セレニティカウンセリングルーム

キャンパスも秋

抜けるような青空。大学のキャンパスは比企丘陵の頂上に位置しているので、空を遮る物がありません。冷たくなってきた風が吹き抜け少し寒いですが、気持ちの良い秋本番の到来です。

今週末は学園祭なので、大学の相談室はお休みです。大学で参加する人、郷里に帰る人といろいろ。

下の写真は玄関前の看板。写りが悪くてすみません。第〇〇回△△祭の看板が毎年新しい実行委員会のもと作り替えられます。

今年の看板のインパクトはなかなか。実物は鮮やかな原色が自然に映えて美しかったです。


「生」善説?

キンモクセイが咲き始めました。こんなに小さな花からあんなにゴージャスな香りが漂ってくるなんてウソみたいですね。

これから書こうとすることは言葉にするのがなかなか難しい問題です。私の中でもよく整理できていないからです。でも、何となく大事なことのように思うので、忘れないうちにここにメモ代わりに書いておきたいと思います。「何を言ってるんじゃ?」とわかりにくい部分もあると思いますので、その部分は適当にスルーしてください。

「性善説」という言葉がありますが、最近思っているのは「生善説」です。
<生命=つまり生きること=善>というものの見方といったらよいでしょうか。私が勝手に作った言葉ですが、私の中では「命は大事。だから、命があるうちは一生懸命生きるのが当然だし、生きるために努力することは良いことである」という考え方がごく自然にあります。だから、当然、自分の命も他者の命も大事にすべきなんだとなるのです。

でも、最近、時々大学その他で若い人と話していると、必ずしもこの考え方はすんなり受け入れられないのかもしれないと思うような問いに出会うことがあります。相手が悩んでいる若者である場合が多いので、それ故の問いということもあるかもしれませんが…。
それは、「なぜ生きなくてはいけないのか?」という問いです。

確か以前、「なぜ人を殺してはいけないのか」という若者の問いに、大人は答えられるかというような報道がにぎわった時期がありましたが、その質問とも違う、「なぜ生きなくてはいけないのか」という質問です。

私の中では、答えは簡単なのです。
「今、生きているから」
この一言で私の中では十分なのです。私が今生きているのは私自身の力によってではなく、何者かによって生かされていると感じています。それは、どんなに生きていたいと思っても自分の力で生きることはできないときがあるからです。与えられている命があるうちは、それは「生きなさい」というメッセージなのだから生きる。というごくシンプルな答えが私の日頃の考え方です。

「事故や病気で、どんなに生きたいと思っても生きられないときがあるのは、私たちが自分の力の及ばない何かによって生かされている存在だからではないか?」と、相手に返します。

しかし、質問した彼・彼女の中では少しもシックリこないらしく、「確かに、そう言われればそうなんですけど……」と言いつつ、次のような言葉が続きます。「生きていても良いことがあるとは思えないし…」「生きていて何の意味があるんですか?」など、もちろん各自少しずつ表現のニュアンスは異なるものの、将来に希望をもてない状態を語る言葉であることは共通しています。

「生きていることはそれだけで価値がある」「人の存在はそれこそが価値なのだ。あなたの存在そのものが」と伝えたい私のことばは空回りすることも少なくありません。

ではありますが、伝えたいことの十分の一、いえ百分の一も伝わらなかったとしても、やっぱり言えることは一つ。「あなたの存在は何にも代え難いもの、かけがえのない存在である」ということです。この言葉を信じるかどうかは本人次第ですが、言い続ける価値はあると思っています。同時に、若者がこの言葉を自分の言葉とできるような社会に近づけていく責任もまた、大人に科せられていることを痛感せずにいられません。

若者に向き合うということは、とりもなおさず自分の生き方を問われることなのだなとつくづく思います。そして現実社会への向き合い方を問われることでもあります。それは、ある意味シンドくもあるけれど、本質を見失わないための貴重なチャンスを与えられているとも言えます。

容赦なく、飾り気のない直球の言葉。それに対する知識や、感性や、時には私の存在そのものを総動員しなくてはならないような言葉の応酬は、表面的には何気ないやりとりのように見えて、実はスリリンなグ真剣勝負の場でもあるのだと、今、これを書きながら再確認しています。面談が終わってグッタリ疲れるのも納得といった感じです。

若者達は、詰まるところ、カウンセラーに相談云々ではなく、正面から向き合ってくれる大人を求めているのかもしれません。たとえ未熟な受け答えであっても、私の語った何かが、彼らの中の「生きる」という課題にほんのわずかでもヒントになり、希望につながる何かがあってくれたなら嬉しいなあと思います。

ご無沙汰しました!

なんとなんと1ヶ月も更新しなかったとは!
すっかりご無沙汰ですみませんでした。

実は、突然パソコンが壊れてしまい、アナログ人間としては大慌ての日々でした。
結局、あれこれ試みた末、買い換えることになり、さて新しくしたのはよいが、中身を移し替えたり設定し直したり・・・。

そのうちパソコンに近づくのも気が重くなってしまって・・・。
やっと今日になって落ち着いてパソコンの前に座ることができました。次々と登場するIT機器の利点をフルに生かしながら、より軽作業でほしい情報や目的の作業をこなすことのできるIT巧者を羨望のまなざしで見てしまいます。

私なんぞ、自慢ではないですが、一念発起してケータイにメモっても、ケータイにメモしたこと自体を忘れてしまい全然役に立たなかったりしますから(苦笑)。
結局、私の場合、面倒なようでも紙の手帳にボールペンでメモするのが一番だとわかりました。

新しいパソコンも少しずつ使い慣れてきたので、これからまたポツポツと、思いついたことを書いていかれたらと思います。お時間のあるときに、お立ち寄りいただければ・・・・。

晩夏のつれづれに

今日から9月。すっかりブログの更新がお留守になってしまって、失礼しました。連日の猛暑は、「これでもか、これでもか」と体力テストを強いられている感がありますが、どうにかこうにかやっています。
皆さんはお変わりありませんか?

天下国家の動きもここのところすごいですねえ。目まぐるしい速さでいろいろなことが展開し、十分に吟味したり、考えをまとめたりできないまま、日々の流れに乗せられていく感じです。昨年の3月11日から、ものごとの本質が露わになってきたように思います。

そして、こうした混沌とした時代であるからこそ、基本的なこともまた露わになってくるとも言えます。それは、どんなときも基本は一人ひとりの心の中から始まるということです。必要なのは、耳目を惹きつける大げさな言葉や、他者の声をかき消すような大声ではなく、真摯で誠実な言葉なのだと思います。それは、心の底からの、本質を捉えた静かな訴えの中にこそあると思っています。つまり、一見、非力に思われる私たち一人ひとりの心からの願いや希望がこの混沌とした世界を変えていく源泉になると信じています。

ときどき連絡をくれる福島の青年S君が、先日こんなことを言っていました。
「村興しをするに当たって、何から始めるか、何をめざすかを考えていくと、むしろ全体の大きな枠で考えるのではなくて、一人ひとりの個人がどんなことを考えているのか、何を大事にしているかを考えていくことになるんじゃないかと思っています。一人ひとりが大事にしているものを大事にできる共同体をつくること、そういうことなのかなあと」

一から始める復興は(というより失ったものの癒しと回復から始める、むしろマイナスからの復興かもしれないけれど)、立ち上がる一歩はそこ(=個人の声に真摯に耳を傾け、思いを共有するところ)からしか始まらないし、それこそが今現在待望されていることだと思います。
ことは福島だけに留まりません。日本全体、ひいては世界に共通する課題として、個人の願いと希望に光を当てていくところから始まっていくのではないかと思います。

話が大きくなってしまいましたが、混沌としているときこそシンプルに捉えることで本質が見えてくる気がします。一人ひとりの声を聞くことの最初の作業といったらなんでしょうか?それは自分自身の声を聞くことですね。自分に正直であること、自分の声に耳を傾けて言葉にすること。嫌なものはイヤとハッキリ言い、おかしいことにはおかしいと意思を表明し、嬉しいことや喜びを表現すること。そんな当たり前と思えることをコツコツと、できるところからやっていくことが、急がば回れの近道ではないかと、そんなことをS君との電話の後で思いました。

長々と述懐してしまってすみません。つい、気になってしまうんです、将来の日本のこととか(明日の自分のことも分からないのにね・・・苦笑)。年齢的なこともあるかもしれませんね。この歳になると、孫やその次の世代のこととか、気になるものなんですよ。ということで、独白的言及、お許しください!

残暑もきっとあと少し、ご自愛くださいませ。

夏休みの作品

残暑お見舞い申し上げます

大学が夏休みに入って、キャンパスは人影もまばら。もうすぐ日も暮れようというのに、この日射し。とにかく暑いです。
。。。。。。

茨城県鹿嶋市の方から暑中見舞いメールを頂きました。昨日は大変だったみたいですね。1時間に72.5mmの集中豪雨だったそうです。
皆さんのお住まいの近辺は大丈夫でしたか?

。。。。。

先日、実家の片付けをしていたときのこと。小学校時代の夏休みの作品が出てきました。タオル地で作った犬のぬいぐるみです。真っ黒にホコリをかぶって見る影もありませんでしたが、紛れもなく私が小学校5~6年(?)の頃に作った物です。母にとっては、子どもの作品が捨てにくかったのだと思いますが、それにしても長期保存し過ぎです。

型紙をとって、布を縫い、中身を詰めて・・・、と当時のことが断片的ながら思い出されてきたのには、またまたビックリ!(人間って覚えているものですね~)。

「まあまあ可愛くできたかな」という完成間近になって、首がコクンと倒れてしまうことに気づいたときの悔しさ。どうやってもなおらず、本当にガッカリしたことを鮮明に覚えています。これは悔しかったので忘れません。そして、当然、今でもコクンです。

よ~く見ると、フェルトでできた目は接着剤ではなく、ちゃんと細かい針目で手縫いしてありました。その丁寧な仕事ぶりに、反省しきり。現在の私の何という大ざっぱで、いい加減なこと!当時はこんなに丁寧だったのだ。
小学生の私に教わった気分でした。

さようならの前に記念にパチリ!