セレニティカウンセリングルーム

カテゴリー 『 雑感 』

いっぺんに春が来た!

暖かくなったと思ったら一気に桜が咲いて、またたくまに散ってしまいました。でもその分、街のあちこちが、どこもかしこも咲き誇る桜でいっぱいでした。

つい、一週間前のことです。

今頃はきっと葉桜ですね。

 

 

公園の花壇。

 

 

 

こんな道路脇にも・・・。

タンポポなら綿毛が飛んできて芽を出したということも考えられるけれど、

チューリップの球根がいったいどうやってここに?

 

丈は短くても立派にチューリップ。

可憐な色といい、

なんだか健気。。。

 

ここにも春が来たよ!

久しぶりに、絵本

本当に大変ご無沙汰してしまいすみませんでした。

2月の中旬に風邪だかインフルエンザだかで寝込んでしまい、その後治ってもスッキリしないで復調するまでしばらくかかってしまいました。気づいたら、3月になっていました・・・。

 

(写真、ピンボケですね。。。)

そんなある日、お天気が良かったので、散歩がてら図書館まで足を伸ばしました。いつも図書館にいると時間を忘れてしまいます。特に、児童書のコーナー、それも絵本のコーナーが好きで、絵本に囲まれていると「幸せ~」となります。

この日は、たまたまツイッターで情報を得た2冊がお目当てでした。あらかじめ自宅のパソコンで図書館のサイトを検索し、所蔵を確認してから来たので、多分駆り出されていなければ大丈夫なはず・・・。図書館のパソコンで再度検索。ところが、記号を見ても、どの棚を探したらよいのかわからなかったので、司書の女性にお願いすることに。

すると早速パソコンで調べてくれ、プリントアウトされた小さなメモを見ながら案内されました。ちゃんと、2冊とも貸出可能でした。

次回から自分で探せるように司書の方に探し方を確認したところ、パソコンのボタンで印刷できるのでメモを頼りに探すと良いと教えてもらいました。何度も来ている図書館なのに、パソコンにそんな機能があることも知らなかったなんて。。。便利な機能は使うべきですね。

さて、そんなふうにして読むことのできた2冊(写真を取り忘れてしまいました)。

ちょうど冬季オリンピックの頃だったので、連日雪と氷のスポーツが繰り広げられており、スピードスケートではオランダの選手の強さが印象に残っていたときでした。

そんな折に、書店のオーナーがツイッターで紹介していた本の一冊がこれ。
ピートのスケートレース」(ルイーズ・ボーデン/ニキ・ダリー)

第2次大戦下のオランダ。10歳の少年ピートは、オランダ中の村々を回って計200キロを踏破する過酷な国内最大のレースに憧れ、手帳に地図や情報を書き込んではいつかそのレースに出場することを夢見ていました。そんなある日、ピートはユダヤ人のクラスメイトの女の子とその弟を、ナチスの手を逃れてベルギーの親戚に送り届ける役目を頼まれます。

地図を頼りに一晩で何十キロも村から村へ滑り通していかなくてはなりません。途中には幾つもドイツ兵の検問所があります。

・・・とお話は進むのですが、ここに描かれるオランダの冬とスケートの関わりを知って、オリンピックでのオランダ人選手がなぜ強いのか、非常に納得できたのです。冬のオランダでは、スケートは歩くよりも車に乗るよりも、ずっと便利な必需品として人々の生活に根付いていたのですね。これからオランダのスケート選手を目にするたびに、ピートのことがチラチラと浮かんでくるような気がします。

セピア色を基調にした絵と、状況理解には多少の説明が必要なこともあって、はしゃぎまわっている孫たちに読んで聞かせるにはあまり適当ではないかもしれません。でも孫たちに、いつかどこかで、ゆっくり一人静かに読んでほしい本だと思いました。

。。。。。。。。。

さて、お目当てのもう1冊はこちら。
「はちうえは ぼくにまかせて」(ジーン・ジオン/マーガレット・ブロイ・グレアム  )

こちらは手元においておきたいので本屋に注文するつもりです。写真を撮ったらそのときに別立てで書かせていただきますね。

 

 

 

生と死と瞑想

冬の朝はキーンと冷たくて・・・。
手足は凍えそうでも、
抜けるような青空を見ると、
そんなことも忘れて思わず深呼吸したくなるくらい気持ちがいい。
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今年も数日で幕を閉じます。相変わらずせわしない一年でした。皆様はどのような思いでこの年の瀬をお迎えでしょうか?

私くらいの年齢になると、元気だった人が急に体調を崩したり、身近な人が亡くなったりという報に接する機会が増えてきます。そしてその度に、命や健康について考えさせられます。そこにはおのずと、「生きる」とは何なのかという問いも含まれて。

一般に私たちの感覚では、生と死は対極にあると思われています。少なくとも日常の感覚ではそうです。

一方、毎月セレニティで開催している瞑想会では、「死は日常のことであり、生と死は一体で切り離すことができないもの」として扱われます。そして私たちは日ごろ、生の側にだけ目を向けて生活していて、死は見ることさえ拒否しているのではないかと・・・。

その結果、身近な人の死や自分に健康不安が生じたときに突然、死について考えるようになり、そしてまたその不安が去ると日常に紛れて忘れてしまう、ということを繰り返しているのではないかと。

私自身を振り返ってもまさにそれです。ただ、少しずつの変化も感じられます。心もとないながらも続けている毎日15分の瞑想と、月に一度の瞑想会を通して、(ほんのちょっぴりですが)生と死の両面に目を向けられるようになってきたかな、と思う時も出てきました。

日ごろ見ることを拒否していた部分(死)を見ることで、生きることの両面(生と死)に目を向けることができ、「ねばならない」と縛っている自分から解放されて自然体で生きられたら・・・。そして、自分なりの幸せや喜びをさらに見つけられるようになれたらいいな~。

瞑想をしながらいつも雑念に振り回されてばかりいる私には、まだまだほど遠いことは確かです。それでも、生と死の両面をちゃんと見られたら世界がどんなふうに見えてくるのか?という好奇心と、多少の向上心(?)とで、このまま雑念に振り回されるとも、ジタバタ瞑想をし続けようと思っています。

とまあ、こんなことを思いつつ、年の瀬を過ごしています。

今年もあまり日記が更新できませんでした。というより、以前よりも間隔が開いてしまったかも・・・。本当にこの一年は気づくとあっという間に一か月が経ってしまっていて、時間の感覚が昨年よりもさらに短かった気がします(モロ言い訳!><)

来年はもうちょっとマメに更新できたらと思いますが(←毎年言っている)、期待せずに見守っていただければ・・・。

何はともあれ、今年も一年何とか無事に過ごすことができました。
本当にありがとうございました(世の中の諸々に対して感謝を込めて・・・)
皆さま、どうぞ佳いお年をお迎えくださいませ。

 

ビッグバンから3分間

子どもたちの夏休みがあと数日で終わりという日の午後、上野の科学博物館へ行ってきました。

数年ぶりでした。前回も途中でくたびれて出てきてしまったのですが、今回も同じく、でした。

大体いつも、どこか一か所で興味を惹かれると、そこで長時間使ってしまうパターンなので、全部見学しようなどという大それたことは端からあきらめていましたけれど・・・。

ピークは過ぎたのでしょうが、それでもさすがに夏休みの終盤とあって結構な混みよう。メインの展示は入り口での待ち時間が長かったので、パスして、その他のメニューから興味のありそうなものを探して入りました(なんと65歳以上は無料ですと!うれしい)。

恐竜関連は今回はパスして(先日孫たちと別の場所で見たので、ちょっとお腹が一杯感あり)、地球誕生の360度CG展示にしました。

CG映像は竹中直人さんの解説で、地球の誕生から宇宙への誘い。

ビッグバンから地球の誕生、生物の進化へ。

そして、人類の誕生から科学の発達、現在のスマートフォンの誕生まで、文字とビジュアルで一望できるようになっています。

印象に残っているのは、「ビッグバンから3分間で、宇宙を構成しているあらゆる物質の元が作られた」という1節です。「あらゆる」ですよ。すべてはここから始まりあとから付け足されたものは一切ないということ。

なんというシンプルさ!圧倒されました。
いつも宇宙のことを思うと私たちが気づかされる「人間てなんて小さいのだろう」という思いは、この日も例外ではありませんでした。

でも、それをさらに上回る「3分間で宇宙に存在するすべての物質のもとができた」という衝撃と感動(ヘリウムとか水素とか出てきますが、苦手な化学記号も結構面白かったです)。

地球上の差別や争いって、なんなのだろう?
争っても、差別をしても、しょせん、皆3分間の申し子なのに・・・。なんて思ってしまいました。

星々にも誕生があり、死があり、太陽系そのものもやがては消滅する。生き物も生まれては消え、そして長い時間をかけて進化し、違う種類が誕生し、また消滅し・・・。人の一生はその流れのほんのほんの一部。そしてかつ立派な一部分。

地球から宇宙へという空間の広がりと、百数十億年前の彼方から未来へと続く時間的な広がり。展示のCG画面を眺めたり、解説文を読みながら、こんな思いにゆらゆらと揺られていました。

生まれては消えていく生き物の歴史に・・・、
その延長上にある人類の歴史に・・・、
そして今を生きる私たち現代の人々に、いとおしさをも、また感じながら・・・。

博物館、なかなか面白かったです。

ある日の電車で・・・

すっかりご無沙汰してしまいました。ほぼ2ヶ月も更新できていませんでした。すみません。

そんなこんなで、時はすでに梅雨の真っ最中。

キャンパスの緑も雨上がりのしっとりした空気に包まれて、朝は気温も高くなく、すがすがしささえ感じるこの頃です。

でも、明後日からは気温がグッと高くなるとか・・・。猛暑の夏の始まりでしょうか。

皆様、お互いに、水分・塩分補給しつつ夏を乗り切りましょうね~。

さて、先日、電車の中でこんな場面に遭遇しました。

夕方のラッシュまでにはまだ間のある時間帯。座席はすべて埋まり、半分ぐらいの乗客は立っていました。

私は、車両の端の3人掛けの座席の真ん中に座っていました。途中の駅で、私の斜め左前方に、初老の女性が乗って来て立ちました。荷物を床に置いて、吊革につかまり周囲を見回している様子から、空席を探している模様。

替わる?替わらない?一瞬迷いました。というのも、女性は年齢的には私より少し上くらい、同年齢くらいの私に席を譲られて不快に思われないかしら?失礼でないかな?などと迷っているうちに電車は動き出しました。

すると、車両の右方向からツカツカと靴音高く近づいてくる男性が・・。目の前に来たのは体格の良い外国人男性でした。

私の前で立ち止まると、身体をかがめて、私の左隣に座ってスマホを覗いていた若い男性(大学生?)に声を掛けました。立っている女性を指し示しながら、「席、替わってあげてください」と一言(日本語で)。

男性はすぐに立ち上がって私の目の前の吊革につかまると、今まで通りスマホを見始めました。外国人男性はそれを見届けると戻っていきました。立っていた女性は恐縮して「え?、いえいえ、いんですよ」

「まあ~、すみませんねえ。何だか悪くて・・・。」「ありがとうございます。すみませんね」

と何度も男性に頭を下げながら、戸惑いつつも座りました。

私「よかったですね。私もお声を掛けようかと思ったのですが、あまりお歳が変わらないのに失礼かと思ってしまって・・・(などと、言い訳^^;)」

女性「い~え、いいんですよ。私は譲ってくださったら有り難く座らせてもらうことにしているんですけどね」
「でも、すごいわね。わざわざ言ってくださるなんて。」

私「本当ですよね。目の前ならともかく、遠くから。なかなかできないですよね」

などと、二人で話していると・・・。

コツコツと靴音がして、先程の男性が再びやってきました。あまりに颯爽とした足音なので、一瞬何事かと構えてしまったのですが、私の目の前に立った若い男性の所まで来ると、耳元で話しかけました。それは大きな声ではないけれど、私にもハッキリ聞こえました。

「さっきはありがとう」・・・と。小さくニコッと笑顔を残して、落ち着いた足取りで戻っていきました。

すばらしい!かっこいい~!

無理に立たせてしまったかな?と気遣ってのフォロー。私としてはけっこう感動しました。

すばらしいですよね~と、周りを見たら、誰も何も気づかないのか、関心がないのか、顔を上げる人も振り返る人もなく・・・。この一連のできごとに何の反応もしていないように見えました。少なくとも外見からは・・・。

実際はどうかわかりません。何か思った人もいたかもしれないですし、席を譲ることをごく当たり前のことと受けとめていたからこそ、何の反応もなかったのかもしれません。それならむしろ嬉しいことではあります。

声を掛けられた男性も、すぐに立ち上がっていたし、男性から「ありがとう」と言われて軽くうなずいてはいたけれど、スマホから一瞬目を上げただけで、ほとんど反応無し。さりげないと言えばさりげない行為、照れくさいのかもしれません。

一方、私は、目の前で起こったことについて、誰かと何かおしゃべりしたい心境でした。

「席を譲る」という些細なことに、あれこれ思いを巡らすのもおかしいのかもしれませんが、私には今でも気になるエピソードです。同時に、思い出すたびにホンワカ温かい気持ちになります。

素直な気持ちで声を掛け、譲ったり譲られたりができる社会がいいですね。そしてできれば、小さな感動を、見知らぬ誰かと分かち合えるともっといいな~。