セレニティカウンセリングルーム

関連するコトバ 『 学校 』

「噴きこぼれ」の子ども達?

先日、東京の公立小学校で、塾と連携して夜間の特別講習が行われたそうです。

民間の経営手法を学校に応用すべく抜擢されたその校長先生は、「噴きこぼれ」をつくらないための新しい取り組みだと言われます。

その夜間スペシャル塾についての是非はこの際置いておきますが、この校長先生の言う「噴きこぼれ」という表現が気になりました。

その校長先生によれば、いわゆる成績上位の子ども達、もっと成績を上げたいのに、学校が教えないために学力を伸ばせない子ども達を「噴きこぼれ」と呼んでいるのだそうです。

従来から落ちこぼれという言い方がありました。私は、この表現も好きではありません。

「落ちこぼれ」と「噴きこぼれ」、どちらも人を人と思っていない発想から出ているように感じられてしまうからです。学校という「器(鍋)」がまずあって、そこに納まるか納まらないか(基準に合うか合わないか)という発想だけで子ども達を分類しているように感じるのです。仮に、本気で子どもたち一人ひとりに向き合うつもりがあったなら、「鍋」という発想は出てこないだろうなあと。

とは言っても、現実問題としてすべての子どもたちに個別指導するなんて無理ですし、一斉授業で教えるのはしかたありません。でも、だからこそ、学校はどんなにがんばっても個々のニーズには応じきれない部分もあるし、子ども達を集団の一員に過ぎないと見てしまうことのないように最低限意識しておくことが必要になってくるのではないでしょうか。

それに何より、先生に「落ちこぼれ」「噴きこぼれ」と呼ばれたら、子どもとしてはとても悲しい気持ちになりますよね。面と向かって自分に言われるのではないとしても、自分たち生徒が先生にそう言う目で見られていると思うことは、淋しい気持ちにすると思います。

おソバをゆでていると、ふわーっと泡が盛り上がって鍋の縁からお湯が溢れそうになる。ギリギリでお水を一杯投入、が一瞬間に合わなくて、少しだけお湯が噴きこぼれた。・・・・・子ども達は「噴きこぼれ」なんかじゃない!

分かち合い

すっかり更新が滞ってしまい、失礼しました。

書きかけのエントリーが幾つかあったのですが、時間が経つとなぜかそれを手直ししてアップしようという気にはならなくなっています。また新たな気分で書きたいと思ってしまうので…。

と言うわけで、書きためておいてそれを順番にアップさせるというわけにもいかず、書きたいときに書くという気まぐれスタイルなので、更新の間が開くことになったりしますが、どうかご容赦くださいませ。

そして、あきらめずに(^^;ときどき覗いてみてくださいね。

。。。。。

先日の手塩研で、参加された先生のお一人が「『分かち合い』を授業で使っています」と言ってくださり、とても嬉しく思いました。

セレニティのセミナーでは「分かち合い」という方法で自分の思いや気持を語ることがあります。セミナーの始まりと終わりに「分かち合い」を入れると、場が共感的になって、一人ひとりが穏やかなエネルギーになることができます。

教室で先生が子ども達一人ひとりの声にゆっくり耳を傾けることができない場合でも、グループの友達同士で「分かち合い」をやると、クラスを良い雰囲気で授業に持って行くことができるのだそうです。

「分かち合い」をやると、一人ひとりの気持ちがみんなに受けとめられて、ありのままの自分でいて良いのだと安心でき、個人個人が大事にされるからなのだろうと思います。

分かち合いでやることといえば、ただ自分のことを「私メッセージ(わたしは・・・です)」で語る、それだけです。聴く方は、途中でも終わってからでも口を挟まない、ただ聴くだけです。一人ひとり順番に語っていき、他の人はただ聴くだけです。

「なあんだ、そんなことか」と思われるかもしれませんが、<聴く効果><語る効果>は絶大ですよ。

殊に、「ただ聴く」という行為がこれほど意味のあることなのか!

と驚きます。

同時に、こんなに難しいものなのか!とも。

なぜかというと、ついひとこと質問や感想を言いたくなってしまうのが私たちの日常会話ですから…。黙って聞くのはとても難しいのです。

口を挟まずに、最後まで聞いてもらえる。…とにかく、この体験は貴重です。

コミュニケーションの基本なのだろうなあと、今ではつくづく思います。←このことに、母親になりたての頃に気づいていれば、もっとよく子どもの話が聴けたのに、とも。←深く反省 (- -)

ということで、この教訓(?)を、おばあちゃん世代として次の世代に生かせたらなあと、若いパパママと赤ちゃんを目にするたび、思っているこの頃です。

学校における子どもの人権

今日は、以前に学校の先生から頂いたお便りを抜粋してご紹介します。今読み返しても、あるいは今だからこそいろいろ気づかされることも多いように思います。

実は数年前に私は、アンケートのような形で何人かの先生にご意見を伺ったことがあります。今思えば、一言では答えにくいこんな質問をよくもお送りしたものだと我ながら恐縮してしまうのですが、その時頂いたお返事の一部です。

(「子どもの人権」をもっと教育に取り込むことはできないかと伺ったところ・・・。以下、お返事のメールから抜粋)
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かつての同和教育から一歩進めて「人権教育」をしようという流れが現勤務校にもあるのですが、果たして教師がどの程度人権について理解しているか疑問です。

今の学校では「子どもの権利条約」は学校教育とは相容れないものだと豪語している輩もいますし、先日地元に「子どもの権利を守るネット」みたいのが生まれた際も、「退学者も人権侵害を訴えてそういう相談機関に相談に行く可能性があるから学校は気をつけないといけない」とか言ったりして(ちなみに彼は生徒指導主任です)まったく???です。生徒の方がよっぽど健康な人権感覚をもっています!

日々いろんな先生たちとの感覚のずれを感じ孤立感を感じていますが、アメリカ人のAET(英語指導助手)だけは私の疑問とか不満を理解してくれて助かっています。

それに、生徒たちが何より私を支援してくれるのがありがたいです。授業の方も、まだまだだけれど、「勉強が楽しくなった」と休み中に勉強するからと放課後プリントをもらいに来る生徒もいたりしてほんとにありがたいです。まだまだ道は長いけれど、自分を信じてやっていくしかありません。

なんだかまとまりませんが、今日はこのへんで。
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(お返事ここまで)

子ども達に寄り添い、教育の本質に沿って日々励んでいらっしゃるこうした先生達がおられればこそ、毎日の学校は廻っていくのだとつくづく思います。