
カラスウリ。

住宅街の道端で見つけました。
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あっという間に、カレンダーが残り一枚だけになってしまいました。今年は、年の瀬に加えて選挙も加わり、慌ただしさもひとしおの感があります。東京では都知事選もおこなわれますね。
先日、インターネット動画でその都知事候補の一人、弁護士の宇都宮健児さんのお話を聞きました。その中で学校教育に関して触れられていて、日の丸君が代問題など管理的傾向の強まっている現状を是正していきたいと話されていました。以前、セレニティで先生方からお聞きした話と重なる部分があって、とても共感を覚えました。
10年くらい前になりますが、セレニティでは学校の先生方の授業作りの勉強会を年に何回か開いていました。そうした折、現場の先生方からさまざまな声をお聞きしました。とりわけ、東京の公立校の先生方からは、提出文書や会議などの事務的な仕事がものすごく増えて子どもと接する時間が減ったり、休み時間の取り方や研修会の参加なども細かく管理されて自主的に動けなくなったことなど、先生自身が息苦しい職場になっていることをいろいろな方からお聞きしました。
1980年代の終わり頃から徐々に強まってきた全国的な傾向かと思いますが、そうした管理的な学校教育と受験競争を経て子ども達は大きくなってきました。今、大学の相談室を訪れる彼らはちょうどそうした管理的な傾向が強まってきた頃に生まれた年代に当たります。
そんな彼らの話を聞いていると、一人ひとりのかかえる悩み自体が、決して個々の生い立ちや性格にのみ起因するものとは思えないこともしばしばあります。むしろ社会の流れの中で、そうならざるを得なかった部分の方が大きいように思われます。
「常に外からノルマが課せられ、それを達成しないと、そこにいてはいけないような気がしていた」と語った学生がいました。だからいつも必死に走り続けてノルマを達成しようとがんばって来た。でも、そうしてがんばって来て気づいたら、自分が自由に思ったり感じたりすることや、自然に湧き出てくる意欲など見出せなくなってしまっていた。そんな状態の彼ら(男子も女子も)。
二十歳前後の若者が、すでに意欲や希望を失ってしまっている社会は、やはりどこかに大きな歪みを抱えていると思わないではいられません。
ところで、東京都の予算はフィンランドの国家予算に匹敵するのだそうですね。驚きました。巨大都市とは思っていましたが、そんなに大規模だったとは!そんな巨大な東京都が、教育に新風を吹き込んでくれたらいいなあと思っています。きっと日本全国に影響があるに違いありません。
学校教育の現場が一人ひとりの存在をもっと大事に育むことのできる余裕のある場所になってほしいと思います。「忙しすぎる先生、ノルマの達成に負われる子ども達」ではなく、「教育とは共に希望を語ること」というルイ・アラゴンの言葉を実践できる場になってほしい。それは夢物語なのでしょうか。
いくらお金持ちの国になっても、いつまでも夢は夢物語のままでしかないとしたら寂しい気がします。それではお金を持っていても貧しい国です。本当の豊かな国になってほしいと思います。宇都宮さんの説得力あるお話と柔和な笑顔に魅せられて、思わずこんな「夢」の実現を期待してしまいました。選挙権のある都民の皆さんがちょっぴり羨ましい。
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私はツイッターアカウントは持っているのですが、未だに使い方がわからず、ひたすらタイムラインに流れてくる情報を眺めるだけの現状です。ですが、あの情報量は半端ではないですね。気楽に書き込めるだけに内容によっては真偽のほどが疑わしいものもありますが、情報が向こうからやってくるといった感じです。
先日はこんな内容の記事がありました。
ある国際比較の調査によると、日本では「自力で生活できない人を政府が助けてあげる必要はない」と考える人が38パーセントで、これは調査した中で最も多かったそうです。個人主義の徹底していそうなアメリカでさえ、28パーセントだそうで、イギリス・フランス・ドイツ・中国・インド・ブラジルなどは8~10パーセントくらいとなっていて、大多数の人が政府が面倒を見るべきだと考えているというのです。
世界の中では、日本やアメリカの考えは特殊であり、中でも日本はその傾向が顕著です。地域社会が崩壊して助け合いの精神が薄れてしまったと言われて久しいですが、このように数字で表されると現実を突きつけられた感じがします。ましてや世界の中でも一番隣人に冷たい人たちとされるのはショックです。
私の幼少期、まだ高度経済成長期の初期には、助け合いの地域社会が存在した気がします。今から20年ほど前でも、まだ私の子育て期にはかろうじて地域社会が機能していたように思います。東京のほぼど真ん中といえる地域に住んでいましたが、近所の八百屋のおじさんが、道路を渡ろうとした息子と一緒に車が通りすぎるのを見守ってくれたり、親の留守中に鍵が無くて家に入れなかった子どもをお隣りさんが預かってくれたり・・・。それがいつの間にか、そうした地域で触れ合う機会そのものがどんどん減っていった気がします。
「政府が助ける必要はない」と思っているということは、自分も助けてもらえないとみているわけですから、とても高い緊張感の中で暮らしていることでもあります。一言で言えば、気持ちに余裕が持てないということです。人は助けたり助けられたりする存在なのだと思えたら、ずっと気持ちはラクになるはずなのですが・・・。
社会がこうであれば、その中で育っていく子ども達はどのような価値観を持って大きくなっていくのでしょうか。若者の思考や価値観とも関係しているように思います。
「私はここにいてもよい存在ですか?」
「何のために生きるのですか?」
「死んではだめですか?」
「長く生きたいとは思いません」
相談室やその他の場所で、若い人の口からこんな言葉を聞くときほど、悲しく、無力感にさいなまれることはありません。同時に、ここに至るまでにどれほど彼らが傷つき、存在を祝福されてこなかったかを知らされます。
それは接する周囲の大人が彼らに未熟な接し方しかできなかったとかいうことではなく、おそらく周囲の大人自身にも余裕がないほどの、社会全体がもたらした弊害なのだと思います。
カウンセリングの中では、「人を信じても大丈夫。人は信じられる存在なのだから」と心の中で叫びたいくらいの思いを抱えつつ、彼らが今日まで抱えてきた重荷をゆっくりと一緒に解きほぐしていく作業を続けるのみです。言葉で命が大事と言ってもそれは生きた言葉として染み通っていきません。自分の命を人から大事にされた体験があって初めて、他者の命を大事にできます。
助けたり助けられたりができる、大人も子どもも安心して暮らせる社会をとりもどしたいと思います。
上記の国際比較については、元情報を探したのですが、日本語で読める情報源は見つからず、こちらのサイトのPDF資料に掲載されているもよう。調査は2007年とあるので、その後の5年間で、特に311を経験した後、状況の変化があったかもしれません。改善されてきているとよいのですが・・・。
「What the World Thinks in 2007」The Pew Global Attitudes Project
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抜けるような青空。大学のキャンパスは比企丘陵の頂上に位置しているので、空を遮る物がありません。冷たくなってきた風が吹き抜け少し寒いですが、気持ちの良い秋本番の到来です。
今週末は学園祭なので、大学の相談室はお休みです。大学で参加する人、郷里に帰る人といろいろ。
下の写真は玄関前の看板。写りが悪くてすみません。第〇〇回△△祭の看板が毎年新しい実行委員会のもと作り替えられます。
今年の看板のインパクトはなかなか。実物は鮮やかな原色が自然に映えて美しかったです。
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キンモクセイが咲き始めました。こんなに小さな花からあんなにゴージャスな香りが漂ってくるなんてウソみたいですね。
これから書こうとすることは言葉にするのがなかなか難しい問題です。私の中でもよく整理できていないからです。でも、何となく大事なことのように思うので、忘れないうちにここにメモ代わりに書いておきたいと思います。「何を言ってるんじゃ?」とわかりにくい部分もあると思いますので、その部分は適当にスルーしてください。
「性善説」という言葉がありますが、最近思っているのは「生善説」です。
<生命=つまり生きること=善>というものの見方といったらよいでしょうか。私が勝手に作った言葉ですが、私の中では「命は大事。だから、命があるうちは一生懸命生きるのが当然だし、生きるために努力することは良いことである」という考え方がごく自然にあります。だから、当然、自分の命も他者の命も大事にすべきなんだとなるのです。
でも、最近、時々大学その他で若い人と話していると、必ずしもこの考え方はすんなり受け入れられないのかもしれないと思うような問いに出会うことがあります。相手が悩んでいる若者である場合が多いので、それ故の問いということもあるかもしれませんが…。
それは、「なぜ生きなくてはいけないのか?」という問いです。
確か以前、「なぜ人を殺してはいけないのか」という若者の問いに、大人は答えられるかというような報道がにぎわった時期がありましたが、その質問とも違う、「なぜ生きなくてはいけないのか」という質問です。
私の中では、答えは簡単なのです。
「今、生きているから」
この一言で私の中では十分なのです。私が今生きているのは私自身の力によってではなく、何者かによって生かされていると感じています。それは、どんなに生きていたいと思っても自分の力で生きることはできないときがあるからです。与えられている命があるうちは、それは「生きなさい」というメッセージなのだから生きる。というごくシンプルな答えが私の日頃の考え方です。
「事故や病気で、どんなに生きたいと思っても生きられないときがあるのは、私たちが自分の力の及ばない何かによって生かされている存在だからではないか?」と、相手に返します。
しかし、質問した彼・彼女の中では少しもシックリこないらしく、「確かに、そう言われればそうなんですけど……」と言いつつ、次のような言葉が続きます。「生きていても良いことがあるとは思えないし…」「生きていて何の意味があるんですか?」など、もちろん各自少しずつ表現のニュアンスは異なるものの、将来に希望をもてない状態を語る言葉であることは共通しています。
「生きていることはそれだけで価値がある」「人の存在はそれこそが価値なのだ。あなたの存在そのものが」と伝えたい私のことばは空回りすることも少なくありません。
ではありますが、伝えたいことの十分の一、いえ百分の一も伝わらなかったとしても、やっぱり言えることは一つ。「あなたの存在は何にも代え難いもの、かけがえのない存在である」ということです。この言葉を信じるかどうかは本人次第ですが、言い続ける価値はあると思っています。同時に、若者がこの言葉を自分の言葉とできるような社会に近づけていく責任もまた、大人に科せられていることを痛感せずにいられません。
若者に向き合うということは、とりもなおさず自分の生き方を問われることなのだなとつくづく思います。そして現実社会への向き合い方を問われることでもあります。それは、ある意味シンドくもあるけれど、本質を見失わないための貴重なチャンスを与えられているとも言えます。
容赦なく、飾り気のない直球の言葉。それに対する知識や、感性や、時には私の存在そのものを総動員しなくてはならないような言葉の応酬は、表面的には何気ないやりとりのように見えて、実はスリリンなグ真剣勝負の場でもあるのだと、今、これを書きながら再確認しています。面談が終わってグッタリ疲れるのも納得といった感じです。
若者達は、詰まるところ、カウンセラーに相談云々ではなく、正面から向き合ってくれる大人を求めているのかもしれません。たとえ未熟な受け答えであっても、私の語った何かが、彼らの中の「生きる」という課題にほんのわずかでもヒントになり、希望につながる何かがあってくれたなら嬉しいなあと思います。
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なんとなんと1ヶ月も更新しなかったとは!
すっかりご無沙汰ですみませんでした。
実は、突然パソコンが壊れてしまい、アナログ人間としては大慌ての日々でした。
結局、あれこれ試みた末、買い換えることになり、さて新しくしたのはよいが、中身を移し替えたり設定し直したり・・・。
そのうちパソコンに近づくのも気が重くなってしまって・・・。
やっと今日になって落ち着いてパソコンの前に座ることができました。次々と登場するIT機器の利点をフルに生かしながら、より軽作業でほしい情報や目的の作業をこなすことのできるIT巧者を羨望のまなざしで見てしまいます。
私なんぞ、自慢ではないですが、一念発起してケータイにメモっても、ケータイにメモしたこと自体を忘れてしまい全然役に立たなかったりしますから(苦笑)。
結局、私の場合、面倒なようでも紙の手帳にボールペンでメモするのが一番だとわかりました。
新しいパソコンも少しずつ使い慣れてきたので、これからまたポツポツと、思いついたことを書いていかれたらと思います。お時間のあるときに、お立ち寄りいただければ・・・・。
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