セレニティカウンセリングルーム

カテゴリー 『 社会 』

迷子とおじいさん

デパートへ行ったときのこと。売り場で品物を選んでいると、どこかから男の人の声が聞こえてきます。

「何かしら?」と思っていると、そのうち子どもの泣き声がしてきました。次第にそれが大きくなります。

声のする方を見ると、エレベーター前にお年寄りの男性と、泣いている男の子が立っています。声を聞いて、近くの売り場から店員さんが一人、そしてまた一人と、駆けつけてきました。

どうやら、迷子の男の子を見つけたおじいさんが、通りすがりに男の子に声を掛けた模様です。

男の子は泣き続けています。おじいさんの声は次第に大声になってきて、「エレベーターが…」「親はどこにいるんだ」「親の顔が見たい」というようなことを言い続けています。

私は、店員さんが来たのでもう大丈夫と思い、買い物に専念しようとしました。ところが、おじいさんの声がイヤでも耳に入ってきます。「親は何してるんだ!」と一層大きな声で言い続けています。

気になって振り向くと、二人の女子店員につきそわれて、男の子が売り場の奥の方へ移動していました。歩きながらも男の子は泣き続けています。こういう時はお母さんの顔を見るまでは不安でしょうがないものです。子どもは泣くことで自分を保っています。

私にも経験があります。自分自身が迷子になったときの経験と、親になってから、息子が迷子になったときの経験が。その経験から言っても、こういうときは親の顔さえ見れば即笑顔なのです。

だから、店員さんに保護された時点で、どんなに泣いていてもお母さんが来れば大丈夫、とホッとしたのです。

ところがです。おじいさんはずっと「母親は何してるんだ!」と怒気を含んだ声を張り上げています。そして、店員さんと男の子が移動する後から、おじいさんもトコトコついていくではありませんか。

店員さん二人が「ありがとうございました」と何度も何度もお礼を言いながら遠ざかっていくにもかかわらず、おじいさんは「どんな親なんだ」「どんな親か顔を見てやろう」と繰り返しながらついていくのです。

なんだかイヤーな気持がしました。誰でもうっかりすることはあります。まして子ども連れで買い物をするのはすごく神経が疲れるし、体力も使います。

十分気をつけていても思いがけないことが起こります。たとえば自動ドアが開いた拍子に子どもが出て行ってしまったり、エレベーターが開いた拍子に乗り込んでしまいそうになったりと、本当に買い物どころではありません。

子どもを預けて出かけられたり、一緒に買い物をしてくれる人がいればよいのですが、場合によっては一人で子どもを連れて買い物をしなくてはならないこともありますし…。そんなとき、ほんの一瞬のスキで子どもが迷子になったりするはあるのです。

男の子と店員さん達が奥に行き、静かになったので、私はとにかく買い物をすませようと品物選びに戻りました。そして、しばらくして振り返ると、お母さんが子どもをダッコして何度も頭を下げているのが目に入りました。お母さんはホ笑顔で何か言っています。おじいさんも何か言っているようでしたが、聞き取れません。その場の様子から、母親を執拗に責めているようには見えませんでした。

お母さんがあんまり嬉しそうなのと、男の子が泣きやんだので、おじいさんも拍子抜けしたのかもしれません。

どうなることかとハラハラしていた私も、やっと買い物に専念できるようになりました。

それにしても、おじいさんはデパート歩きが日課なのでしょうか。買い物をする風でもなく、時間をつぶしているように見えました。それにあの怒りは、おじいさんの中に不満や憤りが溜まっていたとしか思えません。これからは高齢化社会、いろんな世代がどうやってつきあっていくか、お年寄りがどんなふうに自分の時間を使うかなど、考えなくてはいけないこともたくさんありそうですね。

だからこそ、もうあとほんの少し温かい目で、子育て中の親御さん達を見守るゆとりを持ちたいなあと思います。もちろん自戒を込めてですが。

たとえ話「もし私が」

たとえば、こんな「たとえ話」があります。

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…… 障害者が多数を占める市の市長選で視覚障害者の彼が当選した。さっそく街路灯を撤去する公約を実行に移す。
財政は厳しく地球環境にも配慮するためだ。

「危なくて夜歩けない」と抗議する視覚健常者を、市長の彼はいなす。

「一部の人(健常者)の意見ばかり聞くわけにはいきません。少しは一般市民(視覚障害者)のことも考えてください」

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(最近ある方から頂いたメールの中に、上のようなたとえ話が載っていたのでそのまま引用させていただきました。)

ちょっとした衝撃でした。
今まで、自分は障碍を持つ人の苦労が実感でわかっていなかったと…。頭ではわかっているつもりでも…。

差別は差別されてみて初めて痛みに気づく(=実感でわかる)しかないということでしょうか。

だとしたら、前回のカナダの実験授業のように、差別を体験させるというのも、過激ではあるけれど仕方がないことになります。

(でもそれによって、子ども達の心に傷が残るのは、やはりつらい。もうちょっと緩やかな方法として、ロールプレイで体験するというのもあるから、私としてはこっちを採りたいとは思いますけれど。)

ともかく、いろいろな人の意見や気持を聞くことが何事においても大切なのは、こういう自分のまったく盲点だったことに気づかせてもらえるからなのだと納得してしまいました。

いやー、衝撃でした!

補足)
このたとえ話の主は、障害者差別をなくす条例を千葉県で制定することに奔走された野沢和弘さんという新聞記者さんだそうです。お子さんの障害の問題からご自身の問題として立ち上がられただけあって、具体的な指摘が本質を突いているように感じました。

「どういう特性を持った人が多数で、どういう特性を持った人が少数なのか、そして多数の人は少数の人のことをわかっているのか、いないのか」が障害者差別の本質だと悟ったそうです。

詳しくは『条例のある街』(ぶどう社刊)を。

差別についての「カナダの実験授業」

カナダの小学校でおこなわれた実験授業のドキュメンタリーを見ました。
「特別授業 差別を知る~カナダ ある小学校の試み~」

子ども達に「差別」について考えさせる授業でした。先生はクラスの子ども達を、差別する側、される側に分けます。翌日にはお互いの立場を入れ替えて、差別を体験させます。

意欲的な「実験(授業)」でしたが、授業としてはあまり賛成できる内容とは思えず、後味の悪さが残りました。

子ども達の仲が良く、先生と子ども達との信頼関係ができていたので、それが救いでしたが、だからこそよけい子ども達は傷ついただろうとも思いました。いずれにしても差別は胸が痛みます。

でも、いろいろ考えさせられる内容で、その意味ではドキュメンタリー映画としては秀作なのかな?(だから受賞したのでしょうが)

とても印象に残っている場面があります。

先生は、背の高さで二組に分け、高い方のグループには赤いベストを着用させます。

この時点で、すでに子ども達はとまどいの表情。背の高い子ども達のグループの表情は暗く、不安そう。

やがて先生が黒板の問題をやらせます。背の高い子がまちがうと、すかさず先生が、
「ヤッパリ背が高いからなのね。〇〇〇はまちがえたわ。誰か直せる人は?」

すると、背の低いグループの△△△くんが得意げに正解を言う。先生は、
「ヤッパリ背の低いグループね。正解だわ」
と言う調子。

(ナレーション)
—-いつもは間違えたことのない○○○。今日はどうしたことか自信を持って答えることができません。—-

カメラは黒板の前でしょんぼりする○○○くんを映す。

○○○君だけではなく、背の高いグループの子は、いつもできていたことができなくなったり、自信なさそうな雰囲気になったりしたのです。

差別されたことで、いつもは解けるはずの問題が解けなくなってしまったり、振る舞いにも自信がなくなった子ども達の反応に驚きました。

差別するということは、それだけで相手に自信を失わせる行為なのです。

差別される側は、自分自身差別される前と何も変わりがないにもかかわらず、差別されたとたんに自信がなくなり、表情も変わり、態度もおどおどしてミスをおかしてしまう。

差別する=さげすむ行為が、どんなに人を傷つけ、人の行動まで束縛するものであるか、あまりに鮮やかに現れていて驚きました。

差別が許されないのは、心を傷つけるからだけではないのです。

子どもだったら、勉強の理解度や進み具合、運動能力など、成績や生活全般にわたって大きく影響するものなのだと感じました。

同様に、世界中のさまざまな差別も、差別される側の多くのパワーを奪ってきたということですね。

子ども・女性・障碍者・黒人・性的少数者・老人などなど、本来の力を発揮できないでいる人達が劣っていると見なされてきたのは、自信を失わせる位置に置かれ、力が発揮できなかったからであって、本当のところは対等でなければ比べようがありません。

授業で問題が解けずにおどおどしている子どもがいたら、まず伸び伸び解けるように安心させてあげること、そうしてから教えたほうがきっと、うまくいくだろうと思いました。

ウン十年前、黒板の前で問題が解けずに固まってしまった私自身を、チラッと思い出したそんな映画でした。

(昨夜、書きかけで保存したものがアップされてしまっていたようで、7日夜までわけのわからない文章がアップされていました。失礼しました。)

人間関係あきらめずに、嫌わずに

「人間が何人か集まればイヤなこともあるし、トラブルもある。意見がぶつかってもいいし、やりあってもいいんだよ。
それに、イヤな人間ばかりじゃないよ。
一度きりの人生、自分がイキイキできるように、生きていこうよ。」

また言ってしまった!

学生さん達と話していると、おとな達からいじめられた経験を少なからず聞かされる。おとなの一員として何とも返事のしようがない。彼らは、それで人間不信に陥ったり、傷ついた体験を誰にも言えず持ち続けた結果、疲れ果てていたり…。

それでもあきらめずに、人間関係をつくっていってほしい。
人を嫌わずにいてほしい。
そう願って思わず力が入ってしまう。

もちろん私自身できる協力は惜しまないつもりだけど、実際はたいしたことはできない。

たいしたこともできないのに、元気出せと言っているハチャメチャな理屈。でも、応援しているおとなの一人として何かが伝わってくれれば……と思う。

ああ、カウンセリングは無力かも?…、と思ってしまう瞬間だ。

世代による住み分け?

東京のお昼時。オフィス街のコーヒーショップに入りました。

明るくおしゃれな感じの店内は、そろそろランチタイムのピークになるらしく、OLや会社員でどんどん席が埋まっていきます。

歩き回ってのどが渇いていたので、とにかく飲み物とサンドイッチを適当に選んで、急いで席を確保。ホッと一息ついて、気づいたことは…。

いつの間にか、店内の席はほとんどが埋まってしまっていたのですが、見たところ、若い人達ばかりなのです。20~30代と思われる人達です。中に一人だけ40代と思われる男性が。そして、オバサンは私だけ。

皆、この近くの会社にお勤めの常連さんらしい雰囲気でした。異次元空間に迷い込んでしまったような感じで、ちょっとソワソワ。

ますます混んできたお店を後に、通りを歩けば、道ですれ違うのも圧倒的に若い人達。
平均年齢30歳くらいの街?かと錯覚を起こしそうな、「新鮮」な体験でした。

かと思うと・・・、

その後、休日にショッピングモールに行ったときのこと。そこでは若いパパ・ママと赤ちゃんと子ども、そしておじいちゃん・おばあちゃん世代が目につきました。
OLや会社員、若者や中高生はほとんど見かけませんでした。

まるで住み分けているみたい!場所によって世代が偏っているのにはビックリしました。。

そういえばいつかこんな声を聞いたことがあります。
「ふだん若い人達とふれあう機会がないので、一度中学生や高校生と話してみたいなあ。」30代のOLさんでした。

私たちは知らず知らずのうちに、意外に限られた生活スペースで、限られた人達とだけ会って生活しているのかもしれません。世代や生活形態によって、生活する場所がハッキリ分かれてしまっているのでしょうか。一昔前にはあまり考えられなかったことだと思うのですが…。

いろいろな世代の人達と交流する機会がほしいですね。
そうしたらお互いを理解しやすくなるでしょう。
生活の彩りも、より変化に富んだものになるでしょう。

これからの街づくりにはそうした視点も欠かせない気がします。