セレニティカウンセリングルーム

関連するコトバ 『 野沢和弘 』

たとえ話「もし私が」

たとえば、こんな「たとえ話」があります。

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…… 障害者が多数を占める市の市長選で視覚障害者の彼が当選した。さっそく街路灯を撤去する公約を実行に移す。
財政は厳しく地球環境にも配慮するためだ。

「危なくて夜歩けない」と抗議する視覚健常者を、市長の彼はいなす。

「一部の人(健常者)の意見ばかり聞くわけにはいきません。少しは一般市民(視覚障害者)のことも考えてください」

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(最近ある方から頂いたメールの中に、上のようなたとえ話が載っていたのでそのまま引用させていただきました。)

ちょっとした衝撃でした。
今まで、自分は障碍を持つ人の苦労が実感でわかっていなかったと…。頭ではわかっているつもりでも…。

差別は差別されてみて初めて痛みに気づく(=実感でわかる)しかないということでしょうか。

だとしたら、前回のカナダの実験授業のように、差別を体験させるというのも、過激ではあるけれど仕方がないことになります。

(でもそれによって、子ども達の心に傷が残るのは、やはりつらい。もうちょっと緩やかな方法として、ロールプレイで体験するというのもあるから、私としてはこっちを採りたいとは思いますけれど。)

ともかく、いろいろな人の意見や気持を聞くことが何事においても大切なのは、こういう自分のまったく盲点だったことに気づかせてもらえるからなのだと納得してしまいました。

いやー、衝撃でした!

補足)
このたとえ話の主は、障害者差別をなくす条例を千葉県で制定することに奔走された野沢和弘さんという新聞記者さんだそうです。お子さんの障害の問題からご自身の問題として立ち上がられただけあって、具体的な指摘が本質を突いているように感じました。

「どういう特性を持った人が多数で、どういう特性を持った人が少数なのか、そして多数の人は少数の人のことをわかっているのか、いないのか」が障害者差別の本質だと悟ったそうです。

詳しくは『条例のある街』(ぶどう社刊)を。