セレニティカウンセリングルーム

月別: 2007年11月の記事一覧

「聴くことって大事」を痛感

セカンドオピニオンを求めて、歯医者さんに行ったときのこと。

きれいな個室の診察室、最新の設備、治療を待つ間、椅子から見える位置の液晶画面には映画まで流れている。ややあって先生が登場。

口の中を見て、幾つかの質問をされ、やりとりした後、こちらが気になっていることを話した。すると、先生が眉間にシワを寄せて言われた。

「おっしゃっている意味がわからないんですけど…。」もっと上手く説明してよ、困っちゃうなあ、という感じ(に思えたし)。で、言葉は感情を抑えている分、表情に不快感が現れている(と思えた)。

私も困ったなあと、言葉を換えて再度症状を説明してみる。
が、先生はさらに首をかしげて、
「え?どういうことを言われてるんでしょうか?」(ガーン!まったく受け付けられず、はね返される感じ。)

私はさらに困って、それでは具体例をと、再度表現を変えて説明してみると、

先生「当然そう言うことはあります。でも問題じゃありません」と言下に否定された。
私「○○・・・で、□なんですが・・・。」と、再度症状を訴えるが、
先生「問題ないです。」
私、「△△・・・    」なおも何とかわかってもらおうと、がんばって説明する。
先生「それは別に問題じゃないです。何か気になりますか?」(気になるからこうして説明しているのに~)
そんなやりとりを何回か繰り返すうち、私は次第に言い換える言葉が見つからなくなり、虚しい気持になってくる。

そして、ついに、
「そうですか、(これ以上話しても無理ということが)わかりました。」と私。私からやっと「わかりました」という言葉が出て安心したように、ではこれで、みたいな感じで先生は出て行かれた。

先生が出て行った後(よくわからないが、ここでは先生が治療の部屋を廻るらしい)、アシスタントの女性が笑顔で言った。「何かほかに気になることはありませんか?」

。。。

はあ、。。。もう。。。。いいです。

歯医者を後にしつつ、カウンセリングの場面でクライアントの方からときどき耳にする言葉を思い出した。

「家族がわかってくれない、聴いてくれない。こっちが話し出すと、それは○○が問題だ、だからああだこうだと説明したり、説得しようとする。だから苦しい。聴いてほしいのに」と。

ご家族は早く元気になってほしいと思うあまり、解決策をあれこれ出されるのだろう。でもその前に辛さをわかってほしいのだ。聴いてほしいのだ。、

歯医者の帰り、この言葉を実感として思った。問題解決の前にまず聴いてほしいということ。それができると問題の半分くらいは解決できることさえある。

これはこの歯医者さんに限らず、私たちが他人に対して、日常何気なくやってしまっていることのように思う。

ふだんの親子の会話から、訴訟や裁判になる社会的な問題まで、最初の段階でこの「聴く」姿勢のあるかないかによって、その後の状況が大きく変わってしまう。

私もカウンセリングの場面ではいっそう肝に銘じなければと、「聴く」ことの大事さを改めて気づかされたできごとでした。(そうそう、家族に対してもね ←これが、むずかし~ ^ ^;)

教頭先生もたいへんだ

ここ何年か、東京都の先生方から、現場の大変さを訴える声が数多く聞こえてきます。

「キャピタルプランと言って10年後の計画について文書を出せと言われる。明日の授業の準備をしたいのに。」
「人事考課制度ができてから息苦しくなった」
「授業の合間や放課後など、休み時間も細切れに管理される」・・・・。

また昨年だったか、ある地方の教頭先生のご家族から、仕事のストレスから体調を崩し、学校に行くのもままならない状態だとのご相談も受けました。

最近の文科省の調査では、教頭先生になったものの、仕事の重圧からと思われる、一般教員に降りる先生が増えているそうです。わかる気がします。

校長先生に代わって学校内部のとりまとめや親への対応に追われ、多忙で子ども達との接触もほとんどなくなってしまう。そんな状況では、心身の疲労と同時に、教育に情熱が持てなくなってしまってもおかしくありません。

調査によると2001年度は26人、05年度は71人で3倍近くに増え、そのうち69人は教頭になったばかりの方たちだそうです。

この状況に対してこんな意見もあります。

降格願いは管理職としての能力不足とみなし、人材を育ててこなかった現場の責任だと指摘する声です。そして管理能力のある人材が育つまで、つなぎとして企業から人材を募って全国に配置すればいいというのです。

学校経営を企業原理にゆだねるということなのですが…。本当にそれで良いのでしょうか?

学校と一般企業は同じなのでしょうか?
目標も、計る物差しも違うように思うのですが…。
学校は非効率でも良いというのではありませんが、何をもって効率的とするかであり、非効率のものは全部捨て去って良いのかという疑問もあります。

とても難しい問題です。本来、個別の(差異のある)人間に対して、何を教育の成果とするかなど、基本的なことを抜きにして経営面だけを論じるのは危険です。

もう一つは、ストレス増加の原因が単に経営能力の不足からくるのではなく、親や地域社会の多様なニーズ、文科省・教育委員会からの圧力、といった社会状況の変化による面も大きいと思います。

実際、今回の調査で降格希望者の多かったのは東京都がトップ。管理の強まる教育行政のあり方の問題とも無縁ではないように思うのです。

いずれにしても、先生たちがもっとラクにならないと、結局は子ども達が苦しい思いをするんですよねえ。
あ、もちろんお母さん、お父さんもですけど。

そうした子ども達が大きくなって大学に進学し、社会に出る直前で逡巡している。私の出会う学生達もまさにそのまっただ中にいるのだなあと思うこの頃です。だから、がんばらなくっちゃ。(がんばりすぎないように、ね)!

たとえ話「もし私が」

たとえば、こんな「たとえ話」があります。

————————————-

…… 障害者が多数を占める市の市長選で視覚障害者の彼が当選した。さっそく街路灯を撤去する公約を実行に移す。
財政は厳しく地球環境にも配慮するためだ。

「危なくて夜歩けない」と抗議する視覚健常者を、市長の彼はいなす。

「一部の人(健常者)の意見ばかり聞くわけにはいきません。少しは一般市民(視覚障害者)のことも考えてください」

————————————–

(最近ある方から頂いたメールの中に、上のようなたとえ話が載っていたのでそのまま引用させていただきました。)

ちょっとした衝撃でした。
今まで、自分は障碍を持つ人の苦労が実感でわかっていなかったと…。頭ではわかっているつもりでも…。

差別は差別されてみて初めて痛みに気づく(=実感でわかる)しかないということでしょうか。

だとしたら、前回のカナダの実験授業のように、差別を体験させるというのも、過激ではあるけれど仕方がないことになります。

(でもそれによって、子ども達の心に傷が残るのは、やはりつらい。もうちょっと緩やかな方法として、ロールプレイで体験するというのもあるから、私としてはこっちを採りたいとは思いますけれど。)

ともかく、いろいろな人の意見や気持を聞くことが何事においても大切なのは、こういう自分のまったく盲点だったことに気づかせてもらえるからなのだと納得してしまいました。

いやー、衝撃でした!

補足)
このたとえ話の主は、障害者差別をなくす条例を千葉県で制定することに奔走された野沢和弘さんという新聞記者さんだそうです。お子さんの障害の問題からご自身の問題として立ち上がられただけあって、具体的な指摘が本質を突いているように感じました。

「どういう特性を持った人が多数で、どういう特性を持った人が少数なのか、そして多数の人は少数の人のことをわかっているのか、いないのか」が障害者差別の本質だと悟ったそうです。

詳しくは『条例のある街』(ぶどう社刊)を。

差別についての「カナダの実験授業」

カナダの小学校でおこなわれた実験授業のドキュメンタリーを見ました。
「特別授業 差別を知る~カナダ ある小学校の試み~」

子ども達に「差別」について考えさせる授業でした。先生はクラスの子ども達を、差別する側、される側に分けます。翌日にはお互いの立場を入れ替えて、差別を体験させます。

意欲的な「実験(授業)」でしたが、授業としてはあまり賛成できる内容とは思えず、後味の悪さが残りました。

子ども達の仲が良く、先生と子ども達との信頼関係ができていたので、それが救いでしたが、だからこそよけい子ども達は傷ついただろうとも思いました。いずれにしても差別は胸が痛みます。

でも、いろいろ考えさせられる内容で、その意味ではドキュメンタリー映画としては秀作なのかな?(だから受賞したのでしょうが)

とても印象に残っている場面があります。

先生は、背の高さで二組に分け、高い方のグループには赤いベストを着用させます。

この時点で、すでに子ども達はとまどいの表情。背の高い子ども達のグループの表情は暗く、不安そう。

やがて先生が黒板の問題をやらせます。背の高い子がまちがうと、すかさず先生が、
「ヤッパリ背が高いからなのね。〇〇〇はまちがえたわ。誰か直せる人は?」

すると、背の低いグループの△△△くんが得意げに正解を言う。先生は、
「ヤッパリ背の低いグループね。正解だわ」
と言う調子。

(ナレーション)
—-いつもは間違えたことのない○○○。今日はどうしたことか自信を持って答えることができません。—-

カメラは黒板の前でしょんぼりする○○○くんを映す。

○○○君だけではなく、背の高いグループの子は、いつもできていたことができなくなったり、自信なさそうな雰囲気になったりしたのです。

差別されたことで、いつもは解けるはずの問題が解けなくなってしまったり、振る舞いにも自信がなくなった子ども達の反応に驚きました。

差別するということは、それだけで相手に自信を失わせる行為なのです。

差別される側は、自分自身差別される前と何も変わりがないにもかかわらず、差別されたとたんに自信がなくなり、表情も変わり、態度もおどおどしてミスをおかしてしまう。

差別する=さげすむ行為が、どんなに人を傷つけ、人の行動まで束縛するものであるか、あまりに鮮やかに現れていて驚きました。

差別が許されないのは、心を傷つけるからだけではないのです。

子どもだったら、勉強の理解度や進み具合、運動能力など、成績や生活全般にわたって大きく影響するものなのだと感じました。

同様に、世界中のさまざまな差別も、差別される側の多くのパワーを奪ってきたということですね。

子ども・女性・障碍者・黒人・性的少数者・老人などなど、本来の力を発揮できないでいる人達が劣っていると見なされてきたのは、自信を失わせる位置に置かれ、力が発揮できなかったからであって、本当のところは対等でなければ比べようがありません。

授業で問題が解けずにおどおどしている子どもがいたら、まず伸び伸び解けるように安心させてあげること、そうしてから教えたほうがきっと、うまくいくだろうと思いました。

ウン十年前、黒板の前で問題が解けずに固まってしまった私自身を、チラッと思い出したそんな映画でした。

(昨夜、書きかけで保存したものがアップされてしまっていたようで、7日夜までわけのわからない文章がアップされていました。失礼しました。)