新聞にこんな記事が載っていました。今回の震災被害で復興の遅れているある地域の避難所で、記者が一泊を過ごした体験記事です。
場所は岩手県大槌町、人口一万五千人のうち今も五千人以上が避難生活を強いられています。小学校の避難所での状況は過酷です。6月に入っても冷え込むので、夜は7時ともなると布団に。眠れない人達が校庭の隅で焚き火を囲んで話し込むのだそうです。
記事にはドラム缶を切った中に赤々と炎が上がり、焚き火を囲んだ男性達が缶ビールを手に談笑している写真が。奥のテントにも数人の男女の姿が見えます。一見すると、楽しい集いの一場面のようにも見えるその語らいの中身は、悲痛な思いの吐露で、3ヶ月近い避難所生活の苦労がしのばれます。
朝は4時になると起き始め、6時には皆布団を片付け終わっているそうです。これを聞くだけても私などとても耐えられないだろうと思います。でも、そこで耐えられなければ生き延びられないのですから、これは辛いです。
「自分はいびきをかくから端っこで寝てる」という男性、奥さんを亡くした男性は、教室に行くと辛いからと、焚き火を囲む。
ウニ漁ができない男性は「今頃はウニ捕ってる時期だなあ」としんみり。
そこに10代のミクちゃんがやってきて、「仮設のトイレが真っ暗で恐い」。それで場が和んで、みんなに笑顔が広がる。ミクちゃんのおかげでみんなの気が紛れるんだそうです。こういうとき、若い人の明るい存在は貴重ですね。
「俺の部屋では受験生が勉強してる。ピリピリしてっから、戻れねえ」と語る人。ジャージー姿の男の子がうつむいて隅に座っている。「学校でいじめられてんだ」と一人がつぶやく。
「こんな思いすんなら、俺は次はもう、助かりてえとは思わねえ」という言葉に、数人が頷く。「皆、今疲れがピークじゃねえかな、もう3ヶ月だもんね」「大槌は町長が死んで復興計画も立っていない。・・・皆、先が見えなくて不安なんだ」午前0時を廻ったころ、焚き火を囲んだ人達もそろそろ引き上げ始める。
こんな風に記事は続き、次の一言で結ばれています。避難所を出るときに、記者が皆に言われた言葉。
「ここを忘れないで」
。。。。。。。。。
避難所の様子など被災地の現状が、だんだんとマスコミに取り上げられることが少なくなってきていますが、決して過酷な状況が改善されてきたわけではありません。3月11日の衝撃を受けて私たち一人ひとりが感じたこと考えたことを思い続けること、忘れないでいることが、まず被災地以外の私たちにできる最初のことではないかと気づかされました。
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「眠れぬ夜 たき火囲む」2011年6月6日(月)東京新聞夕刊、加藤美喜記者の記事を基に書きました。
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ある朝、小鳥の声で目覚めました。チュンチュンではなく、ホーホケキョの鳴き声で。
目覚めて気づいたのですが、とてもクッキリはっきり聞こえる鳴き声なのです。ウグイスって、こんなにはっきり大きな声で鳴くものだったかしら・・・。
(話は横道にそれますが、ウグイスの声を「ホーホケキョ」と聞き取った人もすごいですね。あの声を文字に起こせと言われて、「ホーホケキョ」と聞き取れません。そう言われてみるとそういうふうに聞こえてきますが、自分がホーホケキョと聞き取れるかというと自信がありません。かといって、じゃあ何と聞こえるかと訊かれれば答えられません。最初にウグイスの声に「ホーホケキョ」と当てはめた人はすごい!と、感心します)
さて、それはそうと、この朝のウグイスの声は、とにかく大きい。声量たっぷりなのです。人間で言えば、オペラ歌手並み。パヴァロッティかカレーラスかといったところです。ベランダの目の前の栗の木あたりに止まって鳴いているらしく、ひとしきり鳴いてはしばらく休むを繰り返しながら、長いこと鳴き続けています。
そのうち、近所の人が二人ばかり出てきて、ウグイスの声のする方を見上げて何か会話しているようでした。私だけではなかったのですね。この声量たっぷりの鳴き声が気に掛かっていたのは・・・。
その時、ふとバカなことを思いめぐらしてしまいました。
もしかして、あの木を見上げている人達は、逃げた九官鳥を探しているのではないだろうか?ウグイスと思ったのは、ウグイスの鳴き声を覚えた九官鳥だったということはないだろうか?その九官鳥が逃げ出して鳴いているのを、飼い主が聞きつけて探しに来たのではないだろうか?などと勝手な想像を逞しくしてしまったのでした。九官鳥がウグイスの鳴き声を真似るかどうかわかりませんけれど・・・。それくらいボリュームたっぷりの鳴き声でした。
そして、しばらくして・・・。
気づくと、いつの間にかウグイスの鳴き声は聞こえなくなっていました。2時間以上も鳴いていたことになります。
そして、あの朝以来、ウグイスの声は聞いていません。
あの日たまたま、たった一回だけ、栗の木に止まって鳴いていたのか。それとも、今までにも何度も来ていたのに私が聞き逃していただけなのか。小鳥の声はウグイス以外にもいろいろ聞こえるのに、今でも印象に残るのは、あの豊かな声量の、「ホーホケキョ、ケキョ」です。
単なるとりとめもないオシャベリ、ホント、失礼しました!
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連休も終盤ですね。朝の電車内も、ハイキング姿の初老のご夫婦や若いファミリー、リュックにスニーカーの若者と、いつもの通勤電車とはひと味ちがいます。
皆さんはどのようなお休みを過ごされましたか?
新緑を目にすると、つい心も弾んでどこかへでかけたくなる、そんな5月という季節。この時季にゴールデンウイークがあるのは、まさにピッタリですね。でも、今年の連休はいつものように弾んだ気持ちにはなかなかなれませんが・・・。
私のお休みはと言えば、連休中は大学の授業があり、それに伴って学生相談室も開けるので、実質お休みはありませんでした。計画停電があった場合に備えて、授業時間を確保するため、連休は返上になったのです。
先生方も学生たちも、5月に連休があると少しホッとできるようですが、今年はそれがなく、新年度スタートの緊張感を保ったまま一気に夏休みまで授業が続きます。個人的には、この辺でちょっとお休みがあったほうがうれしいですね。
もっとも私は月水金の担当なので、連休には一日だけ出ればよかったのですが、それでも飛び飛びにお休みがあったのでは、気分的には休めないので、連休はなきに等しい状態です(29日はセレニティの瞑想会が3ヶ月前から予定されていたので、こちらは大学から休みをもらいました)。
そんなこんなで終わっていく連休です。例年だと、連休中にカーペットやカーテンを夏バージョンに変えるのですが、そんな季節への対応も今年は鈍りがち。窓をサーッと開け放って空気を入れ換えよう、という気分にもなれませんし・・・。改めて、安心して深呼吸できることがどれだけ素晴らしいことかと思います。
木々や花々はいつものように芽吹き、若葉をつけ、色とりどりに花を咲かせています。人間も同じなのでしょうね。「ただひたすら、やるべきことをやればいいんだよ」と言われているようです。
明日は、ハナミズキやツツジの生け垣を楽しみながら、大学に行ってくることにします。
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静かなたたずまいの住宅地。屋根の上には1羽のコウノトリが留まっている。コウノトリがゆっくりと屋根から屋根へ移る様子を写しながらカメラが引くと、道路を挟んで団地のビル群が整然と並んでいる。しかし人の気配は一切ない。無人の街である。
これは25年前、チェルノブイリ原発事故の後、ニュースで見た映像です。チェルノブイリ原発から数キロのプリピアチ市を映したものでした。コウノトリは何も知らずに高い放射線にさらされているのだなあと、人間の罪深さを思った記憶があります。
あの頃もチェルノブイリ以前と以後では、世界は一変してしまったと言われました。同じことが今「フクシマ」についても言われています。チェルノブイリ事故後も、反原発運動は一時期盛り上がったものの、やがて原子力推進の趨勢に飲み込まれてしまいました。今回、「フクシマ」以後は、原発も含めて私たちの生き方そのものが問われていることを、すべての人が意識せざるを得ないところまで来てしまったという気がします。
カウンセリングを通しても、言葉にならない不安や戸惑い、生き方を含めての自分自身への問いなど、さまざまな形で、今回の震災が心理的にも少なからぬ影響をもたらしていることを強く感じさせられています。
人類がかつて経験したことのない状況を生きているのが今の私たちであり、日本人はその最前線に立たされている。別の表現をすれば、課題に真向かいにならざるをえない位置にいるともいえます。
「フクシマ以後」をどう生きるか?
それ以前とも切り離すことはできないけれど、まったく白紙といってもよいほどの新たな意識の領域で、暮らし方や生き方を選んでいく必要が出てきているのかもしれません。新しい生き方を選択する勇気と、実践のための知恵を集める行動力とを、私たち一人ひとりが試されているともいえます。
そしてそのベースは、私たち個人が、自分の頭で考え、かといって理性だけでなく感情をもちゃんと受けとめ、その上で意思を表していく、そうした個人一人ひとりの生き方にあるのだと思います。
大学の相談室でも、さまざまな悩みを持った学生さんが相談に来ますが、どんなに落ち込んでいる人でもどこかしらに前向きな光を感じさせる瞬間があります。そんな光に触れて、それを開花させられたとしたら、そのエネルギーはその個人の生活を変えるばかりでなく、そうした人達が増えていけばいくだけ、思いもよらない大きな力につながるはずです。
すべては一人ひとりから始まることを思うと、悩みを解決してそれぞれが自分を大事にしていくお手伝いができるとすれば、カウンセリングも私なりの「フクシマ」以後への答えと言えそうです。「道は遠し」ですが、「急がば回れ」という諺もありますし、ね。
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新緑はどうしてこんなにみずみずしいのでしょう。目にしみるという表現がぴったりです。一年を通して、浅い緑色のこの色合いは、今この時季にしかない色彩と、光の反射の微妙なハーモニーがあって初めて可能になるのでしょうね。一年の中でも、生命の萌え出るこの時季にだけ与えられた恵みとでもいうのでしょうか・・・。
季節の変化がもたらしてくれる希望が、ことのほかありがたく思えるこのごろです。最近、あちこちで同じようなことばかり書いている気がしますが、いくら書いても出てくる言葉は同じような言葉ばかりです。3月11日の衝撃は大きかったです。その後の原子力発電所の事故も、生命のことや自然と人間のことなどを考えずにはいられない出来事でした。
生きていることそれだけで、ありがたいことだなあと思います。あたりまえと思っていることが、実はあたりまえなんかじゃないということに気づいてきます。
以前、瞑想会の折に、「生きていることはそれだけで奇跡なんですよ」ということを聞きましたが、まさに今、そのことを実感しています。
「生きている」というより、「生かされている」・・・かもしれませんね。自分が生きているのはたまたまそのチャンスを与えられているからに過ぎなくて、だから一瞬一瞬をもっと大事に生きなくてはいけないとも思います。
とはいっても、人間てすぐ忘れるし、怠け者だからサボるし・・・。気がつくといつものだらだらとした日常になっていたりします。この「人間」って、そう、まさに私のことです。
それでも、気づいたら、そのたびにたて直ししながら、自分という存在が「奇跡」の存在であるということを、できるだけ忘れないでいたいと思います。
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