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温かいお別れの会

20161120年齢のせいでしょうか、このところ、葬儀やお別れの会に出席することが続きました。

そうした会場では、喪主や主催の親族の挨拶があり、故人と縁のある人が思い出のエピソードや短いメッセージを語ります。出席者はそれらを聞きながら、故人をしのんだり、久しぶりに顔を合わせた親族と近況を伝え合ったりすることで、普段とはちょっと違った流れのひとときを過ごすことになります。

懐かしい面々と久しぶりに顔を合わせ、同窓会のように話が弾んだり、そんなときでもないと会うこともない遠い親戚と初めて言葉を交わしたり・・・。悲しみの席ではあるけれど、どこか穏やかで優しい空気に包まれていることが多いです(もちろん病死や事件や事故など、亡くなられた原因によってはまったく違うでしょうから、あくまで私の経験した中でということですが)。

そこでは、死という普遍的なものにまつわる話題だけに、深い洞察につながる思いが想起してハッとさせられることもあります。

先日、出席したお別れの会でのこと。
喪主は人前での挨拶が苦手な人でした。ゆっくりと落ち着いた口調で始まり、しばらくは順調だったのですが、次第に言葉に詰まる場面が増えてきます。沈黙があり、また思い出しつつ先へ進む。また少し話しては、言葉が止まって5秒10秒と時間が流れる。ついに、ポケットからメモを取り出して確認し、また一言一言ゆっくりとスピーチを始める。という具合で、聞いているこちらがハラハラ、ドキドキしてしまい、「もう読んでくれていいから~」とすら思ってしまいました。

それでも、途中ではしょったりすることもなく、用意されていた言葉を最後まで言い終えて、何とか無事に挨拶が終わりました。終わったときは、こちらもホッとしました。

会が終わって、「まったく冷や冷やしたよね~。もう原稿読んじゃえば良かったのに~」と、身内の気安さもあって数人で笑い合ったのですが、みんな同じことを思っていたみたいです。こうして、ちょっとした笑えるエピソードで終わるはずの出来事でした。

ところがそれから数日して、そのスピーチを思い出したとき、私の中に別の見方がふっと湧いてきたのです。

あの日、喪主が、用意してきた原稿の内容を全部話さなかったとしても何の問題もなかったでしょうし、途中でキリの良いところで終わってもよかったはず。そうすれば、本人も聞く側も安堵の胸をなで下ろすことができたでしょう。でも、それをせずに最後までとつとつと、故人の生い立ちや略歴を律儀に紹介したのは、喪主としての、故人と会葬者に対する誠実さの表れにほかならなかったのではないか、と思い至ったのです。

スピーチする本人もきっと冷や汗をかきながら、ドキドキしながらのスピーチだったことでしょう。聞き手もハラハラさせられて、うまいスピーチとはお世辞にも言えません。しかしそれでも、そのときにできる精一杯の誠実さで、会を準備し挨拶をしたことが、故人への何よりのはなむけになったのだと思います。

そのことに気づいたとき、うまいスピーチって何だろう?要領良くって何だろう?(生い立ちや履歴は細かく話さなくてもすんだし、忘れたら途中からメモを読んでしまえばよかったのに・・・。)要領の良さ、うまいスピーチ、それらとは対極に位置するこのスピーチ。周りが抱く危惧や評価とは、まったく別次元のところにあるスピーチ。

ただひたすら、丁寧に誠実に弔いをするという思いだけがあり、それを実行に移す。人により思いを表す方法はさまざまで、それがどのように人の目に映るかも考え方によってかわるものだということを改めて知らされたできごとでした。こうしてこのお別れの会は、私にとって故人を送るとても良い会となり、かつほのぼのと温かい思い出となりました。

 

 

 

こんなふうに書けたら・・・。

もうすぐ2月。

寒さの中にも、日だまりの空気には

春の気配がほんのすこ~し

混じっているのが感じられるこの頃です。

もちろん、風はまだまだ冷たいんですけれどね。

☆   ☆   ☆

さて、ちょっとさかのぼって年賀状の話題です。

これ、たぶん、今でなくては書けない一生に一度の年賀状だな、と。

見てると、心もからだも、ホワ~ンとゆるんでくる・・・。

誰にもこんなときがあったんですよね。

特に、「れ」と「と」が最高!!! \(^^)/

 

「人に何かを伝えたい原点はこれなんだ!」って思い出させてくれました。

間違えたってちゃんと気持ちは伝わるんだよ。

そのときの自分の最高の一生懸命で書いたらいいんだよってね。

 

 

 

歌で涙が・・・

先日、「フタバから遠く離れて」という映画を見ました。東日本大震災で被災した福島県双葉町が埼玉県加須市に避難してからの日々を追ったドキュメンタリーです。その中の一場面に、自衛隊の音楽隊が慰問に訪れて演奏する様子が映されていました。

楽隊をバックに隊員の男性がマイクを持って歌います。曲は「寅さん」だったでしょうか(たぶん)?ついで、福島県か双葉町の歌でしょうか?曲調と歌詞から判断して(たぶん)。これら歌の場面はほんの数十秒だったのですが、耳にしたとたんに、なぜか涙がこぼれてしまったのです。

私は特に寅さんのファンでもありません。特別に双葉町に対して深い思い入れがあるわけでもありません。確かに埼玉県に避難してこられた唯一の自治体という意味では、当初より関心は持っていましたが、しかしだからといってことさら双葉町に、まして町の歌に関心があったわけでもありません。にもかかわらず、曲を聴いたとたんに、なぜかわかりませんが、涙がこぼれてしまったのです。自分でもビックリしました。なぜここで?!

何の涙なのか自分でもわかりません。おそらく、そうした言葉にできない気持ちを涙が代弁してくれたのでしょう。

直接被災したわけではない私であっても、震災以来の被災地での過酷な体験談を聞いたり、今に続く原発や放射能にまつわる情報や今後の対応などを考える中で、知らぬ間にため込んでいた緊張もあったと思います。そうした諸々の思いが含まれていたような気がします。そうしたすべてが、音楽によって一気にあふれ出てきた、そんな感じだった気がします。

音楽の持つ力というものに改めて感心しました。言葉にできない思いを表してくれる手段だということがまさに実感できました。

そして思いました。

歌える人、いいですね!
楽器の演奏できる人、素敵ですね!
どうかたくさんたくさん、私たちの周りに音楽をあふれさせてください。
機会があれば歌ってください。
演奏してください。
音楽を聴いて、氷が溶けるように気持ちが外にこぼれたら、私たちはお互いにもっとゆったり生きられるような気がします。

ヨーロッパの街角のように、もっと音楽が身近にあったらいいなあというのは、私の昔からの願望なんです。