セレニティカウンセリングルーム

カテゴリー 『 教育 』

ごんぎつね 続き

前回、ごんぎつねについて書きましたが、訂正があります。

訂正箇所↓
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鈴木三重吉と言えば、日本で最初の児童文芸誌「赤い鳥」の主宰者です。当時新美南吉は18歳の新人ですから、手を入れられても異を唱えることはできなかったでしょうね。

私は別に南吉ファンでもなんでもありません。でも、今回原文と教科書の文と両方を比べてみると、新美南吉が生きていたら、不本意なんじゃないかなあと同情したくなりました。
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調べてみてわかったことは、三重吉の手の入った「ごんぎつね」については、南吉自身が了承していたらしいので、教科書の「ごんぎつね」についてもその線で考えた方が良いと思いました。推測で書いてしまったので訂正します。失礼しました。

ということで、南吉が書いた最初の草稿「権狐」と、三重吉の手の入った「ごんぎつね」の二つは、別の作品と捉えた方が良さそうです。

前者が昔話に近いとすれば、後者は言葉や体裁の整理され洗練された近代小説に近いといった感じでしょうか。二つは味わいがかなり違います。別物と考えれば、どちらが良いかというよりも好みの問題になりますね、きっと。

ごんぎつねが繰り返し教科書に取り上げられ、教材として成長していること自体はすごいことだと思います。でも同時に、そこに盛られた日本人の精神風土(たとえば死の美学のような)にも自覚的でいたいと思うのです。

その点で、私の感じた違和感とは、教科書に掲載されている「教材」だからこそなのだとわかりました。絵本や読み物としてみれば、ごんぎつねはとても魅力的なお話だと思います。

教材は子どものものの見方・考え方を養います。感性を育てると同時に、自分を見つめ、社会との関わりを探る力を育てるのも言葉の力です。

いじめや学級崩壊も、そうした言葉の力と関係している気がして、もっともっと子ども達にダイナミックな国語教育をと思うのです。

「ごんぎつね」の表現の違い

日曜日は手塩研でした。小学校の先生の研修会です(詳しくはHPを)。

研修会と言ってもほとんど個別指導に近い少人数で、和気藹々と中身は濃く、楽しんで私も参加させてもらっています。

今回もいろいろ学ぶことが多かった中で、一番印象が強かったのは4年生の教科書に載っている新美南吉作の「ごんぎつね」のことです。

実は、南吉が書いた原文とは異なる鈴木三重吉の手が入ったものが、長年教科書に採用されてきたもののようです。

鈴木三重吉と言えば、日本で最初の児童文芸誌「赤い鳥」の主宰者です。当時新美南吉は18歳の新人ですから、手を入れられても異を唱えることはできなかったでしょうね。

私は別に南吉ファンでもなんでもありません。でも、今回原文と教科書の文と両方を比べてみると、新美南吉が生きていたら、不本意なんじゃないかなあと同情したくなりました。

私自身が「ごんぎつね」に接するたびに感じていた違和感があながちピントはずれではなかったみたいです。

例えば、ごんを撃ってしまった兵十が「ごん おまえだったのか?」と問う最後の場面での、ごんの心情描写の違い。教科書ではごんは「うなずきました」となっていますが、原文は「うれしくおもいました」です(記憶に頼って書いているので、言葉は正確ではありませんが)。

細かい言葉の修正で全体の印象が随分違ってくるし、読後の感想も変わってきます。

機会があったらもっと調べてみたいと思いました。

こんな資料もありました。
引用です。
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「ごんぎつね」のようにすべての教科書に掲載されている作品が、学習者に与える影響は、きわめて大きい。というのは、義務教育を受けようとする限り、どの子どもも必ずこの教材をくぐることになるからである。大げさにいうなら、日本人としてのアイデンティティの形成に関わる問題でもある。これは、検討に値する問題だろう。

(『「ごんぎつね」をめぐる謎 ―子ども・文学・教科書―』府川源一郎<はじめに>より)

心のノート

「心のノート」は2002年に文部科学省が全国の小中学生に配りました。予算は7億円以上もかかったのですね。

これは一年間の教育予算の80パーセント以上だそうです。
すごい金額ですねえ。もっと他に効果的な使い道はなかったのだろうか、もったいないなあと思ってしまいました。

というのは、読んでみて(全部を読んだわけではありませんが)それほど有意義なノートとは思えないからです。

心のノートは、教科書ではなく、副読本というか、書き込み式のノートです。「人として生きていく上での大いなる『プレゼント』」(『心のノート』の活用にあたって、より)なのだそうです。

プレゼントだとすると、少し押しつけがましいプレゼントというのが私の印象です。

一番違和感を感じたのは、問いかける文章に続けてすぐ、<こう考えるとイイヨ、こう考えよう>といった誘導のような文章が続いて出てくることです。

ふつう、「君たちはどう思いますか?」と訊かれたら、考える時間が与えられます。

でもこのノートでは、間髪を入れずに「○○は△△だよね。だから~なのです。感謝しましょう」みたいな記述が続いています。

だから、言葉遣いは丁寧なのに、何だか自分が軽く扱われているような、妙に威圧されているような、何とも言いようのない感覚が醸し出されてくるのです。

読んでいて、私はこの何とも言えないモヤモヤした気持になっていくのが一番イヤでした。

自由な思考を促す言葉で質問しておきながら、一方では、自由な思考を抑え、ある考えを押しつけている。そんなふうに受け取れてしまいました。赤と青の信号が同時に点灯されたようなもの、とでもいうのでしょうか。

心理学でいうところの二重拘束(ダブルバインド)に似た状況です。ダブルバインドで、よく例に取り上げられるのが「自由にしなさい」という言葉です。自由に振る舞おうとすると、相手の言葉に従うことになってしまい、結局、動きが取れなくなる、そんな状態を指します。

心のノートのこうした記述のされ方は、受け手を混乱させ、葛藤状態をつくってしまいます。ノートに従って記入し、読み進めるうちに、子ども達は次第に自分を率直に表すことが難しくなっていくでしょう。

心のノートについてはいろいろと批判があるようですが、私自身の感想としては、少なくともこの点において、心の健康のためには使わない方がよい、というのが率直な感想です。

それにしても7億もの予算を「プレゼント」にではなく、教育の質を高めるための根本的なことに使ってほしいものです。そしてプレゼントというのなら、もっとさりげなく、しゃれたものであってほしいなあと・・・。

カウンセリングより教育技術

最近は、学校の先生方に対する心理やカウンセリング分野の研修が盛んにおこなわれているようです。

一昔前に比べて、先生方は個別に、よりきめ細かく子ども達に対応しなくてはならず、集団行動にしても、子どもの内面的なことも理解しておかないと指導が難しくなってきたからだと思われます。

確かに、現場の先生方からお話を聞くと、内面的な複雑な問題も少なくないようですね。先生方も教師になったり、カウンセラーになったりではたいへんだなあと思います。

ただ、学校の先生方がそんなに深くカウンセリングを学ぶ必要はあるのだろうかと、その点はちょっと疑問です(あちこちでそうしたプログラムが組まれているようですが)。

なぜなら、先生方はカウンセラーや臨床心理士が持っていない教育上の指導という枠組と、そのための方法を持っていらっしゃるのですから。

それらを存分に生かすこと、そのための基礎知識としてカウンセリングを身に付けておけば、それで十分ではないかと私は思っています。

子ども達にとっても、教師は教師、カウンセラーはカウンセラーとして、方向は同じでも違った方法で対応してもらえれば、より幅のある成長の機会を得ることができるわけです。

私はむしろ、カウンセリングの場面で「こんなとき教師だったら、集団指導で効果的な対応ができるのだろうなあ」と、教育指導で対応できる先生方をチョッピリうらやましく思うときすらあります。

臨床心理士やカウンセラーとは違った対応ができるところにこそ、教育の醍醐味と価値があるのではないでしょうか?

餅は餅屋、先生は先生!

「先生でなくてはできないことを」です。…先生方、どうかよろしくお願いします!

植物の育て方に学ぶ

テレビの園芸番組を見ていたときのこと。画面は北海道の夏の庭園を映している。庭園に咲いたハマナスの花の濃いピンク色がみずみずしい。

番組案内役の園芸家の柳生さんが、感心したようにハマナスの葉っぱを手にとって言う。

「ウチで植えているのより葉っぱが小さいなあ。ウチのは手を掛け過ぎなのかもしれない。ここのは葉っぱが小さくて、その分こんなに花の色が濃いでしょう?」

肥料・水・土など、生育条件を人間が整えてやりすぎると花よりも葉っぱが立派になる。花や種が立派に育つには、必死に子孫を残そうとする植物自身のエネルギーが必要だからだ。条件が整い過ぎると、植物はがんばる必要がない。

「ウチのハマナスは育てているっていう感じだけど、ここのは育てられているんじゃなくて、自分で生きているっていう感じだ。」

いっぽう、シバザクラを育てているおじいさん、手入れのコツを柳生さんに聞かれてこんなふうに答えた。

「いつも畑を見回って、よく見てやることが大事。愛情持ってみてやるちゅうことかなあ。」

植物も人間も、何だか似ている。
いつも見守っていながら、しかし、手を掛けすぎない。

その、どこまで手を掛けるか、掛けないか、<頃合い>が難しい。