セレニティカウンセリングルーム

関連するコトバ 『 個性 』

銀杏の葉もいろいろ、子どもの成長も…

今年は秋がゆっくりゆっくりやってきているような気がします。それでも銀杏の葉っぱが数日見ないうちに、緑から黄緑に、そして黄色へと変化していました。

並木道にズラッと並んだ銀杏の木は、まだ緑色が濃いものあり、すっかり黄色に変わってしまったものあり、場所によっても違えば、一本の木の中でも緑と黄色が混じっているものもあり、とさまざまです。

ちょっとした陽の当たり具合や、風通しなど環境や状況によって、木もさまざまなんだなあと思いながら、並木道を歩きました。

大村はまさんの本でだったか、「何頭もの馬をいっせいに走らせたら、同時にゴールするなどと言うことはありえない。子どもも同じことです」(私なりの要約です)という言葉があります。

はまさんは、「だから、一人ひとりの成長を大事にした教育を」と言われます。銀杏の木を見ていて、ふとそれを思い出しました。

何頭もの馬が脇目もふらず、同時にゴールしたら気味が悪いです。人間はともすると教育によってそれに近いことをやろうとしているのかもしれませんね。

人間だって生きものの一種と考えれば、もともとバラバラの方向へ走り出して当たり前だし、進むスピードもそれぞれだと納得できます。「早く早く」「みんなと同じに」とせきたてなくてもすむということです。

銀杏の葉っぱの、ひとひら、ひとひらにも、それぞれの葉っぱの一生があるんですね。
そうそう、葉っぱのフレディを思い出しました。

フレディは、静かに豊かに幕を閉じます。

「葉っぱのフレディ」

「噴きこぼれ」の子ども達?

先日、東京の公立小学校で、塾と連携して夜間の特別講習が行われたそうです。

民間の経営手法を学校に応用すべく抜擢されたその校長先生は、「噴きこぼれ」をつくらないための新しい取り組みだと言われます。

その夜間スペシャル塾についての是非はこの際置いておきますが、この校長先生の言う「噴きこぼれ」という表現が気になりました。

その校長先生によれば、いわゆる成績上位の子ども達、もっと成績を上げたいのに、学校が教えないために学力を伸ばせない子ども達を「噴きこぼれ」と呼んでいるのだそうです。

従来から落ちこぼれという言い方がありました。私は、この表現も好きではありません。

「落ちこぼれ」と「噴きこぼれ」、どちらも人を人と思っていない発想から出ているように感じられてしまうからです。学校という「器(鍋)」がまずあって、そこに納まるか納まらないか(基準に合うか合わないか)という発想だけで子ども達を分類しているように感じるのです。仮に、本気で子どもたち一人ひとりに向き合うつもりがあったなら、「鍋」という発想は出てこないだろうなあと。

とは言っても、現実問題としてすべての子どもたちに個別指導するなんて無理ですし、一斉授業で教えるのはしかたありません。でも、だからこそ、学校はどんなにがんばっても個々のニーズには応じきれない部分もあるし、子ども達を集団の一員に過ぎないと見てしまうことのないように最低限意識しておくことが必要になってくるのではないでしょうか。

それに何より、先生に「落ちこぼれ」「噴きこぼれ」と呼ばれたら、子どもとしてはとても悲しい気持ちになりますよね。面と向かって自分に言われるのではないとしても、自分たち生徒が先生にそう言う目で見られていると思うことは、淋しい気持ちにすると思います。

おソバをゆでていると、ふわーっと泡が盛り上がって鍋の縁からお湯が溢れそうになる。ギリギリでお水を一杯投入、が一瞬間に合わなくて、少しだけお湯が噴きこぼれた。・・・・・子ども達は「噴きこぼれ」なんかじゃない!

心の悩みにバンソウコウ

私は週に二回、大学の学生相談室で相談員をお引き受けしています。

最近つくづく思うことは、学生達は大なり小なり、大学に来るまでに、人間関係やら社会の軋轢やらでずいぶん傷ついて来ているんだなあということです。

自分に自信がなかったり、対人関係にとまどっている学生達も多いです。優しくて真面目な人が多いのです。そして誰もが、当たり前のことですが、自分の人生をどう歩んでいこうかと真剣に悩んでいます。「いまどきの若者は…」とマイナスイメージで一括りにされてしまいがちですが、ちゃんと話を聴いてみると、それぞれにそうならざるを得ない理由があるのも確かです。

一見、何ごともなく、気楽に学生生活を送っているように見える学生達が、話を聴いてみると実は深刻な悩みを抱えていたりします。それらは主にコミュニケーションの問題なので、表れ方はさまざまですが、形を変えて大なり小なり、多くの学生達に共通する課題となっているのだろうなあと想像します。

よく事件があると「普通の中学生がキレた」みたいな言い方がされますが、おとなが「普通」だと思って見過ごしている一人ひとりの中に、深刻な悩みが潜んでいるのが現実でしょう。第一「普通」って何でしょうか?「普通」という言葉でくくってしまうと見えなくなる一人ひとり。そこにこそ、おとなが目を向けなくてはいけない部分ではないでしょうか。そのことを子どもや若者達が身体を張って訴えているのかもしれません。

それらの問題は10代後半から20代といった、子ども時代の総仕上げともいえる時期に噴出してきます。大学はちょうどその時期に当たりますし、。そして大学の場合なら、それは社会に出る前の最後のチャンスかもしれません。そう考えると、学生相談室の責任は重大で、その責任の重さに、一瞬たじろいでしまうほどです。

が、そうも言っていられません。たとえ学生相談でのカウンセリングが、手術に対するバンソウコウや包帯くらいの役目しかなかったとしても、包帯を巻きに行かないわけにはいきません。たとえ一時の包帯でも、それがあることで苦境から脱出できる学生達がいるのならね。

だって若い人たちの生命力はすごいのです。ひとたび気づくとグングン元気になっていきますから…。こちらも励まされます。

君の人生、好きなように生きていいんだよ。やりたいことをやってみたら。とオバサンがハッパを掛けると、彼らの目がキラキラとし始めます。本当に純粋なんです、みんな!それが「バンソウコウ」を貼る私の、原動力になっているのも確かなようです。