セレニティカウンセリングルーム

関連するコトバ 『 瞑想 』

化粧とカップラーメン…香りの誘惑

前回「ビパサナ」という瞑想について書きました。ブッダが考案した呼吸に注目する、とても簡単な瞑想法です。

目を閉じて、吐く息・吸う息に注目すればよいので、どこでもできます。

で、ある時、電車に乗っているときに試みることにしました。その日の車内はほぼ座席が埋まるくらいの混み具合で、混雑していると言うほどでもありません。当然、乗客の話し声もしますし、電車の機械音や外の音も耳に入ってきます。

でも、それらの音は車内全体の音として聞こえてはいても、目をつむって呼吸に注目すれば、そんなに意識の妨げにはならないように思いました。

私は座席に座って、電車の揺れと、適度な騒音に身を任せながら目を閉じました。
そして呼吸に注目します。
呼吸が、ゆっくりと気持ちを落ち着かせるリズムのように感じられ始めたちょうどその時、ツーンと鼻腔を刺激する匂いが漂ってきました。

きつい香水のような匂いです。

目を開けると、隣りに座った若い女性が化粧道具を取り出しています。そして、今まさに目のお化粧に取りかかろうとしているところでした。

この時わかったこと。
騒音は意識から遮断することはできても、匂いは無理だということです。化粧品の強い香りは気持ちを集中しようとしても、何の遠慮もなくこちらの意識を刺激してきます。

匂い・香り、これらは音よりももっとダイレクトに感知されてしまうのだと気づきました。それだけに、うまく使えば効果的だけれど、逆にマイナスに働くと、ある意味暴力的なくらいに相手に不快感を与える場合もあるかもしれないなあと…。

そういえば、帰宅途中の中学生(高校?)男子の一団が、車内でスナックやハンバーガーを食べる場面に出会うこともあるのですが、その時の匂いもけっこう強烈です。この間などカップラーメンです!

電車内がラーメンの匂いで一杯。
育ち盛り、伸び盛りだからお腹のすくのは分かるんですけど…。

こんなふうに、車内が化粧室や食堂になるのはどうなのでしょう?公共の乗り物でのマナーという意味で。

そんな疑問を持ちながら、注意するべきか否かで迷ったり、悩んだりするそんな自分にも歯がゆい。

ヘッドフォンの音漏れなら、指摘して音量を下げてもらうけれど、こういう場合はどうなのだ?アサーション・トレーニングだったらどうなるか?………などなど。
悩みます!

ビパサナどころではなくなってしまったのでした。

ビパサナという瞑想

先週の土曜日は久しぶりの瞑想会でした。ほとんど一年ぶり!これには自分でも驚いてしまいました。しばらく間が空いたという感覚はあったのですが、それにしても一年とは。

でも、時間の流れが速く感じられるのは私だけではないらしく、参加した方が口々に「え?もう一年?」と言われてました。

というわけで、久々の瞑想会でしたが、やっぱり自分にとって、こういう時間は本当に必要だなあと改めて思いました(と言いつつ、一年もブランクが^^;;;)。

私が一番サボっているかも。参加者の中で。
日常的に瞑想の時間をつくっている方は、本当に偉いなあと尊敬します。

でも、でもです。
今回のプログラムで最後に教わった「ビパサナ」という瞑想は私にも続けられるかもしれません。

とにかく、簡単です。

仏陀が考案したといわれるとても簡単な方法で、自分の呼吸に注目します。息を吸うとき、吐くとき、鼻から出て行くその呼吸に注目します。

それだけです。実際にやってみると、息が出ていくとき、入ってくるときに目を向けるだけなのに、ただ「見る」ということを続けることが意外に難しいのに気づきました。

どういうことかというと、すぐに他のことに気を取られたり、考え事をしたりしてしまうのです。10分間の瞑想のうち、どれだけ見ることに意識を向けていられたかというと、信じられないくらいほんのわずかな時間なのには、我ながら驚きました。

私だけかしら?すぐ何か考えているんです。きっとこの調子で、何かを見るたびに、そのもの自身を見るよりも自分の感情を絡めたりして見ているのだろうなと思いました。何と言うこと!

「客観的に見る」と一口に言っても、なんて怪しいことかと思います(少なくとも私に関しては…)。
それに気づけただけでも、ちょっとはいいのかな?

こんなことを考えたからと言っても、難しい顔をして瞑想をしていたわけではないのですよ。こうした気づきはほんの瞬間のことです。書いてみると長くなるのですが…。

おそらく普段だったら忘れてしまうような些細なことに違いありません。それをちゃんと意識できて、覚えていられたところが瞑想会の瞑想会たるところでしょうか。

ということで…、
また来年、春になる前くらいに開催できたらいいなと思っています。

瞑想とは?

瞑想って、なんでしょうね。

今「瞑想を理解する」というテーマで、ご案内の文を作ろうと四苦八苦しています。同時に、いろんなことを考えさせられます。

日頃、自分の内側を見ないで、外の世界ばかり見て生活しているなあと、自分のせわしなさを振り返らされます。また、瞑想会の参加者の方達の中には、ふだんから瞑想を生活に取り入れている方もいらっしゃるというのに、主催者の私がほとんど怠けていてできていません。

それでも、静かに座れば誰でも瞑想はできますし、やっぱり瞑想会をやってよかったと、毎回開催できたことをありがたく思います。

「瞑想とは、何かのためにするのではない。瞑想をすることで何か報酬を得ようとしてはいけない。瞑想はただ瞑想することそのものに意味があるのです」
と、あるお坊さんの講話にありました。

「瞑想を理解する」のがむずかしかったとしても、そうでなかったとしても、気持ちが良くなることはやっぱり理屈抜きでいいものですね。「いいものはいい」で、続けられたらと思います。

久しぶりの瞑想会…自分を「見る」

終わって外に出ると、昼間の暑さが残るものの風はさわやか。夕方5時と言っても今は明るいですね。土曜の夕方だからか、道行く人も何となくのんびりしていて街がゆったり感じられます。

瞑想会の後のこのリフレッシュした自分をいつも感じられたらいいと思うのだけれど、すぐにいつものバタバタとした日常にもどっってしまうのですよね。

とはいえ、ふだん「自分を見る」ことなんてまずないので、とても貴重な時間になっています。

瞑想会では毎回、「自分を見る」ということをします。いろんな方法で。
この場合、「見る」のは、反省したり、評価したりということじゃなくて、ただ「見る」ということ。
良いとか悪いとかじゃなくて「見る」だけ、なんです。

ちょうどお母さんが見ていてくれると子どもは安心して遊んでいられるのに似ています。自分で自分を見てあげることで、安心して自分が自分でいられるということ。

何だかわかんないなあ、雲をつかむような話だ、って思われますか?

う~ん、そうかも…。
もし機会があったら、ぜひ一度体験してみてくださいね。実感をつかんでいただけることと思います。