セレニティカウンセリングルーム

関連するコトバ 『 マイノリティ 』

指先をケガして気づいたこと

「一般的に〇〇だ」と言いたいとき、自分自身もその中に含めた上で、よく「私たちは」という表現をします。でも、ふっと思ったのです。この「私たち」ってすごく大ざっぱだなあって。「私たち」と言うとき、「私たち」とはどんな人を想定しているのでしょう。考えてみると、とても曖昧なくくりであることがわかります。

言ってみれば、この「私たち」は「多数派」ということに過ぎないように思います。私自身、「私たち」と安易に使ってしまうのですが、そのとき、私は自分を多数派の側に身を置いて使っているわけです。そして「私たち」と何気なく使うことで、「私たち=多数派」に属さない人達を知らず知らずのうちに除外してしまう結果になっているのではないだろうか、とも思うのです。そんなことに気づかされた出来事がありました。

先日、料理をしていて包丁でほんの少し指先を傷つけてしまいました。たいした傷ではなく、「バンドエイドを貼って、ハイおしまい!」という程度のものでした。ですが、そんなたいしたことのない傷であっても、ドアの取っ手をつかんだり、重い物を持つときに力が入らず、とても不便な思いをしました。

ささいなことから不便が生じたり、何かができなくなってみて初めて、世の中は「元気な人=心身共に不自由のない人」を基準につくられているという現実に直面することになります。そこで初めて、ふだん何気なく使っている「私たち」という表現は、決してすべての人を意味する「私たち」ではなく、「元気な人=心身共に不自由のない人=多数派」を表している言葉に過ぎなかったということにも気づかされます。

指先の切り傷は、数日でほとんど不便なく使えるようになりました。「私たち」が意味するもの、忘れないように、何かしらの形で常に意識させることが必要なんだろうなと思います。自分の忘れっぽさ、を思うと…。

エスカレーターの片側空け

いつの頃からか、エスカレーターの左右どちらかを空けて乗る、というのが習慣のようになってしまっています。

関東は左に寄って右をあける、関西はその逆。などと言われます。(ちなみに境目は岐阜あたりだとか)。

ともかく、そんな習慣が定着しそうになっていますが、先日、新聞の投書に次のような話が載っていました。

(要約)
投書の主は関東地方にお住まいのご高齢の方でした。左手が不自由で足腰も弱っているので、出かけたときは当然、階段でなくエスカレーターを利用することが多いそうです。そしてエスカレーターに乗るときは、右手で手すりにつかまり、身体を手すりに預けるようにして支えて乗るそうです。

ところが、ここで問題になるのが先程の習慣。関東の場合、右を空けて乗らなくてはならないとなるとたいへんです。不自由な左手で身体を支えなくてはならないのです。思ったように手すりをつかむこともできず、不安定なままで立っていなくてはなりません。ましてや、右側を掛け上がっていく人がちょっとでもぶつかったりしたら、それこそ生命の危険さえあります。

お年寄りは言われます。「どうか、エスカレーターに安心して乗ることができるよう、急いでいる方は階段を利用してください」と。

すごーく反省しています。

私も、急いでいると、ついエスカレーターの右側を階段のように上ってしまっていました。特に、朝の通勤時間帯に「次の電車に乗らないと乗り継ぎ電車に遅れる!」なんていうときは、若い人達に混じって、電車がホームに着いた途端、エスカレーターを駆け上がっていました(ハアハア息を切らせながら)。

でも、最近は階段を上ることにしました。確かにエスカレーターは「乗る」のであって、「上(のぼ)る」ものではないですものね。

そして、エスカレーターに乗った時は、ひたすらおとなしくジッと流れに身を任せております。遠からず、私もエスカレーターに大いにお世話になる一人ですから…。