セレニティカウンセリングルーム

関連するコトバ 『 学校 』

名前を覚えるⅡ…教え子の名前をフルネームで

教育雑誌に紹介されていたエピソードから…。

ある公立小学校での出来事です。

A先生(養護教員)は子ども達の名前をフルネームで覚えることを日頃の目標にしていました。そのため朝会に出席するときも名簿を持って参加し、全学年の顔と名前を一致させるように努力していたのだそうです。

すると、それを知った校長先生が「私もやる」と言って、同じように子ども達の名前を覚え始めたそうです。養護の先生も校長先生も、担任と違って、いつもクラスの子ども達を見ているわけではないので、子どもと接する条件としては同じです。

そうしてしばらくしたところ、次第に校長先生の集会などでの話の内容が変わってきたのだそうです。

子ども達の様子がわかるようになってから、校長先生がとても講話を大事にするようになったのです。子どもの心に響く話に変わっていきました。

そんなとき、A先生はすかさず、「校長先生、今日の話はいい話でしたね。子ども達はこんな反応でしたよ」と声を掛けるようにし、校長先生にも一緒に「管理職として育ってもらう」のだそうです(=校長先生には内緒^^)。ベテランの養護の先生ならではの心強いサポートだなあと感心しました。また、素直に学んだ校長先生もすばらしいと思います。

「私は管理職であって教育者ではない」と公言する校長先生もいる現状を考えると、たとえそうした状況でも、やりようによっては一歩ずつ変えていくことができるのだと、良いお手本を見せてもらったような気がしました。

難しく考えず、できることから始めればいいんだ。まだまだやれることはありそう、そんな気にさせてくれます。

それにしても、人間関係ってちょっとのことで風通しが良くなったり、会話や笑顔が増えたり、居心地がよくなったりするものなんですね。

名前を覚えるⅠ…学生時代の体験から

私事で恐縮です。だいぶ古い話です。

大学時代のあるクラスの担当教官が、さほどの人数でもないのに、毎回出席をとるたびに私の名前を読み間違えるということを繰り返したことがあります。

名字を間違えるか、名前のリョウコをヨシコと読み間違えるかします。当時の名前(旧姓)は大本ではなく、難しい読みの漢字でもなかったのですが、毎回「鈴木」と読み間違えられました。

ときには、名字と一緒に名前も間違われるときがあって、「スズキヨシコ」と呼ばれたときなど、私のことだとは思わずに返事をしなかったところ、危うく欠席にされそうになったときもありました。以後、注意深くなり、「それらしき」名前が呼ばれるたびに、訂正を入れるようになりました。

名前の音読み・訓読みを間違えるくらいは仕方ないとも思いましたが、それだって出席簿にふりがなを付けたり、どこかに注意書きをメモしておくなどすれば、防ぐことのできるミスだったと思います。それもせずに、毎回出欠を取るたびに間違い、私が訂正を申し出るということを繰り返していました。

そのうちウンザリしてきました。

教室に座っているのが「〇野△子」であろうが「△田◇子」であろうが、先生にとってはそんなことはどうでもよくて、「学生なんて、カボチャやジャガイモが並んでいるのと変わりないのかもしれないなあ」と、だんだんとそんな冷めた気持ちにもなっていきました。

そのせいか、私は最初のうちは前列に座っていたのですが、次第に後列に座るようになり、授業に身を入れて聞こうという気持ちが薄れていきました。

先生が教え子の名前をちゃんと覚えるということが、どれくらい大事か、私のこうした体験からも痛感します。

という長い前置きなんですが、先日ある教育雑誌を読んでいたら次のようなエピソードを知って、ご紹介したくなりました。私の経験と正反対の教師の姿勢で、感動しました。長くなったので、明日の日記に回します。

銀杏の葉もいろいろ、子どもの成長も…

今年は秋がゆっくりゆっくりやってきているような気がします。それでも銀杏の葉っぱが数日見ないうちに、緑から黄緑に、そして黄色へと変化していました。

並木道にズラッと並んだ銀杏の木は、まだ緑色が濃いものあり、すっかり黄色に変わってしまったものあり、場所によっても違えば、一本の木の中でも緑と黄色が混じっているものもあり、とさまざまです。

ちょっとした陽の当たり具合や、風通しなど環境や状況によって、木もさまざまなんだなあと思いながら、並木道を歩きました。

大村はまさんの本でだったか、「何頭もの馬をいっせいに走らせたら、同時にゴールするなどと言うことはありえない。子どもも同じことです」(私なりの要約です)という言葉があります。

はまさんは、「だから、一人ひとりの成長を大事にした教育を」と言われます。銀杏の木を見ていて、ふとそれを思い出しました。

何頭もの馬が脇目もふらず、同時にゴールしたら気味が悪いです。人間はともすると教育によってそれに近いことをやろうとしているのかもしれませんね。

人間だって生きものの一種と考えれば、もともとバラバラの方向へ走り出して当たり前だし、進むスピードもそれぞれだと納得できます。「早く早く」「みんなと同じに」とせきたてなくてもすむということです。

銀杏の葉っぱの、ひとひら、ひとひらにも、それぞれの葉っぱの一生があるんですね。
そうそう、葉っぱのフレディを思い出しました。

フレディは、静かに豊かに幕を閉じます。

「葉っぱのフレディ」

お別れ

「旧年中も、ワークショップ開催のご連絡をいただきまして、ありがとうございました。
今年が、よい年でありますように……。」

一通の年賀状が手元にあります。今年の元旦に頂いたものです。伊勢市二見ヶ浦の日の出が赤々と映し出されています。いつも通りのしっかりとした筆跡は、とても厳しい闘病中に書かれたとは思えないほどです。

このときすでに、かなりご病状は悪化していらしたのだと後に知りました。どんな思いでこの年賀状を書かれたかと思うと、胸が詰まります。

……………

昨日留守電が入っていました。Ha先生の訃報でした。
セレニティの開設間もない頃から、ずっと教師研修その他の催しに参加してくださった小学校の先生です。

瞑想会の初期からのメンバーで、2004年の音祭りにも遠方から参加してくださって、手拍子で楽しんでくださいました。茨城での泊まりがけの手塩研セミナーにも参加されました。

そしてここ数年、ご病気と診断されてからも、度重なる手術と治療で体力を消耗されつつも、ひたすら教育者として研鑽の道をと、あれこれ研修会に参加され、「少しゆっくりされては?」との周囲の声ももどかしそうに、再び教壇に立つ日を胸にがんばっておられました。

思い出します。
白浜での宿泊研修の折り、釣り竿とバケツを手にしたHa先生を写真にパチリ!ちょっと得意そうに見えました。その日一番釣れたのはHa先生。「昔とった杵柄ですね」とみんなで笑い合ったときの、先生の照れくさそうな笑顔。私の知っているHa先生の一番楽しそうな笑顔でした。ヤンチャな釣り好き少年が顔を覗かせて…。

Ha先生と私は同い年。なのに、なぜか先生と話すときは「です、ます」調になってしまったのは、先生の律儀で誠実なお人柄のせいだったかもしれません。

今でも、何だか信じられないのです。うっかりすると、また今まで通りに、ワークショップのお知らせをお送りしてしまいそうで…。

今はただ、感謝の言葉があるだけです。長い間、どうもありがとうございました。そして、さようなら、Ha先生。

これからもセレニティはがんばりますよ。先生の、教師として、最後まで教室の子ども達のことを思っていらしたお気持ちを大事にしつつ…。手塩研を見守っていてくださいね。

合掌

学力テストと「自ら学ぶ力」

今年も全国一斉に学力テストが行われました。独自の教育方針によるユニークで効果的な教育が注目を浴びている愛知県犬山市は、昨年に引き続き今年も参加しませんでした。

その犬山市の教育長、瀬見井久さんが先日、東京新聞のインタビューに答えてこんなことを言っています。

「例え話をすると、病気は医者が治したと言っている場合でも、実は自然治癒した場合が多いんですね。教育も似ていて基本は自己教育だろうと思っています。医者も本当の名医は自分はヤブ医者であるという自覚を持っています。教えるという気負いには問題がある。もっと謙虚であっていいと思う。・・・・

一人一人が自主的、自立的に人格の発達を遂げていく。それを私は『自ら学ぶ力』と呼んでいます。
自ら学ぶ力を育むために何が必要か。たどり着いた結論が子ども主体の授業であり、それを可能にするのが少人数学級。学力保障に最も有効な教育環境です。」

国の教育政策については、
「改革は教師を変え、学校を変え、最適な学習環境をつくり上げる草の根的な議論を踏まえなければなりません。」と、現場の声を聞く大切さを訴え、

「戦後新しくできた教育基本法は、戦前の教育が国家目標に沿ったものであったのに対し、教育の目的を子どもの人格の完成に置きました。さらに、国家が教育に手を突っ込むとろくなことにはならないと、戦前の軍国教育の反省から教育の地方分権を徹底させました。戦後六十三年、その精神が風化しています。・・・」と語っています。

地方分権の意義を自覚して、全国一斉の学力テストに応じないのは全国で犬山市だけです。学力テストの効果や意義が十分検証されないまま、多額の費用がつぎ込まれ、現場の先生達はテストのためにいっそう忙しくなっているのが現状です。

最近、都内のある小学校で配られた学校便りを目にする機会がありました。それを見せてくれたお母さんは言います。「子どもばかりか、親も一緒に管理されているようで苦しいです」。改正された教育基本法の主旨に沿って、ということのようですが・・・。

「(子ども達には)クラスや学校、地域の一員としての自覚と規範に裏付けられた言動が求められ」とあり、「けじめと規律」「集団の規範、集団行動」など、「規範」が太字で強調されています。もちろん、集団行動に規律は必要なことですが、規則や規律ばかりが強調されるのはどうかと思います。

「保護者会の出席率〇〇パーセントをめざして…」ともあります。これは職員会議の内部資料をそのままコピーして渡しているのではと思われるような細かい内容がビッシリ書かれていて、これを親御さんに配るのはどうなのだろうと疑問に思ってしまいました。

確かに集団の規範も大切ですが、それにはまず一人一人がちゃんと自分の考えを持ち、自分で判断して行動できることが前提ではないでしょうか。

「自ら学ぶ力」を、まず育てる。そのために、学ぶ環境整備に力を注ぐこと。国も地方行政も、そして校長先生も、それを目標にしてくれれば、現場の先生にとっても子ども達にとっても、一番効率の良い「教育改革」になるはずです。

結局、「誰のための教育か」ということのような気がします。子ども自身のためでない教育はゴメンです。

今日は憲法記念日。
憲法の理念を具体化する教育基本法も変えられてしまいましたが、根本の精神は忘れたくないと思います。と言うことで、今日はちょっと固い内容になってしまいましたが、ご容赦下さい。