力が出ない」となって、また相談室を訪れることになります。
では親に限らす、私たち大人には、こんな時いったい何ができるのでしょうか?
実際、相談室にいても、私ができることは限られています。心のケアという面を除けば、実質的な効果では、いろいろな視点での見方や考え方を提供し、具体的な情報や情報を得る方法を示すことくらいです。
ときには、一緒に途方に暮れて考え込んでしまうこともあります。無力感にさいなまれることもあります。
ただ、それにもかかわらず、毎週話しに来る学生を見ていて思うのです。
話したいときに、話せる場があることが大事なのではないかと。それも、本人の意見を否定せずに、耳を傾ける場所であることが…。
子どもや若者が、迷い悩んでいるとき、アドバイスできたり、解決への方策を提供できればそれに越したことはありませんが、もしそうでなかったとしても、一緒に悩んだり、考え込んだりすることそれ自体が、大事な時間なのかもしれません。
そうこうするうちに、本人が何らかの出口を見つけたり、少しでも意欲を持てるようになれれば、それこそが本人の歩みの一歩になると思うのです。
そうした時間の共有が、大人にも立ち止まって考える機会を与え、この混沌とした時代に何らかの変化をもたらすのかもしれません。
「長い間、逃げていた」大人に、逃れられない問いが返されてきました。少しでも、子どもや若者の声を聴く(=心の耳で聴く)時間を持てればと思います。