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関連するコトバ 『 過激 』

「過激」になれない時代

あらあら、気づいたら1月も終わろうとしています。年明けに書き込んだきりで、すっかりご無沙汰してしまいました。今年はちょっとはマメに、なんて思っていたんですが、ちっとも変わりませんね。

先日、ある本を読んでいてとても納得したことがあります。それは次のような一節です。

「虫や動物や得体の知れない生き物を借りてしか過激になれない時代というものに、私はいささか空恐ろしさを感じています。」『ぼくらの言葉塾』ねじめ正一(岩波新書)

ここでいう「過激」とはどういうことか、詩人である作者の言葉を借りてみると・・・。

・詩の言葉が狭いと感じていて、それを広げたかった
・詩らしい言葉づかいをいったんぶっ壊して、そこから新しい、風通しのいい言葉の世界を作り上げたかった

というねじめ正一さんは、30代の頃、過激詩人といわれていたそうです。「カッコよく言えば、言葉の原初の力を取り戻す」ことをめざしたそうです。

そういう意味の過激です。
もう少し具体的に説明するために、この本の小見出しを拾ってみましょう。
「ギザギザ言葉で原初の力を取り戻す」
「暗黙の了解を打ち壊す」「スリリングに繰り返す」「言葉をぶん投げられる肉体のパワー」「言葉の太刀を振り回しズレを楽しむ」など、過激さの実態をご想像いただけるでしょうか。

小見出しそのものの過激さ加減は、詩人の巧みな修辞によるものであって、語られている内容は、刺激的ではあっても至極まっとうな内容です。「正確な観察から生まれる想像力」という小見出しがあることからも、その方向性はご想像いただけるかと思います。

そして、過激な詩の一例として、皆さんよくご存じの「ねこふんじゃった」(阪田寛夫)が挙げられています。この曲は世界中でさまざまな歌詞がついているらしいのですが、ここに取り上げられた阪田寛夫さんの詩は、

ねこがふんづけられて お空へとんでって かさをさしてふわりふわり雲の上……

そして最後は、「あしたの朝 おりといで」と言いながら、子ども達は「ねこグッバイバイ」とおうちに帰ってしまう、という何とも奇想天外な展開になっています。

長々と拙い説明をしてしまいましたが、ここでの過激がどういうことを指しているか、少しはご理解いただけたでしょうか。
きれいに整えられたものではない、ちゃんと理屈が通っているものではない、常識的なものではない、誰にも好まれるものではない、当たり障りのないものではない、などなど…。私は「過激」をそんなイメージで捉えました。

「きれいに整えられたもの」や「ちゃんと理屈が通っているもの」、そして「常識的なもの」や「誰からも好まれるもの」や「当たり障りのないもの」などなど、そうしたものにつきまとうカラをいったん破って、自分の正確な言葉の表現を試みてみよう、と呼びかけているように思えます。

さて、最初の2行に戻ります。
「虫や動物や得体の知れない生き物を借りてしか過激になれない時代というものに、私はいささか空恐ろしさを感じています」

大学で学生さん達の相談を受けていると、「ぶち壊していいんだよ。やってごらんよ」と心の中で思わず叫びたくなるときがあります。相談に来た彼らが、過激になれない時代の息苦しさを一身に背負っている、そんな気がしてしまうのです。
学生さん達の背負っている息苦しさは、私たち自身にも重なってくるものがあります。

虫や動物や得体の知れない生き物のように過激になれる人間、そんな人間が愛され、許容される社会をふと熱望してしまいます。