カテゴリー 『 アート 』
映画(「歓びを歌にのせて」他)
最近観た、音楽がテーマの映画とDVDのご紹介。
「奇跡のシンフォニー」(上映中)
孤児院で育てられた天才的な音楽の才能を持つ少年が、まだ見ぬ両親を探しながら、音楽と出会っていきます。
「どこにいても、誰にでも、音楽は聞こえるよ」
「ボクの音楽は両親への答え」
心温まるストーリーと音楽の魅力、シンプルで素直に楽しめてリフレッシュさせてくれる、そんな映画です。
もう一つは、DVD。
「歓びを歌にのせて」(2004年スウェーデン映画)
登場人物が、人生の哀感を感じさせながらいきいきと描かれていて、無骨で、正直で、好感が持てます。
DV夫の暴力にめげず、仲間の励ましで、「自分を生きる」と力強く歌うヘレン・ヒョホルムの歌う歌がすばらしい。
歌声と曲そのものが素晴らしいのですが、私の仕事柄、DV被害者の女性が「自分の道を生きたい」と歌うところに、ことのほか感激してしまいました。
「音祭り」の照明に感謝、そしてお別れを
もう2年以上も前になりますが、「2200kmを結ぶ!音祭り」というイベント(音楽ライブ)をやりました。沖縄のシンガーソングライター下地勇さんと、地元さいたまのギタリスト下館直樹さんに出演していただきました。
音楽を通して、心をつなぎ、地域をつなぎ、人と人とのつながりを育てよう、というイベントでした。
出演者、裏方のボランティアさん、それに音響や照明担当の方、ホールの担当者の方など、本当に多くの皆さんのご協力で出来上がったステージでした。
今、そのときの照明担当の北谷さん(女性)のことを思い出しています。打ち上げの時、「チャタンです」なんて冗談を言われてました(沖縄方言では北谷をチャタンと読むそうで…)。北谷さん自身は沖縄のご出身ではないのに、でも、チャタンと読む方がお似合いの、沖縄の空気を感じさせる方という印象が私にはありました。
北谷さんの照明はとってもステキでした。下地さんの歌にピッタリの照明をアレンジして、ステージを盛り上げていました。北谷さんにお願いできたらいいなあ、と思いつつも、とても弱小セレニティでは無理だと諦めていました。
でも、あるとき、都内であった下地さんのライブの終了後、お見かけした北谷さんに声を掛けたところ、「音祭りの企画ができたら、一応声を掛けて」と仰ってくださったのです。傍らでは、同じミュージシャン仲間の下館さんが(彼は、音祭りの企画に陰ひなたとなって協力してくれた功労者です)、「とても無理ですよ」と私に小声で忠告してくれていました。
そして、いよいよ企画が固まってきた頃、本来の金額ではとうていお願いできないような厚かましいお願いをしたにもかかわらず、採算度外視、しかも職人肌の内容重視と心意気で、数人のアシスタントとともに、泊まりがけで当日の照明を引き受けて下さいました。そのおかげで、本当に素晴らしい照明のステージにすることができました。
北谷さん曰く、「日頃セレニティの活動のことを(下地さんから)聞いているから」と、温かいご理解を頂けたことが、とてもうれしかったです。その橋渡しをしてくださった、下地さんやマネジャーのOさんのおかげでもあります。
音祭りは、こうした目に見えないところで、皆さんからたくさんの贈り物を頂いてできたものなのだと、今でも思い返すと感謝の気持ちでいっぱいになります。
北谷さんのお仕事ぶりは、舞台裏でちょっと拝見しただけですが、厳しく、熱く、「職人」を感じさせました。
また、いつか下地さんライブなどでお目にかかれるだろうなあと思っていたのです…。
でも、その北谷さんが、5月下旬に急逝されたとの知らせを、つい最近聞かされました。まだ、私よりずっとお若い方です。元気なお顔が浮かんできて、にわかには信じられませんでした。
先日の、手塩研のメンバー浜田先生といい、このところ、ご縁のあった方々とのお別れが続いてしまいました。やはりお別れは辛いです。
改めて、音祭りの照明に感謝しつつ、北谷さんのご冥福を心よりお祈りいたします。合掌
「ノッティングヒルの恋人」ブラウニーは誰に?
映画を見ていて、「あっ、これは?」と興味を引く場面に出会うことがあります。映画の本題とは全然関係ないささいなことなのに、つい興味がそちらのほうに向いてしまう、そんな経験ってありませんか?
先日、アメリカ(イギリスだったか)の恋愛もののコメディをDVDで見ていたとき、そんな場面に出会いました。(カウンセラーという仕事柄、何でもない場面を心理描写を交えて自己流に解釈したというだけのことかもしれないのですが…。)
主人公の男性と恋人が、友人の気軽な誕生パーティーに出席しました。そろそろお開きという頃、料理は食べ尽くされ、テーブルの真ん中にはチョコレート菓子(ブラウニーだったかな?)が一つだけ器に載っていました。その一つを手にとって、仲間の一人が提案します。
「さあ、この最期に残った一つは、今日ここにいる中で、最も惨めな一人へのプレゼントにしよう。」(一同、笑いながら同意)
そこで、テーブルを囲んだ男女7~8人の仲間は、笑顔で、淡々と、あるいはしんみりと、次々に自分たちの過去に出会った惨めな体験を語っていきます。(これは心理援助の方法の一つである、自助グループの分かち合い(=シェアリング)体験と同じですね)
ここで語られる内容ときたら、実は「ちょっと惨め」どころか、本来かなり深刻でつらい内容の過去だったりもするのですが、気心しれた仲間うちということもあって、それぞれが率直にあけすけに言いたいことを語っていきます。お互いが、語られる内容を自分の体験や思いにも重ねたりしながら、気持ちを受け入れることで、安心して語り合える場になっていきます。
そうしたなか、最期に主人公の男性が自分の体験を語り、「〇〇〇〇ということだから、この中で一番惨めな話をしたのはなんといってもこのボクだね。では、これはいただきだ!」と、その日一番ホットで惨めな体験にもかかわらず、ユーモアを交えてブラウニーを手に取ります。
私自身もこうした「分かち合い」はワークショップでとりいれることもありますが、そういう場合はたいてい「嬉しかったこと」などをテーマに話すことが多いので、「惨めな話」をテーマに語るというのは、新鮮な感じでした。
ヘタをするとものすご~く暗く、それこそ惨めで、惨めな体験がさらにつらい思い出にならないとも限らない中、この暗くならないすれすれの微妙な雰囲気でユーモアを保っているところに、とても興味が湧きました。文化の違いも大いにありそうな気がします。
「惨めな話」を披露しあってお菓子をゲットするためには(もちろん映画というのもあるけれど)、自分自身を少しばかり距離を置いて眺められる冷静さと、それになんといってもユーモアを解する感覚が欠かせない要素であるように思います。
また、他人の意見に左右されない自分もいないと、目の前で自分に関する話が出てくると冷静に聞けなくなるということも考えられます。
それぞれ人生の山あり谷ありの起伏が、ほんのちょっとした小休止のような空間を必要としていたのかもしれません。はち切れる若さでもなく、かといって老いを感じる年には遠い、40代か、それよりちょっと前の年齢層の人達が、立ち止まる地点として・・・。
そうして話した後は、ちょっとばかり話す前よりもラクになって、ほのぼのお互いの存在を認め合う空間が出来上がっている、そんな雰囲気が心地よい場面でし た。
おしゃれでほろにがブラウニー味のラブコメディでした。
映画は「Notting Hill」(邦題「ノッティングヒルの恋人」1999米 ヒュー・グラント、ジュリア・ロバーツ)」。
映画「博士の愛した数式」“今、ここ”に生きること
新しくブログを開設しました。「セレニティ日記」として、セレニティの活動を中心に、気づいたことや日々の雑感を書いていかれたらと思います。
(「はるのかんたんふ」も個人のブログとして続けていくつもりです。)
ということで、これからもよろしくお願いいたします。
さて、早くも五月半ば。時の経つのは早いなあと思うのは私だけでしょうか?
時間の長さの感じ方は状況によってさまざま。旅の充実した一日は、たった一日が何日分にも感じられたり、そうかと思えば楽しい時間はあっという間に過ぎてしまったり…。かと思えば、退屈な時間や苦痛な時間はとても長い…。
「博士の愛した数式」という映画があります。博士は事故の後遺症で記憶が80分しか持ちません。この状況だけを見れば、とても悲惨な状況です。
今日出会った人のことも約束も、みんな翌日には忘れてしまうのです。いつも初対面、いつもゼロからスタートなのですから。
でも記憶されることのみが私たちの生のすべてではないことが、博士の生き方を通して語られます。
たとえ記憶に残らなくても、一瞬一瞬を誠実に精一杯生きていることは、限りない魅力があるのだとわかります。時間はこの映画の重要なキーワードのようです。
そうそう、「セレニティ瞑想会」が今週の土曜日26日にあります。もしよろしかったらお出かけ下さい。静かに座って過ごす時間は長いでしょうか、短いでしょうか?
あれれ、最後は宣伝になってしまったかな?失礼しました!