セレニティカウンセリングルーム

月別: 2009年12月の記事一覧

車内のほのぼの会話から思う、年越し派遣村

今年も今日で最終日となりました。

バタバタと年末を過ごしておりますが、皆さまはいかがお過ごしですか?セレニティ日記の更新が滞っているのが気になり、キーボードの前に座ること1時間、やっと書き上げてアップ、という時に、ボタンを押し間違えて全部消滅!!意気消沈しつつも、気を取り直して、書き始めたところです。

先日、電車の中でのこと。

夕方早い時間で、学校が休みに入り、車内も空席があるかないかという混雑具合でした。数人の男子高校生の隣の席が微妙に空いていたので、「すみません」と声を掛けつつ座ると、床に置いた大きなバッグを足でズルズルと動かしながら席を空けてくれました。

その彼は、大きなカップ麺の器を手に、そろそろ食べ終わるという様子でした。

カップに残ったおつゆからは、フワ~ッとおいしそうなラーメンの匂いが…。
「いい匂い!!」と思わず声に出てしまいました。
「今日、試合だったんで、今やっと食べてるんです」とカップから顔を上げずに、高校生。
「あ、そうだったんだ。・・・で、勝ったの?」と私。
一心に最後の中身をかき込みながら、「はい」と何度も頷く彼。
「そう、それはよかった!」

彼と私の会話を聞きながら、仲間の高校生もニコニコ。これだけの他愛ない会話でしたが、何だか心がポカポカしたひとときでした。

やがて、お腹がいっぱいになった彼らはこっくりこっくり…。夕日の射す車内は、心なしかのんびり穏やかな風景に見えたのでした。

その時、ふと思い出したことがありました。
大学の相談室に来たA君、B君…、彼らはどうしているかなあ。当時、話し相手が誰もいないって言って、束の間、相談室で他愛ないオシャベリをして帰って行ったけれど、その後話し相手は見つかっただろうか。仕事は見つかったかな?体調もよくなさそうだったけど、その後良くなっただろうか…などなど。

せめてA君、B君の近くに、たわいのない会話でいいから、話し相手になる誰かがいてくれますように。そんなことを思いながら電車に揺られたひとときでした。

一方、「年越し派遣村」が今年も各地の自治体によって設置されたそうです。職のない人、ホームレスの人達のために宿泊と給食を提供するための場所です。「屋根のある所で年を越せるのがありがたい」とは入居者の切実な声です。

でも4日には退去しなくてはならず、その後はまた寒空に転々とする生活が待っているわけです。1年半前は普通のサラリーマンだったという人もいて、誰にとっても他人事ではありません。

この場合も、仕事や住居がないだけでなく、人とのつながりが切れてしまっていることが、状況を一層深刻にしているように思います。誰かと話ができれば、同じ状況にあっても元気が湧いてきて、前向きな思考にもつながるはずです。

ささやかでも人とのつながりがあれば、人は何とか生きていくことができるものではないでしょうか。見知らぬ人とのささやかな会話も、もしかしたら意外に効果のある手だてになるのかもしれない、そんなふうに思ったりもします。

とりとめない内容になってしまいましたが、来年もささやかな実践をめざして、一歩一歩やっていきたいと思います。

今年一年多くの方にお世話になり、いろいろな形でお力添えを頂き、ここまでやってくることができました。ありがとうございました。
皆さま、どうぞ良いお年をお迎えくださいませ。

指先をケガして気づいたこと

「一般的に〇〇だ」と言いたいとき、自分自身もその中に含めた上で、よく「私たちは」という表現をします。でも、ふっと思ったのです。この「私たち」ってすごく大ざっぱだなあって。「私たち」と言うとき、「私たち」とはどんな人を想定しているのでしょう。考えてみると、とても曖昧なくくりであることがわかります。

言ってみれば、この「私たち」は「多数派」ということに過ぎないように思います。私自身、「私たち」と安易に使ってしまうのですが、そのとき、私は自分を多数派の側に身を置いて使っているわけです。そして「私たち」と何気なく使うことで、「私たち=多数派」に属さない人達を知らず知らずのうちに除外してしまう結果になっているのではないだろうか、とも思うのです。そんなことに気づかされた出来事がありました。

先日、料理をしていて包丁でほんの少し指先を傷つけてしまいました。たいした傷ではなく、「バンドエイドを貼って、ハイおしまい!」という程度のものでした。ですが、そんなたいしたことのない傷であっても、ドアの取っ手をつかんだり、重い物を持つときに力が入らず、とても不便な思いをしました。

ささいなことから不便が生じたり、何かができなくなってみて初めて、世の中は「元気な人=心身共に不自由のない人」を基準につくられているという現実に直面することになります。そこで初めて、ふだん何気なく使っている「私たち」という表現は、決してすべての人を意味する「私たち」ではなく、「元気な人=心身共に不自由のない人=多数派」を表している言葉に過ぎなかったということにも気づかされます。

指先の切り傷は、数日でほとんど不便なく使えるようになりました。「私たち」が意味するもの、忘れないように、何かしらの形で常に意識させることが必要なんだろうなと思います。自分の忘れっぽさ、を思うと…。

ロールプレイ

毎度のご無沙汰で失礼いたしておりました。
ときどき訪れてくださっていた方、すみませんでした。

決してサボっていたというわけではないのですが、書きたいことがあるときには時間の余裕のないときが多く、時間ができたときには書きたかったことを忘れている、なんていうことを繰り返しておりました。

それに時間が経つと、しばらく前に書きたいと思ったその題材では、気の抜けたサイダーみたいな気がして、モチベーションが上がらないというときもあったりしました。

・・・・とグダグダ言っておりますが、・・・単なる言い訳です。

さて、今日はアサーション・トレーニングについて少し書いてみたいと思います。アサーション・トレーニング一般ではなく、セレニティでやっているワークショップについてです。

アサーション・トレーニングは「トレーニング」と言うからには、きっと繰り返し繰り返し小難しいことをやっているのだろうなと思われるかもしれません。が、決してそんなことはないんですよ。

ロールプレイを中心に、体験重視。毎回、和気あいあいとトレーニングしています。時には、役者顔負けの真に迫るロールプレイをやってくださる方がいたりし て、爆笑しつつ進行することもあります。そんな時は、私は流れに任せて、見守る立場です。いろいろな指示を必要としなくても、とってもうまくワークの流れ ができていきます。

それはロールプレイをやってくださる参加者の方が、うまい演技をしようと思うからそうなるのではなく、その場面設定に合わせ、ご自分の真実の気持ちで役に なりきるために、自然に良い流れが作られるのだと思います。作為がないというのでしょうか。うまくやってやろうではなく、気持ちを入れて役割にあてはめてみたら、結果として役にピッタリなりきっていたというわけです。

アサーション・トレーニングではある役割を演じてみたとき(役のポジションに入ってみたとき)の、そこでの自分の感じ方、気持ちに注目します。たとえば、 いつものように言ってみたときに、相手の人がどんな気持ちになるか、自分はどういう気持ちで言っているかなどに焦点を当てて見ていきます。

いわゆる演技ではないので、うまいヘタは関係ありません。自分の気持ちに気づき、相手の人が感じをつかめればよいのです。

そうは言っても面白いもので、気持ちが入ると人は自然にそれにふさわしい振る舞いをしてしまうもののようです。皆さん、それぞれ個性豊かにロールプレイを やってくださるので、毎回本当に感心してしまいます。バリエーション豊かな表現が出てきて、お互いのフィードバックも活発になります。

楽しい笑いが起きて、温かい雰囲気に包まれるのも、きっとワークショップの魅力の一つですね。毎回、それを味わわせてもらっている私は、本当に幸せ者だなあと思っています。