セレニティカウンセリングルーム

関連するコトバ 『 言葉 』

言葉を話す前に必要なこと

(桜の木も冬支度です!)

またまた、ご無沙汰してしまいました。
今年もあと一月ほどですね。早すぎます!
日々をこなすことに追いまくられてゆっくり味わっている暇もないような毎日で、こんなんでいいのかなあと思いつつ、たまに孫の顔を見ると、子どもの成長の早さに別の感動をもらいます。でも、だからこそゆっくり子ども時代を味わって成長してほしいとも思うし、成長の喜びと「じっくり体験して」という老婆心が複雑に交錯します。

今の時代、親も子も、ジジババも、若い人も、み~んな忙しくて大変です。

先日、ある本を読んでいたら、<「ことば」は関係の中で身につく>という一節があり、なるほどなあと考えさせられました。
そこに紹介されていたエピソードは、ある教育相談の事例で、3歳になっても言葉の出ないお子さんの例でした。
その子は噛むことがうまくできなくて、ご飯は口に入れると30分くらいモグモグやってから飲み込むので、一回の食事に3時間くらい掛かってしまうのだそうです。

その様子から、このモグモグは赤ん坊がおっぱいを飲む行為に違いないと察した相談員が、抱っこしながら哺乳瓶でミルクを飲ませるように勧めてみたところ、子どもは喜んでミルクを飲み、次第に噛むこともできるようになり、今度は自然に言葉が出てきたのだそうです。

このお子さんは母親一人に育てられており、母親が仕事で不在中はベビーホテルを転々として育ってきたために、安心した人間関係が形成されなかったのです。そのために、言葉の獲得もできなかったというのです。

言葉は単に単語を覚えればいいというのではなく、人間関係があってこそ生きた言葉の獲得になるし、そうやって覚えた言葉を駆使することが人間形成につながっていくという流れで説明されていました。

俗に「読み・書き」と言いますが、「読み・書き」の前には「話し・聞き」がなければならず、育つための順当な順序があって、初めて言葉が言葉として機能し、知識や人間形成に役立つというのです。

私自身まだ十分読みこなせない中でご紹介して恐縮ですが、もし関心がおありでしたら読んでみてください。2002年の発行ですが十分今に通じる、いやむしろ今だからこそ必要な示唆に富んだ内容だと思います。

本の題名はこちらです。
『日本語の豊かな使い手になるために ~読む、書く、話す、聞く~』
大岡 信 著
(大岡信さんが学校の先生方数名と交わした数日間に渡る対談をまとめたものです)

やっぱり時間って大切ですね。時間があれば、3歳のお子さんもゆっくりお母さんに関わってもらえたでしょうし・・・。学校の先生も親も、子どもに余裕を持って関わるゆとりが生まれますし、職場の人間関係も、時間があればもっと穏やかな関係がつくれるでしょうし、人間的なふれあいも生まれてくるでしょう。そしてそういうことこそが、人生の喜びそのものなのだと思うのですが・・・。

Thinkと我慢

先日の新聞に、お笑いコンビのパックンマックンのパックンが、お子さんの子育てについてインタビューを受けた、ほのぼのした記事が載っていました。

「二人のかわいさには理性を失います」だそうです。
いいですね~ ^^)

さて、子どもが他の子のオモチャを取ったりしたとき、子どもになんて言うか。パックンは「Think(考えて)!」と一言。(日本人の)奥さんは「そこは、我慢でしょ」なのだそうです(わかるわかる)。

パックン「我慢という言葉はすごく便利です。僕は英語で育てることにしているから、使えないんだけど。」

面白いですね、こういうの。英語と日本語の違い。そして文化の違い。アサーション・トレーニングにも関係していて、とても興味深いです。

我慢も大事。同時に、Thinkも大事。自分の頭で考え、判断し、行動すること。子ども達がこの両方を身につけてくれたら、ステキですね。

「過激」になれない時代

あらあら、気づいたら1月も終わろうとしています。年明けに書き込んだきりで、すっかりご無沙汰してしまいました。今年はちょっとはマメに、なんて思っていたんですが、ちっとも変わりませんね。

先日、ある本を読んでいてとても納得したことがあります。それは次のような一節です。

「虫や動物や得体の知れない生き物を借りてしか過激になれない時代というものに、私はいささか空恐ろしさを感じています。」『ぼくらの言葉塾』ねじめ正一(岩波新書)

ここでいう「過激」とはどういうことか、詩人である作者の言葉を借りてみると・・・。

・詩の言葉が狭いと感じていて、それを広げたかった
・詩らしい言葉づかいをいったんぶっ壊して、そこから新しい、風通しのいい言葉の世界を作り上げたかった

というねじめ正一さんは、30代の頃、過激詩人といわれていたそうです。「カッコよく言えば、言葉の原初の力を取り戻す」ことをめざしたそうです。

そういう意味の過激です。
もう少し具体的に説明するために、この本の小見出しを拾ってみましょう。
「ギザギザ言葉で原初の力を取り戻す」
「暗黙の了解を打ち壊す」「スリリングに繰り返す」「言葉をぶん投げられる肉体のパワー」「言葉の太刀を振り回しズレを楽しむ」など、過激さの実態をご想像いただけるでしょうか。

小見出しそのものの過激さ加減は、詩人の巧みな修辞によるものであって、語られている内容は、刺激的ではあっても至極まっとうな内容です。「正確な観察から生まれる想像力」という小見出しがあることからも、その方向性はご想像いただけるかと思います。

そして、過激な詩の一例として、皆さんよくご存じの「ねこふんじゃった」(阪田寛夫)が挙げられています。この曲は世界中でさまざまな歌詞がついているらしいのですが、ここに取り上げられた阪田寛夫さんの詩は、

ねこがふんづけられて お空へとんでって かさをさしてふわりふわり雲の上……

そして最後は、「あしたの朝 おりといで」と言いながら、子ども達は「ねこグッバイバイ」とおうちに帰ってしまう、という何とも奇想天外な展開になっています。

長々と拙い説明をしてしまいましたが、ここでの過激がどういうことを指しているか、少しはご理解いただけたでしょうか。
きれいに整えられたものではない、ちゃんと理屈が通っているものではない、常識的なものではない、誰にも好まれるものではない、当たり障りのないものではない、などなど…。私は「過激」をそんなイメージで捉えました。

「きれいに整えられたもの」や「ちゃんと理屈が通っているもの」、そして「常識的なもの」や「誰からも好まれるもの」や「当たり障りのないもの」などなど、そうしたものにつきまとうカラをいったん破って、自分の正確な言葉の表現を試みてみよう、と呼びかけているように思えます。

さて、最初の2行に戻ります。
「虫や動物や得体の知れない生き物を借りてしか過激になれない時代というものに、私はいささか空恐ろしさを感じています」

大学で学生さん達の相談を受けていると、「ぶち壊していいんだよ。やってごらんよ」と心の中で思わず叫びたくなるときがあります。相談に来た彼らが、過激になれない時代の息苦しさを一身に背負っている、そんな気がしてしまうのです。
学生さん達の背負っている息苦しさは、私たち自身にも重なってくるものがあります。

虫や動物や得体の知れない生き物のように過激になれる人間、そんな人間が愛され、許容される社会をふと熱望してしまいます。

「すみません」と「ありがとう」

つい最近、あるブログのコメント欄で次のような言葉に出会いました。

「ほめられたとき『いえいえ』などと言わずに、素直にありがとうというのが関西では当たり前だった…」と書かれていました。

「ほお~、なるほどね!」と、ことさら興味をひかれて読んでしまったのには理由があります。

5月のアサーション・トレーニングでは、<ワンポイント・レッスン>で「すみません」と「ありがとう」という言葉を取り上げました。

日頃、お礼や感謝を伝えるときに「すみません」と言う場合がありますが、「すみません」と「ありがとう」ではどんなふうに違うのかを、実際にロールプレイで体験して検討してみたわけです。

そうすると、「ありがとう」と言ったときのほうが、相手に嬉しい気持ちが伝わりやすいし、相手からもすっきりと受け入れられるとわかり、「そんなふうに素直に言えたらいいですねえ」と、参加者の方とも話したばかりだったからです。

なるほど、関西では「ありがとう」が当たり前だったのか………。「軽いカルチャーショック」と言っては大げさですが、私の経験からも、確かにそう言われてみれば思い当たる節もあれこれ見つかります。

コメントの主は東海地方在住の方だそうですから、関西と東海でもこうした違いがあるということは、関西と関東ではもっと違いがあるということなのかもしれないなあと、妙に納得してしまいました。

全国津々浦々、(少なくとも標準語の場合は)同じ日本語を同じように使っていると思ってしまいがちですが、実は地域によって、言葉の使い方やニュアンスに微妙な違いがいろいろあるのかもしれませんね。

それにしても、ちょっとしたひとことでさえ、人により、地域により、受け止め方や表現の仕方もさまざまなんですねえ。そう思うと、複雑で面倒だけど、言葉ってホント面白いです。

「聴くことって大事」を痛感

セカンドオピニオンを求めて、歯医者さんに行ったときのこと。

きれいな個室の診察室、最新の設備、治療を待つ間、椅子から見える位置の液晶画面には映画まで流れている。ややあって先生が登場。

口の中を見て、幾つかの質問をされ、やりとりした後、こちらが気になっていることを話した。すると、先生が眉間にシワを寄せて言われた。

「おっしゃっている意味がわからないんですけど…。」もっと上手く説明してよ、困っちゃうなあ、という感じ(に思えたし)。で、言葉は感情を抑えている分、表情に不快感が現れている(と思えた)。

私も困ったなあと、言葉を換えて再度症状を説明してみる。
が、先生はさらに首をかしげて、
「え?どういうことを言われてるんでしょうか?」(ガーン!まったく受け付けられず、はね返される感じ。)

私はさらに困って、それでは具体例をと、再度表現を変えて説明してみると、

先生「当然そう言うことはあります。でも問題じゃありません」と言下に否定された。
私「○○・・・で、□なんですが・・・。」と、再度症状を訴えるが、
先生「問題ないです。」
私、「△△・・・    」なおも何とかわかってもらおうと、がんばって説明する。
先生「それは別に問題じゃないです。何か気になりますか?」(気になるからこうして説明しているのに~)
そんなやりとりを何回か繰り返すうち、私は次第に言い換える言葉が見つからなくなり、虚しい気持になってくる。

そして、ついに、
「そうですか、(これ以上話しても無理ということが)わかりました。」と私。私からやっと「わかりました」という言葉が出て安心したように、ではこれで、みたいな感じで先生は出て行かれた。

先生が出て行った後(よくわからないが、ここでは先生が治療の部屋を廻るらしい)、アシスタントの女性が笑顔で言った。「何かほかに気になることはありませんか?」

。。。

はあ、。。。もう。。。。いいです。

歯医者を後にしつつ、カウンセリングの場面でクライアントの方からときどき耳にする言葉を思い出した。

「家族がわかってくれない、聴いてくれない。こっちが話し出すと、それは○○が問題だ、だからああだこうだと説明したり、説得しようとする。だから苦しい。聴いてほしいのに」と。

ご家族は早く元気になってほしいと思うあまり、解決策をあれこれ出されるのだろう。でもその前に辛さをわかってほしいのだ。聴いてほしいのだ。、

歯医者の帰り、この言葉を実感として思った。問題解決の前にまず聴いてほしいということ。それができると問題の半分くらいは解決できることさえある。

これはこの歯医者さんに限らず、私たちが他人に対して、日常何気なくやってしまっていることのように思う。

ふだんの親子の会話から、訴訟や裁判になる社会的な問題まで、最初の段階でこの「聴く」姿勢のあるかないかによって、その後の状況が大きく変わってしまう。

私もカウンセリングの場面ではいっそう肝に銘じなければと、「聴く」ことの大事さを改めて気づかされたできごとでした。(そうそう、家族に対してもね ←これが、むずかし~ ^ ^;)