2015年。
もう21世紀になってから15年目なんですねえ。
ふ~、早いなあ!
20世紀の真ん中に生まれた私としては、2000年という数字そのものが、現実離れした数に思えていた時期がありました。19〇〇年は実感できるけど2000年以降はSFの世界、みたいな感覚だったのです。さすがにこの頃は2000という数字にも慣れましたけれど・・・。
ところで、
20世紀から21世紀へと切り替わった当時は、戦争の世紀と呼ばれた20世紀から、平和なミレニアムへと変わることを期待した空気が自然に生まれていたように思います。平和なミレニアムの創造はいつどんな形で始まるのか?淡い期待を抱きつつ、何かを待っていた自分もいました。
そのまま月日が過ぎて・・・
2011年、私たちは東日本大震災という未曾有の惨禍を経験するに至ります。
「これで何かが変わる!」と思ったのも束の間、
惨禍の痛手から気づいたことや学んだことを忘れ去り、
再び何ごともなかったかのように20世紀の続きを歩いている、
そんな2015年の年頭です。
☆ ☆ ☆
でも、考えてみれば当たり前ですね。
私たち一人ひとりが変わらなければ、
本当の意味での社会の変化は起きないのですから・・・。
どこからか変化がひとりでにやってくるなんてことはないですから。
権力を持った人たちが好きなように力をふるってきたのが
20世紀までの歴史だとしたら、
それを超えるには権力者ではない人たちが、
今までに発揮できなかった力を使って乗り越えるしかないのでしょう。
そして、乗り越えることのできる力があるとすれば、
それは権力者と同じような種類の力ではなく、
自分を生かし、人と人とをつなぐことのできる力であるはずです。
「自分を生かし、人と人とをつなぐことのできる力」を使う。
それは誰にも教わったことのない方法だから、
不安に駆られるかもしれません。
でも、そのもとになるのは、誰もが本来持ち合わせている力です。
誰かの指示を待つのではなく、
自らの魂の声に耳を傾けて動くとき、
きっと何かが少しずつ変化し始めます。
魂の声に耳を傾けることは、
もしかしたら勇気のいることかもしれないけれど、
自分自身の生を生きるただ一つの道ではないでしょうか。
そんなことを考えながら明けた今年のお正月。
少しでも形にしていけたらいいなと思っています。
今年もよろしくお願いいたします。
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皆さん、ご覧になったことありますか?
菩提樹(インド菩提樹)。
釈迦がこの木の下で悟りを開いたことから、この名前が付いたとか。
葉の先端が細く伸びているのが特徴だそうです(写真はクリックすると大きくなります)。
温室育ちです(新宿御苑の温室にて)。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
私は初めて見たのですが、日本人にはあまり馴染みのない木であるのは確かですね。
でも、菩提樹という名前自体は、身近で見ていないにもかかわらず、子どもの頃から知っていました。確か中学か小学校の頃に、音楽の教科書にシューベルトの歌曲「菩提樹」が載っていたからではないかと・・・。
「 泉に沿いて 茂る菩提樹~ ♪ 」と文語調の日本語歌詞でした。この歌のせいか、「菩提樹」には重厚な印象があったのですが、ご覧のように全然そんな感じはしませんね。
菩提樹つながりでもう一つ。
新宿御苑で菩提樹を目にした日、ランチでドリンクバーを利用したのですが、ハーブティのティーバッグの中に、あまり見慣れないお茶があったので選んでみました。袋の説明を見ると「菩提樹」と書いてあります。袋には細かく砕かれた木片がパラパラと入っていて、お湯を注ぐとほのかに森の香りというか、檜のお風呂の芳香がしました。
こんなふうに菩提樹に縁のある不思議な一日でした。
ここでちょっと気になったのは、、、、、
「菩提樹」の名前の由来は、お釈迦様がこの木の下で悟りを開いたことから来ていると言われています。だとすれば、本来亜熱帯地方の樹木なはず。現に、日本では温室栽培ですからね。それなのに、なぜシューベルトの曲に登場するのかしら?
ということで調べてみたところ・・・。
シューベルトの歌曲に登場する菩提樹は、「リンデン(西洋菩提樹)」と呼ばれ、お釈迦様に由来する菩提樹とはまったく別種であることがわかりました。リンデンと聞いて、私が思い出すのは「リンデンバウム」です。
昔、そんな歌がありましたね。ワンフレーズがパッと浮かびます。
「 リンデンバウムはわたしの頬に 伝う涙を知っている ♪」だったかな?
「リンデンバウム」で検索を掛けると、梓みちよさんのきれいな歌声がyou tubeで聞けます。私の覚えていた歌詞は、三番の歌詞の一部とわかり、そんな終わりの方の一部分だけ、なぜ印象に残っていたのか私にもナ ゾです。
すみません、どんどん話がそれていってますね。
結局、「インド菩提樹」とティーバッグの「リンデンバウム」はまったく別の種類だということがわかったわけです。この日はリンデンバウムのお茶を飲み、インド菩提樹を見てお釈迦様の樹下の瞑想姿を思い浮かべたのでした。
そして、、、、
この日から、私の一日15分の瞑想がスタートしました。何とか今のところ続いているんですよ、奇跡的に!
と書くと、インド菩提樹のおかげかと思われるかもしれませんが、そういうことではなく(それも間接的にはあったかもしれませんけど)、ちょっとした出来事のおかげでした。それはまた筆を改めて・・・。
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(桜の木も冬支度です!)
またまた、ご無沙汰してしまいました。
今年もあと一月ほどですね。早すぎます!
日々をこなすことに追いまくられてゆっくり味わっている暇もないような毎日で、こんなんでいいのかなあと思いつつ、たまに孫の顔を見ると、子どもの成長の早さに別の感動をもらいます。でも、だからこそゆっくり子ども時代を味わって成長してほしいとも思うし、成長の喜びと「じっくり体験して」という老婆心が複雑に交錯します。
今の時代、親も子も、ジジババも、若い人も、み~んな忙しくて大変です。
先日、ある本を読んでいたら、<「ことば」は関係の中で身につく>という一節があり、なるほどなあと考えさせられました。
そこに紹介されていたエピソードは、ある教育相談の事例で、3歳になっても言葉の出ないお子さんの例でした。
その子は噛むことがうまくできなくて、ご飯は口に入れると30分くらいモグモグやってから飲み込むので、一回の食事に3時間くらい掛かってしまうのだそうです。
その様子から、このモグモグは赤ん坊がおっぱいを飲む行為に違いないと察した相談員が、抱っこしながら哺乳瓶でミルクを飲ませるように勧めてみたところ、子どもは喜んでミルクを飲み、次第に噛むこともできるようになり、今度は自然に言葉が出てきたのだそうです。
このお子さんは母親一人に育てられており、母親が仕事で不在中はベビーホテルを転々として育ってきたために、安心した人間関係が形成されなかったのです。そのために、言葉の獲得もできなかったというのです。
言葉は単に単語を覚えればいいというのではなく、人間関係があってこそ生きた言葉の獲得になるし、そうやって覚えた言葉を駆使することが人間形成につながっていくという流れで説明されていました。
俗に「読み・書き」と言いますが、「読み・書き」の前には「話し・聞き」がなければならず、育つための順当な順序があって、初めて言葉が言葉として機能し、知識や人間形成に役立つというのです。
私自身まだ十分読みこなせない中でご紹介して恐縮ですが、もし関心がおありでしたら読んでみてください。2002年の発行ですが十分今に通じる、いやむしろ今だからこそ必要な示唆に富んだ内容だと思います。
本の題名はこちらです。
『日本語の豊かな使い手になるために ~読む、書く、話す、聞く~』
大岡 信 著
(大岡信さんが学校の先生方数名と交わした数日間に渡る対談をまとめたものです)
やっぱり時間って大切ですね。時間があれば、3歳のお子さんもゆっくりお母さんに関わってもらえたでしょうし・・・。学校の先生も親も、子どもに余裕を持って関わるゆとりが生まれますし、職場の人間関係も、時間があればもっと穏やかな関係がつくれるでしょうし、人間的なふれあいも生まれてくるでしょう。そしてそういうことこそが、人生の喜びそのものなのだと思うのですが・・・。
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こんにちは!
巷ではけっこう風邪がはやっているようですが、皆さん、お元気ですか?
私はおかげさまで元気にしています。
今年も後2ヶ月だなんて嘘みたいですね。
あんまりいろいろなことがありすぎて、つい1ヶ月前にあったことも随分昔のことに思えてビックリすることがあります。
そんな中でも季節の変化は、慌てず騒がず順調です。

☆
☆
写真はキャンパスの秋。
秋は空を見上げたくなりませんか?
☆
澄んだ空気。
冬の始まりの冷たい空気はまだ震えるほど寒くはなくて心地よい。
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木の葉も日ごとに色づいて、銀杏並木が黄色に染まる日も近いです。

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9月下旬のある日のこと。
朝、電車に乗るため、最寄り駅に着いてビックリ!
何と、駅前の桜の木がバッサリと切られていました。
ご覧のように一抱えもある太い幹が、です。
切り口が太陽にさらされて痛々しい!
夏の間に茂った枝が邪魔だったのでしょうか?
☆ ☆ ☆ ☆ ☆

もちろん、理由もなく切られたのではないでしょうが、それにしても無惨な姿になってしまいました。
果たして来年は花を咲かせてくれるかしら?
駅が建て替えられる前は、なかなか見事な枝振りで楽しませてくれ、花吹雪の舞う駅前の雰囲気は風情があって好きでした。
もともとは駅舎の脇に2本あったうちの1本で、駅のホームにも太い切り株だけが残っている所が何カ所かあるので、このあたりは駅ができる前は桜の木がたくさん植わっていた場所だったのかもしれません。
駅ができた当時、ホームを造るのに邪魔だった何本かは切り倒されたようで、今でも切り株の一部がホームの隅にそのまま残っています。その駅舎も古くなった数年前、立派な今風の駅に建て直され、その時に駅前の2本がバッサリと枝を落とさました。そして今回は、さらにこのような姿に・・・。

3枚目の写真は、数年前に駅が新しくなった後、駅の2階から見たところです。
大きな枝を切られた後も、残った枝からはこんなに花が咲いていたのです。でも、来年の春はどうなることか?
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」ということわざがあるそうですが、梅は無駄な枝を切ってやることでよく咲くようになるが、桜は切るとそこから腐って咲かなくなってしまうことから来た言葉だとか。
このまま腐って咲かなくなってしまうのでしょうか?
いやいや理屈上はそうでも、樹木にも個体差はあるでしょうし、種々の条件もあるでしょう、腐らずにすむかもしれません。どうにか乗り切って咲いてくれますように・・・。
私が気をもんでも仕方のないこととわかりながら、やっぱり来年の春が気になってしまいます。
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