カテゴリー 『 近況報告 』
こんな所に広大な原っぱが!
気づいたら、季節はすっかり秋も深まって。。。
今までで一番長いご無沙汰をしてしまいました。
この景色に接したときは、心の中でわお~っと叫んでしまいました。眼前に横一線この景色が広がっていたのですもの!
写真ではわかりづらいですが、遠くに見える高層ビルはさいたま新都心付近のビル群です。そこからほんの少し足を伸ばしただけで、こんなに静かな野原が広がっているのを初めて知りました。11月だというのに、暖かいせいかまだ緑が多いですね。
この原っぱの脇に1本の細い道があって、そこを通ってお仕事に行く機会が最近できました。そのことでたまたま知ることができた道なのですが、仕事の帰りにこの広い原っぱに沿って続く小道を、10分ほど歩くことができるのは結構楽しみになっています。
実は、歩きながら見える景色の片側はこんな感じですが、道を挟んで反対側はこの景色とは一変して住宅街なのです。
でも、この写真だけ見るととてもそうは思えませんよね。それもまた面白いところです。
そしてこの原っぱには何もないのですが、それがまたいい。
いえ、正確には何もなくはないです。
この草地沿いに10分ほど歩くと、広い道路に出る直前=つまりこの原っぱの一角に、小さな公園があるにはあります。でも、それ以外は何もありません。今や何もない原っぱや空き地は都会では貴重な存在ですね。
先日、私がその小さな公園の脇を通ったときは、うっそうとした樹木の間のベンチで数人のお年寄りがおしゃべりしていました。
そして原っぱが途切れて広い道路に出ると、途端に人と車の喧噪の世界が始まります。
それまでのほんのわずかの異空間。私には深呼吸のように心地よく、貴重な時間に思えます。1ヶ月後、ここを通るときに景色がどのように変化しているか、それもまたささやかな楽しみになりそうです。
孫たちとの夏休み~水上バス
猛暑の真っ最中の8月初旬。泊まりに来た孫たちを連れて、初めて水上バスに乗りました。夕方とはいえまだまだ暑さの残る中、日の出桟橋から浅草までの40分間、なかなか快適な海上のお散歩でした。
この日は食事付きの豪華なクルーズではなく、ちょっぴり昭和の雰囲気の素朴な水上バスに乗りました。実際、運行初期の室内の木造作りが生かされていて、それもまた風情がありました。
以前、20年近く東京に住んでいたのに、水上バスに乗ったのは今日が初めて。。。。
途中で見えてくるスカイツリーや、息子たちが卒業した中学校など、思い出の場所を海側から眺めることができたのも新鮮な体験でした。中学校には新しく体育館ができていたりして時の流れを感じました。
小学生の孫たちはといえば、エアコンの効いた階下に下りてみたり、眺めの良い上の階に上がったりして、特に遊具がなくてもそれなりに楽しんでいる様子。
何より、こんなに暑い日なのに、海面を渡ってくる風はわずかに潮の香を含んでしっとりしてはいるものの、涼しくて気持ちよかったので、こんなに暑い日は大人も子どもも、それだけで満足できたというのはあるかもしれません。
楽しげに行ったり来たりする子どもたちを見ながら、息子から言われちゃいました。「僕たち一度も連れて来てもらったことなかったよね」と。「う、う~ん。そ、そうだっだったね~」と苦しい返事(><)(そうだね~、こんなに気持ちいいのだから一度は来ても良かったよねー、と今更ながらの後悔)
時々すれ違う遊覧船のお客さん達と、手を振って挨拶するのも楽しかったですよ。もし、「東京でどこか行くとこないかな~」というときは、候補の一つとしていかがでしょう?
静寂と喧騒
落ち着いてパソコンに向かう余裕がなく(時間的にというよりは気持ち的に)、気がつくと2ヶ月以上もご無沙汰していました。
(写真は大学のキャンパスで仰いだ青空)
5月下旬に弟が亡くなり、闘病中だったとはいえ突然のことでショックでした。訃報を聞いて真っ先に思ったことは、死って静かだなぁということ。
訃報を耳にする一瞬前までは、希望・期待・不安・怖れなどなど、いろいろな感情が交錯して気持ちはザワザワしていました。そこに飛び込んできた訃報、亡くなったと聞いた瞬間、時が止まり物音一つない静寂の世界に一人ポツンと佇んでいる感覚。
本当に静かで、ただひたすらな静寂。
思えば生きていくことそのものが饒舌な世界での営みなのだと今さらながら知ることとなりました。絶え間なくおしゃべりを続けているかのような喧騒の世界に生きているのが私達の日常なのかもしれません。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
多少なりとも、ふだん瞑想に親しんでいれば、身近な人の死に臨んでも死の受け入れ方も悲しみも薄らぐのではないかと思っていたのですが、そんなことは全然ありませんでした。ショックなものはショックだし、悲しいものは悲しいままでした。
でもそれでよいのだと・・・。
悲しいときは悲しむしかない。そして、そういう自分を見ていればよいのだと。
瞑想とはそういうものだそうです。
ただ、こんなふうには思います。瞑想を通して、死を深いところで受け止められているのかもしれないと。重層的にと言うのでしょうか・・・。やはりなんだかんだ言っても、瞑想は私にとって欠かせないものになっていることは間違いないようです。
近所の田んぼ。冴え冴えとした緑が美しい。
田植えの季節には子どもたちがカエルを覗きに来ていました。
孫たちの贈りもの?
年が明け、早くも2月も目前!
だいぶ風邪やインフルエンザが流行っているようですね。
みなさんはお変わりありませんか?
私の方はお正月明けにさっそく風邪で寝込みました。
子どもの頃は風邪をひいたり熱を出したりで、年中薬のお世話になっていましたが、いつの頃からか、風邪もめったにひかなければ、熱が出ることはもっと珍しく、寝込むに至っては10年に一度というくらいほとんどなくなっていました。
なので、「お正月早々寝込むなんて、ついてないな~」と当初はすごくがっかりしたのですが、よくよく考えてみると、あるいはラッキーだったのかもしれないと、今では思っています。
そもそも体調を崩した発端は、小学生の孫達二人が泊りがけで遊びに来て、帰っていったその日でした。4日間、公園や水族館に行ったり、楽しく遊んで(孫に遊んでもらって?)過ごし、やれやれと駅まで送って行って帰宅した途端に腰が痛いのに気づきました。→(帰った途端というのがすごいですね。それまでは緊張で抑えていたのかしら?自分では全く自覚なし)
次第に、節々が痛くなり、翌日は朝から熱が出て、とにかく寝るしかないという状態でした。
ほとんど食事もせずに、水分だけは摂るようにして、ただただ眠りたいだけ眠りました。というより、眠る以外ない。何もできないし、何もしたくない状態だったので・・・。
と、書くと何やら悲惨ですが、実はある意味ラクチンでした。と言うのは、なまじ動けると、「あれをやっておかないと」「これがまだ準備できていないから」などと、気になることが次々に浮かんできて、つい動きたくなってしまうものですが、そんな余地もないくらい動けなかったので、もう選択肢は一つ!潔く「寝るしかない」でした。
そんな状態だったので、「わ~~い、寝られるー!」と、ちょっと嬉しかったかも。
そんなこんなで眠り続け、一日二日と徐々に熱が下がり、二日目にはほぼ平熱になり、三日目にはすっかり元気になることができました。
そして不思議なことに、治ったらなんだか身体が軽くなったような、スッキリとした爽やかな心地良ささえも感じることができました。ほとんど食事もとらず、こんこんと眠り続けて熱が出るに任せていたら、身体の浄化作用が自然に働いてくれたのかもしれません。
風邪が治ってもなんだかすっかり抜け切らない、そんなようなこともあるものですが、今回はそれが全然なくて、翌日の大学の出勤日にはまったく元気に出かけることができました。
ということで、今回の二日間の風邪体験は初めての不思議な体験でした。ある人曰く、「お孫さんの、「バアバ、ゆっくり休んで」というお土産だったかも?」。なるほど、そうかも~。優しい孫達よの~(笑)。
ただ一つ残念だったのは、寝込んだ2日目に予定し、チケットも購入してあったコンサートに行かれなかったこと。これは、ホン・・・・・ントに!残念でした。
生と死と瞑想
冬の朝はキーンと冷たくて・・・。
手足は凍えそうでも、
抜けるような青空を見ると、
そんなことも忘れて思わず深呼吸したくなるくらい気持ちがいい。
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今年も数日で幕を閉じます。相変わらずせわしない一年でした。皆様はどのような思いでこの年の瀬をお迎えでしょうか?
私くらいの年齢になると、元気だった人が急に体調を崩したり、身近な人が亡くなったりという報に接する機会が増えてきます。そしてその度に、命や健康について考えさせられます。そこにはおのずと、「生きる」とは何なのかという問いも含まれて。
一般に私たちの感覚では、生と死は対極にあると思われています。少なくとも日常の感覚ではそうです。
一方、毎月セレニティで開催している瞑想会では、「死は日常のことであり、生と死は一体で切り離すことができないもの」として扱われます。そして私たちは日ごろ、生の側にだけ目を向けて生活していて、死は見ることさえ拒否しているのではないかと・・・。
その結果、身近な人の死や自分に健康不安が生じたときに突然、死について考えるようになり、そしてまたその不安が去ると日常に紛れて忘れてしまう、ということを繰り返しているのではないかと。
私自身を振り返ってもまさにそれです。ただ、少しずつの変化も感じられます。心もとないながらも続けている毎日15分の瞑想と、月に一度の瞑想会を通して、(ほんのちょっぴりですが)生と死の両面に目を向けられるようになってきたかな、と思う時も出てきました。
日ごろ見ることを拒否していた部分(死)を見ることで、生きることの両面(生と死)に目を向けることができ、「ねばならない」と縛っている自分から解放されて自然体で生きられたら・・・。そして、自分なりの幸せや喜びをさらに見つけられるようになれたらいいな~。
瞑想をしながらいつも雑念に振り回されてばかりいる私には、まだまだほど遠いことは確かです。それでも、生と死の両面をちゃんと見られたら世界がどんなふうに見えてくるのか?という好奇心と、多少の向上心(?)とで、このまま雑念に振り回されるとも、ジタバタ瞑想をし続けようと思っています。
とまあ、こんなことを思いつつ、年の瀬を過ごしています。
今年もあまり日記が更新できませんでした。というより、以前よりも間隔が開いてしまったかも・・・。本当にこの一年は気づくとあっという間に一か月が経ってしまっていて、時間の感覚が昨年よりもさらに短かった気がします(モロ言い訳!><)
来年はもうちょっとマメに更新できたらと思いますが(←毎年言っている)、期待せずに見守っていただければ・・・。
何はともあれ、今年も一年何とか無事に過ごすことができました。
本当にありがとうございました(世の中の諸々に対して感謝を込めて・・・)
皆さま、どうぞ佳いお年をお迎えくださいませ。