緑のエネルギー
緑の樹木を見ると力が湧いてきます。若い力に通じるようなエネルギーを感じて。
キャンパスの一角に立派な「合歓の木(ねむのき)?」でしょうか?
まさにしたたるような緑の巨木です。見上げて写した携帯写真はといえば、単なる大きな木だったので、ガッカリして削除してしまいました。実物は結構な迫力なんです(って、説明だけでは分からないですよね。すみません。枝の一部だけご披露させていただきます)。
下の写真は秋バージョンです。茶色なのも素敵!
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そうか!この角度で写真を撮ったらよかったのですね。再度、挑戦してきます(思い出したらですが ^^;)。
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閑話休題。
いきなり重い話題ですみません。
時々、事件の報道などで、加害者についてコメントを求められた人が、「おとなしく、穏やかで、とてもこんな事件を起こすようには見えなかった」「礼儀正しいし、会えば笑顔で挨拶するいい子でした」「勤務態度も良く、真面目だった」などと、戸惑った感じで答えている場面に出合うことがあります。学校の先生などはごく普通の生徒だった」と表現したりもされます。
その度に、私は釈然としない思いとともに、心の中がザワザワしてしまいます。その時の気持ちを言葉にすれば、きっとこんなふうです。
「特別に凶悪な人だけが事件を起こすわけではない。人は皆、大なり小なり悩みを抱えているけれど、誰にも相談できず、わかってくれる人が一人もいなかったときに、自分一人では抱えきれないくらいの悲しみや怒りや憎しみを抱えて、ほんのちょっとしたキッカケで大きな過ちが起きてしまう、・・のでは?」と。
辛いときに、辛いということすら表さずに(表せずに?)、表面上はあくまで「普通」を装わずにいられない、またそのように要求されるのが、今の世の中であるような気がします。弱みを見せられないというか、弱音を吐けないというか、そんな辛さです。
若い人の相談を受けていると、そうした窮屈さを小学生頃で早くも感じているようで、もっとのびのびと子ども時代を過ごさせてやりたいと痛感することも多いです。
歳のせいか、次世代に対する責任として何ができるかということをこの頃よく考えてしまいます。微力は百も千も承知の上ですが・・・。