セレニティカウンセリングルーム

カテゴリー 『 教育 』

静寂のキャンパス

また、だいぶ間が空いてしまいました。申し訳ありません。

って、ほとんど読んで下さっている方、いらっしゃらないかもしれませんが、続けていける間は時節に遅れながらも、一応記録として残しておこうと思います。

コロナ禍の日々、自粛で家から出られない間、皆さまはどのようにお過ごしでしたか?

 

私の場合、最初のうちは大学の春休みの時季だったので、例年とそれほど大きく変化はなかったのですが、5月の連休を過ぎても授業はオンラインで、相談室もオンライン対応がメインになりました。私の場合、週に2日だけ大学で電話相談の電話を受け、後は在宅でメールやZoom相談という日が続いていました。今も基本的にはこの状態です。

大学から許可が出た一部の学生のみ実習や実験のために登校する以外は、ほとんど学生の姿が見えないキャンパスは静寂そのもので、広大なキャンパスが無人状態なのは不思議な感覚です。

(写真の1枚目、2枚目は5月の車窓からの眺め。まだ田んぼに水が張られ始めた頃のことです。余談ですが、電車の窓ってこんなにブルーが濃かったんですね。人間の目には薄く色がついた程度としか認識されていませんでしたが、実際はこれ。人間の認識による修正機能のせいで色が意識されていなかったんですね、きっと。)

静かなキャンパスに涼しい風が吹き抜けます。
帰りのスクールバスを待つ間に、林の中から小鳥の声が聞こえてくるひとときは、私的にはと~~~っても幸せな時間です。

この写真は5月中旬頃なので、今はもっと緑がふさふさと風に揺れて初夏の日射しです。
(今の写真を載せろ!ですよね。小鳥の声に耳を澄ましていて撮り忘れました(><)

 

新緑の林を抜けてくる涼風の中で、小鳥の声に耳を傾けるひとときは確かに至福の一瞬ではあるのですが・・・そうではあるのですが・・・、でもやっぱり、学生達のいない大学は大学本来の姿ではなく、淋しいです。大学によっては9月までオンライン授業のみという大学もあると聞きます。うちはどうなるのでしょう?

特に一度も校内に足を踏み入れたこともない新入生はかわいそうです。入学式もなく、慣れないオンライン授業、先生も映像を通してしか顔を見たこともなく、友達と言葉も交わしていない。せめて交代制で校内を10分だけでも歩かせてあげられないだろうか、なんて思ってしまいます。

一方、不登校や引きこもり気味だった学生達はオンライン授業になって逆にいきいきやれているという話も聞きます。それは悪くないことだし、世の中いろいろですね。とにかく柔軟に、、、自分のできること・できないことを見極めつつ、できることに力を注いで健康でいられたらと思う日々です。

これからは、コロナ+熱中症に気をつけねば。皆さまもお元気で~!!

 

バレンタインチョコとメガネ君

一ヶ月前の買い物帰りに出会ったこと。

前を歩いていた小学5~6年生くらいの女の子ふたり。道路の反対側に向かって大声ではしゃいでいる。何事かと道路の反対側を見ると、女の子と同年齢くらいのメガネ君が歩道を歩いている。

女の子達がひときわ高い声ではやし立てる。
メガネ君、道路際の一軒の家の前で立ち止まると、郵便受けに素早くポスティング!ピンクのリボンの小さな包みが郵便受けに消えた。

「ワー、ホンメーイ!」「△△(メガネ君の名前)、ホンメーチョコかぁ?」女子は矢継ぎ早にはやし立てる・・・。

「うるせーなぁ!」「うるせーんだよ!」(と声は威勢が良いが、視線は明後日の方を向いて、照れくさいのを必死に隠して応戦するメガネ君)

「勝手に言ってろ!」と言い返しながら、ひょうひょうとした態度で角を曲がって行った。

女の子達はその後もひとしきり、△△君のバレンタインチョコの話題で盛り上がる。しばらく行くと、一足先に帰宅したらしい顔見知りの男子が道ばたで遊んでいるのに出くわす。

「※※(男子の名前)、誰かにチョコあげた?」あげてない。「義理チョコは?」あげてない。「~~チョコは?」「==チョコは?」といろいろなチョコ名が続く。(そんなチョコもあるんだ?!っと、女子達を追い越しながら、話に全然ついていけない私)

「今、△△がね~・・・」っとたった今しがたの「メガネ君エピソード」を披露する女子達。早くも情報拡散だ。明日のクラスでの会話が目に浮かぶ。

このくらいの年齢だと女子の方がお姉さんぽいから、メガネ君は少々翻弄されている様子。女の子達は知らないオバサンがそばを歩いていても、まったく意に介さず大声ではやし立て続ける度胸もあるし、体格も私よりも大柄で立派。オバサンは圧倒されっぱなしだった。

ロマンチストメガネ君、明日は負けるな!

中学生の孫とメガネ君の姿がかぶって、オバサンは心ひそかにエールを送ったのであった。

「みんなの学校」が教えてくれること

本当に長いことご無沙汰してしまいました。

以下の文章は1か月くらい前に書きかけていたものなのですが、続きがかけないまま放置され、やっと今日重い腰を上げました。したがって季節がずれていますが、書き直すとまたまた遅くなりそうなのでこのまま失礼します。

☆  ☆  ☆  ☆

季節はすっかり秋ですね。

とはいえ、雨、雨、雨ですっきりした青空はあんまりなかったように思われる今年の秋。夏から秋そして冬へ、急ぎ足で駆け抜けていくようです。

そんな中、先日ある教育講演会に行ってきました。

公立学校の現役校長先生のお話です。校長先生の話だから堅い話と勝手に思っていた私の予想は大きく外れました。

校長先生自身の体験談が中心で、しかも失敗談から何を学んだかという、校長先生の講演内容としては結構ユニークなお話でした。同時にその教育方針と実践は魅力にあふれ、あっという間の2時間でした。この日のテーマは「みんなの学校」。

講演者は、ドキュメンタリー映画で見た方も多いかもしれませんが、大阪の公立小学校「大空小学校」の市場達朗校長先生です。映画に登場した木村泰子校長は退任され、木村校長から引き継いで3年目。映画の当時は教頭先生をされていた方です。

その教頭先生が、大人も子どももお互いが育ち合う学校の中で、校長先生として育っていくプロセスをお話しされたのが今回の講演といってよいと思います。

その失敗のエピソードは、たとえばこんなふうです・・・。

ある台風の日、学校は休校になりました。子どもたちは登校してきませんが、先生たちは学校で待機していました。そんな中、校門のインターフォンが鳴りました。教頭先生が応答すると、A君が台風の中、登校して来てしまったのです。教頭先生は学校が休みだと告げ、気をつけて帰るように言い、A君を帰しました。

すると(当時の)木村校長が即座に職員室に飛びこんできて、すぐにA君を連れ戻すよう他の教員に指示を出し、教頭先生(現校長の市場先生)はその場で校長室に呼ばれたそうです。

「教頭先生。自分の子どもでも嵐の中を帰れ言うんか?!」と木村校長。市場教頭先生は、本当にその通りだと、ただただ言葉もなかったそうです。「台風事件としてその後も語り草になっています」と笑って話されていましたが、校長先生が失敗談を次々披露する講演会もあまりないだろうと思いつつ、教育観を根底から問い直されるくらいの実践であることが伝わってきました。

そうしたことが毎日のようにあり、子どもも、教職員も、親も、地域の人も、みんながお互いに教え合い学び合う仲間という考えで、学校が成り立っています。

なので、授業はいつでも見に来てよいが、廊下で立って見ているのは×。教室の後ろに立っているのも×。見るのではなく、一緒に机に座って勉強する・活動する、が基本です。

そして、大空小学校のたった一つの約束ごとは、「自分がされてイヤなことは人にしない、言わない」これだけだそうです。マニュアルやルールはありません。あると考えなくなるから、とのこと。

この約束は大人にも求められます。同時に、約束を破ったときは「やりなおし」ができます。
「やりなおし」とは校長室に行って、校長先生の前で自分のやってしまったことを話すのです。校長先生は「どうしたん?」と声をかけ、最後まで話を聞く。その後、「大丈夫か?」と一言。

「これだけでよい」(木村元校長)そうです。本当にこれだけ?と思ってしまいますが、これだけなんです。これを大人も同じように約束を守れなかった時にやるのだそうです。

こんなで本当にうまくいくのだろうか、と心配になりそうですが、心配はまったくの杞憂に終わります。暴力をふるう子、障害のある子、どの子もともに学び、助け合い、笑い合う学校が現に存在していること・・・希望が生まれます。そして勇気を与えられます。

しかも、子どもたちだけでなく大人も育っていく学校なんです。さらに、私立ではなく公立小学校なんです。

講演の後、「行ってみたいな~。実際に教室に座って授業を受けてみたいな~」そんな感想が私の中に生まれました。なぜなら、私たちは本当にさまざまな思い込みや価値観に縛られていると感じるからです。校長先生の失敗談の数々は、そのまま自分に当てはめて考えざるを得なかったからです。

それらの思い込みを払拭するには、単に知識としての理解でなく、実際に体験して初めて、大空小学校の目指すものが肌身でわかるに違いないと思ったからです。それは私たちみんなが求めているもの、今この時代を生きる上で必要とされるもの、そんな気がしています。

「みんなの学校」公式サイト

今サイトを見たら、2017年2月21日から東京で公開予定のようです。未見の方は、よかったらぜひ!

巣立つ学生の、心に残る何かを

だいぶ日が長くなりましたね。

陽射しもすっかり春です。

もうすぐ新学期が始まります。

先週、久しぶりに用事があって大学に行って来たのですが、

実験や研究、または部活動のために来ている学生がパラパラというくらいで、ひっそりとしたキャンパスはのどかな庭園の趣でした。

そんなキャンパスの小道を抜けると、これまたひっそりと、梅の花が咲いていました。

姿はひっそりでも、香りはしっかりと高貴な存在感を放っていました。

 

凛とした美しさ。

梅の花を見ると、

「凛とした」という表現が、

これほどピッタリした花もないのではないか、と思ってしまいます。

 

 

 

 そして、見上げた空にも梅の花。

梅が終われば、桃、桜と、春が駆け足でやってきますね。

 

春といえば、出会いと別れの季節でもあります。

 

今年も相談室で出会った学生達がそれぞれの進路に向けて巣立って行きました。卒業、休学、退学など、試行錯誤しながら、それぞれが迷いながら確かめながら歩いていく道。

この先の長い人生の中で、あの相談室での、あのときのこと、あの一言、それが人生で生きてくる、そんな何かを持ち帰っていてくれたらなあと思います。相談の中で、そのような対応ができるようにというのは、私自身の指針でもあります。でも、彼らが大学の相談室から何を持ち帰ってその後の人生に生かしてくれるかは、確かめようがありません。

しかし、ときにはこんな嬉しいことも。

ある年、卒業も間近に迫った相談室でのこと。相談が終わっての帰り際、女子学生が鞄から小さな袋を取り出しました。

「この前、部活で〇〇へ行ったんです。少しですけど・・・」と、うつむいて照れながら差し出された小さな包み。学業も部活も行きつ戻りつ、恐る恐るの半歩、一歩。それでも諦めずにねばり強く続けて、卒業、就職までこぎつけてきたこれまでが思い出され、感無量でした。

シャイな彼女には、おみやげを手渡すこと自体かなり勇気がいっただろうと思うと、この小さな包みがいじらしく見えました。

家に帰り開いた包みには、一口サイズのかわいらしいお菓子が入っていました。小さなお菓子をさらに小さく切り分けながら、一口ずつかみしめ、味わって頂きました。格別のおいしさでした!

あと2週間もすれば、新入生を迎えて、また新たな一年が始まります。

 

 

 

 

言葉を話す前に必要なこと

(桜の木も冬支度です!)

またまた、ご無沙汰してしまいました。
今年もあと一月ほどですね。早すぎます!
日々をこなすことに追いまくられてゆっくり味わっている暇もないような毎日で、こんなんでいいのかなあと思いつつ、たまに孫の顔を見ると、子どもの成長の早さに別の感動をもらいます。でも、だからこそゆっくり子ども時代を味わって成長してほしいとも思うし、成長の喜びと「じっくり体験して」という老婆心が複雑に交錯します。

今の時代、親も子も、ジジババも、若い人も、み~んな忙しくて大変です。

先日、ある本を読んでいたら、<「ことば」は関係の中で身につく>という一節があり、なるほどなあと考えさせられました。
そこに紹介されていたエピソードは、ある教育相談の事例で、3歳になっても言葉の出ないお子さんの例でした。
その子は噛むことがうまくできなくて、ご飯は口に入れると30分くらいモグモグやってから飲み込むので、一回の食事に3時間くらい掛かってしまうのだそうです。

その様子から、このモグモグは赤ん坊がおっぱいを飲む行為に違いないと察した相談員が、抱っこしながら哺乳瓶でミルクを飲ませるように勧めてみたところ、子どもは喜んでミルクを飲み、次第に噛むこともできるようになり、今度は自然に言葉が出てきたのだそうです。

このお子さんは母親一人に育てられており、母親が仕事で不在中はベビーホテルを転々として育ってきたために、安心した人間関係が形成されなかったのです。そのために、言葉の獲得もできなかったというのです。

言葉は単に単語を覚えればいいというのではなく、人間関係があってこそ生きた言葉の獲得になるし、そうやって覚えた言葉を駆使することが人間形成につながっていくという流れで説明されていました。

俗に「読み・書き」と言いますが、「読み・書き」の前には「話し・聞き」がなければならず、育つための順当な順序があって、初めて言葉が言葉として機能し、知識や人間形成に役立つというのです。

私自身まだ十分読みこなせない中でご紹介して恐縮ですが、もし関心がおありでしたら読んでみてください。2002年の発行ですが十分今に通じる、いやむしろ今だからこそ必要な示唆に富んだ内容だと思います。

本の題名はこちらです。
『日本語の豊かな使い手になるために ~読む、書く、話す、聞く~』
大岡 信 著
(大岡信さんが学校の先生方数名と交わした数日間に渡る対談をまとめたものです)

やっぱり時間って大切ですね。時間があれば、3歳のお子さんもゆっくりお母さんに関わってもらえたでしょうし・・・。学校の先生も親も、子どもに余裕を持って関わるゆとりが生まれますし、職場の人間関係も、時間があればもっと穏やかな関係がつくれるでしょうし、人間的なふれあいも生まれてくるでしょう。そしてそういうことこそが、人生の喜びそのものなのだと思うのですが・・・。