セレニティカウンセリングルーム

カテゴリー 『 社会 』

「フクシマ」以後と学生相談

静かなたたずまいの住宅地。屋根の上には1羽のコウノトリが留まっている。コウノトリがゆっくりと屋根から屋根へ移る様子を写しながらカメラが引くと、道路を挟んで団地のビル群が整然と並んでいる。しかし人の気配は一切ない。無人の街である。

これは25年前、チェルノブイリ原発事故の後、ニュースで見た映像です。チェルノブイリ原発から数キロのプリピアチ市を映したものでした。コウノトリは何も知らずに高い放射線にさらされているのだなあと、人間の罪深さを思った記憶があります。

あの頃もチェルノブイリ以前と以後では、世界は一変してしまったと言われました。同じことが今「フクシマ」についても言われています。チェルノブイリ事故後も、反原発運動は一時期盛り上がったものの、やがて原子力推進の趨勢に飲み込まれてしまいました。今回、「フクシマ」以後は、原発も含めて私たちの生き方そのものが問われていることを、すべての人が意識せざるを得ないところまで来てしまったという気がします。

カウンセリングを通しても、言葉にならない不安や戸惑い、生き方を含めての自分自身への問いなど、さまざまな形で、今回の震災が心理的にも少なからぬ影響をもたらしていることを強く感じさせられています。

人類がかつて経験したことのない状況を生きているのが今の私たちであり、日本人はその最前線に立たされている。別の表現をすれば、課題に真向かいにならざるをえない位置にいるともいえます。

「フクシマ以後」をどう生きるか?
それ以前とも切り離すことはできないけれど、まったく白紙といってもよいほどの新たな意識の領域で、暮らし方や生き方を選んでいく必要が出てきているのかもしれません。新しい生き方を選択する勇気と、実践のための知恵を集める行動力とを、私たち一人ひとりが試されているともいえます。

そしてそのベースは、私たち個人が、自分の頭で考え、かといって理性だけでなく感情をもちゃんと受けとめ、その上で意思を表していく、そうした個人一人ひとりの生き方にあるのだと思います。

大学の相談室でも、さまざまな悩みを持った学生さんが相談に来ますが、どんなに落ち込んでいる人でもどこかしらに前向きな光を感じさせる瞬間があります。そんな光に触れて、それを開花させられたとしたら、そのエネルギーはその個人の生活を変えるばかりでなく、そうした人達が増えていけばいくだけ、思いもよらない大きな力につながるはずです。

すべては一人ひとりから始まることを思うと、悩みを解決してそれぞれが自分を大事にしていくお手伝いができるとすれば、カウンセリングも私なりの「フクシマ」以後への答えと言えそうです。「道は遠し」ですが、「急がば回れ」という諺もありますし、ね。

 

食の大切さ。辰巳芳子さんの活動。

時計塔と秋空 (写真をクリックすると、少しだけですが大きくなります。写真の下が切れているので、大きくして見ていただけるとうれしいです)

ある日、大学への出勤途上、あまりにも空が青く気持ちよかったので、ついパチリ!カメラがなく、携帯だったのが残念!

陸橋から眺めた秋空

その後、大学に着いてからも、そこここの「秋」に目を奪われて、あっちでパチリ、こっちでパチリ。その一部をこちらに貼り付けてみました。少しは、雰囲気を 感じていただけるでしょうか。 ↓ キャンパスの銀杏並木。

キャンパスの銀杏並木

白い山茶花

赤い実をつけた秋の花水木 花水木を上から眺める構図というのも珍しいでしょ?渡り廊下から撮りました。

さて、突然冬がやってきたかのような今日の寒さ。上の写真はたった3日前のこと。さわやかな秋風に吹かれ、ようやく秋も深まり・・・、と長かった夏も終わり、秋を味わい始めた矢先にこの寒さ。かと思うと、沖縄や奄美には台風が接近とか。どうなっているのでしょう、今年のお天気?

こんな日は温かい鍋や汁物がほしくなりますね(すみません、すぐに食べ物の話で)。食べると身体が温まるだけでなく心もほっこりと温かくなります。温かい食べ物だったらなおさらです。手作りだったらなおのこと。食べることって、いろいろな意味で力になりそう。不思議ですね。

先日、85才の料理研究家辰巳芳子さんの活動を取り上げたテレビ番組を見ました(というより、たまたまテレビをつけたらやっていて、途中から見ました)。「特報首都圏
辰巳さんは、母親が料理研究家でもあり、ご自身の病や身内の介護体験から食の重要性を再認識し、丁寧に作った一杯のスープの滋養と愛情を次世代に伝えていこうと一筋に活動してきた方です。

が、最近の食生活がおろそかにされていることに不安を感じ、デパ地下のお総菜を点検し、働く女性達の声を聞くことで、これからどうやって食の重要性を伝えていけばよいかを模索する、という番組になっていました。

辰巳さんの料理教室は5年先まで予約が一杯だそうです。その生徒さん達に辰巳さんが煮干しでダシを取るようにと言っても、実際にそうした人はわずか数人。大半の人が即席だしを使っていました。その現状に、辰巳さんの口から思わず「なぜしないのですか?」と強い口調が。教室中はうなだれて重苦しい雰囲気に。

食を大事にすることは命を大事にすること。と辰巳さん。まったく同感です!!ただ、働くお母さん達、作れないのは何故か、教室で固まってしまった生徒さん達の気持ちも痛いほど分かります。私も、しばしば作れない派になりますし・・・。でも、何とか「食」は大事にしていきたいなあと思います。ついつい便利な方に流されてしまいがちですが、無理しない程度に、できるだけ楽しんで、また楽しめる程度の時間の余裕を持てる、そんな生活スタイルが維持できたらよいのだろうなあと思いました。

このことに関連して、たまたま先日、子育て勉強会に参加してくれていたお母さんから丁寧なお便りを頂きました。お弁当作りを巡ってのお便りでした。良かったらご覧になって下さいね。セレニティのホームページ「子育てトピックス」

実は、カウンセリングと同じくらい、食べることには人を癒す力があるのではないかと思うことがあります(私が食いしん坊だから?)。カウンセリングと食べること、一見相異なる領域のようですが、この二つは私の中で違和感なく納まります。食を大切にするために私に何かできることはないかなあと、ずっと思っているのですが・・・。とりあえずはまず、今日の夕食を作ってから、考えることにしましょう。

「批判なき真面目さは・・・」

写真は、先週末、カウンセリング学会に出席したときのものです。手前の橋の欄干には「ここからの眺めが、春日部で一番美しい風景・・・」との看板がかかっていました。

なるほど、橋から望む風景は、両岸の緑が川面に映り、青空の下を、川が緩やかに弧を描いて岸辺の草の陰に消えていく・・・。そんな心和む風景でした。

ところで、カウンセリング学会は、教育、心理、福祉、医療、子育て、行政、司法などなど、実にさまざまな分野の構成員からなるので、研修会や講演会のテーマも非常にバラエティに富んています。それらバラエティに富んだテーマの研修を受け、次々と講演を聞くにつれ、当然のことながら、人や社会のことについてさまざまな角度からいろいろなことを考えさせられます。

「幸せって何なのかなあ?」とか、「社会のあり方は?」とか、「自分自身の問題としてどうなんだろう?」というように、出てくる疑問や課題は尽きません。研修や講演会に参加して何かが解決したというよりも、課題や問いをもらって帰ってきたという方があっているかもしれません。

そんなモヤモヤした頭の中に、ふと手にした新聞記事の一行が目に飛び込んできました。

「批判なき真面目さは悪をなす」

評論家の吉武輝子さんが敗戦後の旧制女学校で、岡本先生という50代の女性教師から聞いた言葉だそうです。

ある時、先生は授業中にふと黙りこくり、ぽろぽろと涙を流し、そしてこう言われたそうです。
「皆さん、批判なき真面目さは悪をなすことを忘れないでください。私はどれだけ、生きたいと思う若い人を殺すことに手を貸したか分かりません」

しばらくして先生は、「人を教える資格がない」と言って、学校を去り、実家に戻る決心をしたそうです。先生は駅で見送る生徒達に、重ねて「批判なき真面目さは悪をなす。忘れないでね」と何度も繰り返したそうです。

吉武さんは言います。
「思えばこのころ、学校は先生と生徒が目線を平らにして向き合うことができる場所でした。これこそ本当の戦後民主主義教育です」

岡本先生のとった行動と言葉は、きっと生徒達の胸に深く刻まれたことと思います。教育に限らず、人と人とが平らな目線で向き合うことができたら、言葉には血が通い、相手の心に届くはず。そうした言葉を使っての教育は上辺の知識ではなく、深い理解と効果を持つものになるのではないでしょうか。そして何より嬉しいのは、そんな人間関係の育まれる社会は、人がもっと自分自身を大事にできて、なおかつお互いが思いやりを持てる、そんな社会になる気がします。

批判をするには自分の頭で考えなくてはなりません。考えたことは言葉で相手に伝える必要があります。・・・自他を尊重しつつ、言葉でちゃんと意思表示していく、アサーション・トレーニングにも通じる言葉だと思いました。岡本先生の言葉、しっかり心に留めておきたいと思います。

入学式、保護者席は超満員

昼下がりの電車でウトウトしていたら、おばさま達(失礼 ! 私と同年配の女性、お二人)の話し声が耳に入ってきた。

「うちも昨日だったのよ。一応、節目だから参加させてもらっちゃった」
「うちは親だけ。私は大勢じゃ悪いと思って行かなかったわ」

どうやらお孫さんの入学式の話のようだ。小学校かな?保護者席が足りなくて先生達が大あわてだったそうだ。

「もう、みんな親はカメラだ、ビデオだって、たいへん!うちも二人が手分けして撮るのに夢中でしょ。ちゃんと見てやりなさいって言ったのに、それどころじゃないの。その分、私がちゃんと見て来てやったわ」
「うん、そうそう」

な~るほど。パパ・ママはカメラとビデオの記録係として大忙しなので、おじいちゃん、おばあちゃんが成長を見守り、感動を味わうお役目というわけなのですね。うまく役割分担できてますねえ。

大学生も同じです。一昨年だったか、私の勤務する大学でも話題になったことがありました。以前、この日記にも書いたことがありますが、入学シーズンには、祖父母など家中での出席希望者が多く、大学は準備に大わらわだとの話でした。

あれから2年、このおば様達の話を聞く限り、いよいよ入学式に家族で出席する風潮は定着しつつあるのかもしれないですね。

でもやはり、特に大学生の場合、考えてしまったのは、新入生のオリエンテーションの際に、保護者向けのオリエンテーションも同時に組まれているという事実です。

たとえば、単位取得の方法やカリキュラムの説明、学生生活の送り方といった、本来学生本人が把握して、自己管理する範囲のことまでも、保護者に対しても丁寧に説明するのだそうです。

大学としては、学生に説明してもなかなか徹底せず、結局親から問い合わせが来たり、親を通じて処理するようなことが増えてしまい、それなら最初から保護者に説明してしまおうということらしいです。大学の苦肉の策としての保護者向けオリエンテーションだったわけです。

入学という晴れがましい機会に、親子が共に喜びを分かち合うのはすばらしいことです。でもだからこそ、この機会に、親に感謝しつつも自分の足で一歩を踏み出してほしいなあというのが、大学相談室担当者としての率直な感想です。

「学生時代は、悩んだり、失敗したりしても、大目に見てもらえる時期。いっぱい挑戦して、いっぱい失敗したっていいじゃない?そうやって何かをつかんで卒業していってほしい」って、また今年も学生達にハッパを掛けてしまいそうです。

「過激」になれない時代

あらあら、気づいたら1月も終わろうとしています。年明けに書き込んだきりで、すっかりご無沙汰してしまいました。今年はちょっとはマメに、なんて思っていたんですが、ちっとも変わりませんね。

先日、ある本を読んでいてとても納得したことがあります。それは次のような一節です。

「虫や動物や得体の知れない生き物を借りてしか過激になれない時代というものに、私はいささか空恐ろしさを感じています。」『ぼくらの言葉塾』ねじめ正一(岩波新書)

ここでいう「過激」とはどういうことか、詩人である作者の言葉を借りてみると・・・。

・詩の言葉が狭いと感じていて、それを広げたかった
・詩らしい言葉づかいをいったんぶっ壊して、そこから新しい、風通しのいい言葉の世界を作り上げたかった

というねじめ正一さんは、30代の頃、過激詩人といわれていたそうです。「カッコよく言えば、言葉の原初の力を取り戻す」ことをめざしたそうです。

そういう意味の過激です。
もう少し具体的に説明するために、この本の小見出しを拾ってみましょう。
「ギザギザ言葉で原初の力を取り戻す」
「暗黙の了解を打ち壊す」「スリリングに繰り返す」「言葉をぶん投げられる肉体のパワー」「言葉の太刀を振り回しズレを楽しむ」など、過激さの実態をご想像いただけるでしょうか。

小見出しそのものの過激さ加減は、詩人の巧みな修辞によるものであって、語られている内容は、刺激的ではあっても至極まっとうな内容です。「正確な観察から生まれる想像力」という小見出しがあることからも、その方向性はご想像いただけるかと思います。

そして、過激な詩の一例として、皆さんよくご存じの「ねこふんじゃった」(阪田寛夫)が挙げられています。この曲は世界中でさまざまな歌詞がついているらしいのですが、ここに取り上げられた阪田寛夫さんの詩は、

ねこがふんづけられて お空へとんでって かさをさしてふわりふわり雲の上……

そして最後は、「あしたの朝 おりといで」と言いながら、子ども達は「ねこグッバイバイ」とおうちに帰ってしまう、という何とも奇想天外な展開になっています。

長々と拙い説明をしてしまいましたが、ここでの過激がどういうことを指しているか、少しはご理解いただけたでしょうか。
きれいに整えられたものではない、ちゃんと理屈が通っているものではない、常識的なものではない、誰にも好まれるものではない、当たり障りのないものではない、などなど…。私は「過激」をそんなイメージで捉えました。

「きれいに整えられたもの」や「ちゃんと理屈が通っているもの」、そして「常識的なもの」や「誰からも好まれるもの」や「当たり障りのないもの」などなど、そうしたものにつきまとうカラをいったん破って、自分の正確な言葉の表現を試みてみよう、と呼びかけているように思えます。

さて、最初の2行に戻ります。
「虫や動物や得体の知れない生き物を借りてしか過激になれない時代というものに、私はいささか空恐ろしさを感じています」

大学で学生さん達の相談を受けていると、「ぶち壊していいんだよ。やってごらんよ」と心の中で思わず叫びたくなるときがあります。相談に来た彼らが、過激になれない時代の息苦しさを一身に背負っている、そんな気がしてしまうのです。
学生さん達の背負っている息苦しさは、私たち自身にも重なってくるものがあります。

虫や動物や得体の知れない生き物のように過激になれる人間、そんな人間が愛され、許容される社会をふと熱望してしまいます。