セレニティカウンセリングルーム

緑のカーテンと思いきや…


(クリックで少しだけ大きくなります)

これって・・・?

夏の初めに、緑のカーテン用にネットが張られ、苗が植えられ葉っぱが育ってきたときは、きっとゴーヤか何かのツルがグングン伸びて青々と葉を茂らせるのだろうなあと、勝手に想像していました。去年はゴーヤのカーテンができて、夏の終わりにはみんなで食べたと聞いていましたので。当然今年もそんな緑のカーテンができるものと思っていました。

で、昨日、久しぶりに見に行ってみました。
すると、なんとなんと、カーテンどころか、葉っぱはご覧のように淋しい状態で、栄養はすっかり果実の方にとられていました。で、このネットの中身は瓜でしょうか?メロンでしょうか?手のひらに乗り切らないくらいの大きさがあります。
少なくとも日よけにはなっていないような・・・。
でもまあ、冷やして食べれば、涼しくなりますしね・・・^^)
この建物の壁面には、これよりもう少し葉っぱの茂った一角があるので、そちらはゴーヤかもしれません(また違った種類の何かが実ったりして)。果たして何か実がなるのか、ならないのか、それもまた楽しみです!

今日は、夏とも思えない涼しさですね。
これでは、次に暑さが戻ってきたときの落差が恐ろしいことになりそうです。
皆さん、どうかくれぐれも体調にはお気をつけくださいね。

「共通一次」世代の親の生き辛さ・子の生き辛さ

きょうは暑かったですねぇ。
エアコンの設定を28度から30度に上げても十分に涼しく感じました。
関東も梅雨明けだそうです。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

さて、うっかり返却期日が過ぎていて催促が来てしまった大学図書館の図書から、一部抜粋(明日返さねば…^^;)。

「自分の夢や希望をじっくり確かめながら自分の進路を探るよりも、偏差値という序列化された数値によって自己のポジションを確認することを優先し、進路先を決めてきた世代と言ってよいでしょう。学校や家庭などでそれが当然であると指導され続け、その中で自己の人格形成をしてきたわけですから、たえず他者や数値によって評価される自分しか実感できずに悩む人が多いのです。
 ですから、自分らしい感情形成が弱かったり、自分に自信を持つことができない人がその世代に多く見られるのも当然ではないでしょうか。」(尾木直樹「子どもの危機をどう見るか」2000年岩波新書 p135~136)

当時30代であった母親世代が抱える「生き辛さ」について触れた部分です。いわゆる共通一次試験の世代であり、競争主義的な一元化された価値観を内在化してきた世代として、親として子どもの教育に関わったときの苦しさを尾木さんは上記のように分析しています(父親ももちろん同じような状況に置かれていると思いますが、子どもに直接影響があるという意味で主に母親を対象としていると思われます)。

これを読んだとき、「まさにこれは、現在学生達が抱えている苦しさだ」と、その共通性に驚きました。これらの特徴=生きづらさは、そのまま親世代から子どもの世代に引き継がれている、そんなふうに思えてなりません。

★自分自身の感情よりも、他者の評価による喜怒哀楽が優先してしまう。→ もっと自分自身の感性に自信を持って。自分の感情に素直になっていいんだよ。

★数値化されないと不安になる → 数値化されないものにも価値があるし、世の中には数字では表せない魅力もいっぱいあることを知って!

★競争の上位にいなくては意味がない。下位の者は必要ない。→ 競争での序列はその競争内での価値観の一つに過ぎない。ある競争のどこに位置するかだけで、人間の存在価値が決まるわけではないよね。

ときに、学生相手にこんな話をするのですが、学生達が共通1次試験をくぐり抜けた親世代と同質の悩みを抱えていると見るのは、私の思い過ごしでしょうか。教育の与える影響の大きさ・根深さに、改めて考えさせられています。

そして何とか、社会に出る前の最後の教育機関で、自分の感情を取り戻し、自分で考えて物事を判断する力をつけてほしいと心から思います。そしてせめてせめて最低限は、自分自身を価値ある存在と思えるようになってほしい。「自分なんかいなくたって…」などとは絶対に言ってはダメ。と、きつく言い聞かせる、気がつくといつの間にか、近所の世話焼きオバサンのような口調になっていて「おっとっとー」とブレーキを掛けることもある、この頃です。

「なぜ死んではいけないか」に向き合うこと

今年の梅雨は時々中休みというか、いくらか涼しい日があります。あくまで関東でのことですが、皆さんのお住まいの近くはいかがですか?今日もそんな、比較的過ごしやすい一日でした。

ところで、かつて偏差値教育の弊害ということが盛んに言われたことがありましたが、偏差値教育とは何だったのか、最近改めて考えさせられています。ちょうど年齢的にも、偏差値教育を受けた世代の子どもさん達が中・高・大学生くらいの年齢に達しているところでしょうか

偏差値教育の弊害とされたのは、数値化された一つの物差しですべてを判断し、優劣を競うことが目的化してしまうというようなことだったと記憶していますが、それらは偏差値教育世代の親を通して、子どもに血肉化される形で、意識されないまま子どもの人格形成に大きな影響を与えているように思います。

親の世代で、一度未消化ながらも消化され、通過していったものが、今度は子どもの中で無意識に子どもの価値観となり子ども自身を縛っているように感じるときがあります。親の育児やしつけ、または教育の中で、ごく自然な形で内面化されたものの見方が、子ども自身を苦しめているように見受けられるのです。

「役に立つかどうかで人を判断してしまう」「無意識のうちに人に序列をつける」「一見役に立ちそうもないことや非効率なことに嬉々としてとりくみ満足している人が許せない」などなど。挙げ句の果ては、「結果を出せていない自分はダメ→ 役に立たない自分は居る必要がない→ 居てはいけない」となってしまいます。

「かけがえのない自分」に気づいてほしくて、私としては総力戦になるのですが、ときにはカウンセラーであることを忘れ、単なる一人の世話好きオバサンになってしまいそうで、オットットー!と慌ててブレーキを掛けることも。

何はともあれ、「なぜ死んではいけないのか?」そんな根源的な問いに答えられないまま(と言うより真向かいにならないまま)、私たちは何を子どもに教育しようとしているのだろう、とふと思ってしまいます。大人が向きあうべき課題に直面することを恐れて、見ないようにしている結果が、今日の子どもたちの悩みや、教育にまつわる課題として噴出してきているように思われてなりません。

大津市の自殺中学生に対する教育関係者の対応など、日頃の大人たちの姿勢が顕著に反映されていますね。ここから何も学ばないとしたら本当に大人の罪は重いです。

「大人として向き合うべき課題に向き合っていますか?」相談者の若者達から、毎回こんな問いかけをされている気がして…、自戒を込めての記述でした。

緑のエネルギー

緑の樹木を見ると力が湧いてきます。若い力に通じるようなエネルギーを感じて。

キャンパスの一角に立派な「合歓の木(ねむのき)?」でしょうか?

まさにしたたるような緑の巨木です。見上げて写した携帯写真はといえば、単なる大きな木だったので、ガッカリして削除してしまいました。実物は結構な迫力なんです(って、説明だけでは分からないですよね。すみません。枝の一部だけご披露させていただきます)。
下の写真は秋バージョンです。茶色なのも素敵!


そうか!この角度で写真を撮ったらよかったのですね。再度、挑戦してきます(思い出したらですが ^^;)。








閑話休題。
いきなり重い話題ですみません。

時々、事件の報道などで、加害者についてコメントを求められた人が、「おとなしく、穏やかで、とてもこんな事件を起こすようには見えなかった」「礼儀正しいし、会えば笑顔で挨拶するいい子でした」「勤務態度も良く、真面目だった」などと、戸惑った感じで答えている場面に出合うことがあります。学校の先生などはごく普通の生徒だった」と表現したりもされます。

その度に、私は釈然としない思いとともに、心の中がザワザワしてしまいます。その時の気持ちを言葉にすれば、きっとこんなふうです。
「特別に凶悪な人だけが事件を起こすわけではない。人は皆、大なり小なり悩みを抱えているけれど、誰にも相談できず、わかってくれる人が一人もいなかったときに、自分一人では抱えきれないくらいの悲しみや怒りや憎しみを抱えて、ほんのちょっとしたキッカケで大きな過ちが起きてしまう、・・のでは?」と。

辛いときに、辛いということすら表さずに(表せずに?)、表面上はあくまで「普通」を装わずにいられない、またそのように要求されるのが、今の世の中であるような気がします。弱みを見せられないというか、弱音を吐けないというか、そんな辛さです。
若い人の相談を受けていると、そうした窮屈さを小学生頃で早くも感じているようで、もっとのびのびと子ども時代を過ごさせてやりたいと痛感することも多いです。
歳のせいか、次世代に対する責任として何ができるかということをこの頃よく考えてしまいます。微力は百も千も承知の上ですが・・・。

いじめの問題

~緑のカーテンが着々と育っていますよ~
。。。
。。。
。。。

心理臨床の現場にいると、大なり小なり幼少期から学童期に至る人間関係、中でも友人との関係が、その後の人間関係や社会との関わりにおいて、とても重要な要素を占めていると実感させられることが多くあります。とりわけいじめの問題は、思春期以後、傍目には特にこれといった支障がないように見受けられる場合でも、本人にとってかなり根深い課題となっている場合があるように思います。

「当時はそれほどとは思っていなかったけれど、今になって思い返すと憤りでいっぱいになる」とか、「いじめられた自分を認めてしまうとつぶれそうだったので、自分の状態を見て見ぬ振りしてやり過ごしていた」とか、「その場を切り抜けるのに精一杯で自分のダメージを思いやる余裕さえなかった」など、後になって振りかえったときに初めて、当時の傷の深さに気づくこともあります。すでに過去のことだと思っていたいじめが、カウンセリング中に、今日的な問題となって浮上してくることも珍しくありません。

人が存在する限りいじめがなくなることはないのかもしれません。でも、だとしても、いじめで受けた心の痛手が、成長のどこかで徐々に解消でき、癒されていくような緩やかなつながりと余裕のある社会になれば、いじめの被害者のみならず加害者も救われるのに、と思ってしまいます。実際、かつての被害者が加害者になることも多く、被害者・加害者の線引きは難しいものがあります。巷で起きる悲惨な事件を見聞きするにつけ、子ども時代のいじめが遠因になってはいなかっただろうかと、気になってしまうのは私の職業ゆえでしょうか?、