カテゴリー 『 心理・精神 』
心のノート
「心のノート」は2002年に文部科学省が全国の小中学生に配りました。予算は7億円以上もかかったのですね。
これは一年間の教育予算の80パーセント以上だそうです。
すごい金額ですねえ。もっと他に効果的な使い道はなかったのだろうか、もったいないなあと思ってしまいました。
というのは、読んでみて(全部を読んだわけではありませんが)それほど有意義なノートとは思えないからです。
心のノートは、教科書ではなく、副読本というか、書き込み式のノートです。「人として生きていく上での大いなる『プレゼント』」(『心のノート』の活用にあたって、より)なのだそうです。
プレゼントだとすると、少し押しつけがましいプレゼントというのが私の印象です。
一番違和感を感じたのは、問いかける文章に続けてすぐ、<こう考えるとイイヨ、こう考えよう>といった誘導のような文章が続いて出てくることです。
ふつう、「君たちはどう思いますか?」と訊かれたら、考える時間が与えられます。
でもこのノートでは、間髪を入れずに「○○は△△だよね。だから~なのです。感謝しましょう」みたいな記述が続いています。
だから、言葉遣いは丁寧なのに、何だか自分が軽く扱われているような、妙に威圧されているような、何とも言いようのない感覚が醸し出されてくるのです。
読んでいて、私はこの何とも言えないモヤモヤした気持になっていくのが一番イヤでした。
自由な思考を促す言葉で質問しておきながら、一方では、自由な思考を抑え、ある考えを押しつけている。そんなふうに受け取れてしまいました。赤と青の信号が同時に点灯されたようなもの、とでもいうのでしょうか。
心理学でいうところの二重拘束(ダブルバインド)に似た状況です。ダブルバインドで、よく例に取り上げられるのが「自由にしなさい」という言葉です。自由に振る舞おうとすると、相手の言葉に従うことになってしまい、結局、動きが取れなくなる、そんな状態を指します。
心のノートのこうした記述のされ方は、受け手を混乱させ、葛藤状態をつくってしまいます。ノートに従って記入し、読み進めるうちに、子ども達は次第に自分を率直に表すことが難しくなっていくでしょう。
心のノートについてはいろいろと批判があるようですが、私自身の感想としては、少なくともこの点において、心の健康のためには使わない方がよい、というのが率直な感想です。
それにしても7億もの予算を「プレゼント」にではなく、教育の質を高めるための根本的なことに使ってほしいものです。そしてプレゼントというのなら、もっとさりげなく、しゃれたものであってほしいなあと・・・。
頭の切り替え、ヒントは数独から
パズルやゲームとか、私は普段ほとんどやりません。嫌いなわけではないのですが、なんとなく…です。
ところがある週末、ふと新聞のパズルコーナーに目がとまり、見るとそこには、「数独」というパズルが載っていました。マスの中に数字が並んでいて、所々空欄になっています。何の気なしに、解いてみることにしました。
1から9までの数字を使って、同じ数字が隣り合わないように縦横のマス目を埋めていくパズルです。難易度の低いものから高度なものまで、解き方もいろいろあるみたいですが、詳しくは知りません。
とにかく、その時のことがきっかけになり、それ以来、たまに週末の新聞で数独を楽しんでいます。
簡単に解けるとスッキリします。…ミニ達成感!
簡単に解けないときは解けないで、「よし解いてやろう」と挑戦のしがいがあります。…さらに達成感!
「別にこれが解けないからって、どうっていうことないのになあ。それに解けたからといっても、どっていうこともないんだけど…。」な~んて心にブツブツ言いながら解いています。
意味もないことでもやりたいからやっている、人生ってそんなもんさーと。
ところで、数独をやっていて気づいたことが一つあります。数独はじっくり考えるよりヒラメキの部分が結構大きいみたいです。じっくり考えすぎると泥沼にはまります。いや、考えてはいけないのかも。考えずに、順序よく理詰めで行くとスッキリ入るといったほうがいいのかな。
では、そんな時どうするか。
解決策は、行き詰まったら視点を変える、それでダメならいったん中断して離れる。別のこと(仕事や家事や、出かけるとか)をしてからまた戻ってくると、今度はパッと解答が見つかることがあります。あんなに考えてわからなかったのに、今度は一瞬で解答が見つかるのです。ホントに不思議。
「視点を変える」
それも難しくなったら、
「いったんそこから離れる」
このことは、私たちの日常の思考や行動にもヒントになるのでは?っと、私としてはちょっとした「発見」の気分でした。
私たちは、行き詰まったとき、「もっとがんばれば、なんとか突破できるだろう、とさらにがんばる。それでもうまくいかないとガンバリが足りないからだと思い、もっとがんばる。それでもうまくいかないとだんだん息切れがしてきて、絶望的な気分になったり、自分に力が足りないせいだという誤った認識に陥ってしまう。そして次第に挑戦する気も失せてしまう。…なんていうことを日常やってしまっている気がするのです。
ひたすら疲れて徒労感だけ残って…。
そんなとき「視点を変える」「いったんそこから離れる」のは、けっこう有効な手段ではないかと思ったわけです。
そんな気づきももらえた数独は、頭の切り替え練習にはもってこいかも。数独の本を買うほど熱心ではないけれど、週末の新聞のパズルは、今しばらくお楽しみの時間になりそうです。
二人がけシートに一人ずつ
週に二回、大学の学生相談室を担当しています。大学へは最寄り駅から教職員用バスが出ますが、時間帯によっては学生達と同じスクールバスを利用することもあります。
そんな時、以前からとても不思議だったのは、学生達は二人がけのシートに一人ずつしか座らないということ。もちろん、ふだんから会話している(と思われる)友人同士の時は、二人がけに隣り合って座り、おしゃべりしていますが、二人がけのシートに座っているのが、日頃話したことのある相手でないと、空いていても座らないみたいなのです。
ギッシリ混んでいても、席は一人分ずつ空いている、なんてこともたびたびです。
もちろんたまに、そうでない学生もいますが、大半は二人がけシートに一人ずつ座っています。
ある時、顔なじみの学生達に、
「こういうの、なんかヘンじゃない?」と聞いてみると、
「僕もそう思います。」
「僕は気にせず座っちゃいますよ。」
と、彼らからはキッパリした返事が返ってきて、ホッとしたことがあります。「ヘン」だと思っていたのは私だけじゃなかったと。(ちなみにここのキャンパスでは90パーセント以上が男子学生です)
先日、いつものように大学に向かうバスに乗り込んだときのこと。
私が座ると、すぐ前の席に一人男子学生が座りました。その日車内はすいていて、二人がけに一人ずつが座った後、数人が立っている状態でした。
そこへ一人の女子学生が乗ってきて、後方の空席をサッと確かめた後、私の前の空いた席に何のためらいもなく座りました。男子学生の隣りだったので、友達同士かと思ったのですが、そうではなかったようです。大学までの10分間、二人の間に会話はなく、女子学生も、隣の席の男子学生に格別注意を払うでもなく、そのまま降りて行きましたから・・・。
たったそれだけのことですが、私の目にはなぜか新鮮で、気持ちよい光景として映りました。
何が言いたいのかと言うと、男子学生の隣りに女子学生がサッと座ったことが珍しく、そして頼もしい感じがしたのです。それまで、男子学生達が、隣り合ったシートになかなか座らないのを、不思議でもあり、ナーバスで過剰な振る舞いのように思っていたものですから・・・。
もちろん、女子学生の行動は、ごく自然で当たり前のことなんですけど、ふだんそういう光景を目にしていなかったので、さわやかで溌剌とした印象を受けました。バスを降りる彼女の背中を見送りつつ、「どんな人かなあ?話してみたいなあ。」と、一瞬興味を持ったくらいです。
一方で、多くの学生達はものすごく人間(友人)関係に気を遣っているんだなあと、気の毒な気さえします。これは、うちの大学だけのことなのでしょうか。むしろこの大学に限らず、大なり小なり、若い人達の中に人間関係に過剰に反応してしまう傾向があるということではないかとみているのですが…。彼らは窮屈な思いをしているように見えます。
「みんな、もっと気楽にしていていいんだよ!そんなに壁を作らないで、もっと人を信頼しあおうよ。」と言ってあげたい気がします。本当は彼らだって、そう願っているに違いないし、そうなれるように後押ししたり、援助するのが私の仕事ですし、・・・・何とか力になりたいものです。
こんな送迎バスでの往復ですが、私にとっては、いささかありがたいこともあるんですよ。・・・それは、どんなに混んだバスでもたいていは座れる=二人がけのシートは空いていることが多いのですからね。「失礼!」とかき分けていき、二人がけの空いた席に座ることができます。果たして、喜んでいいのでしょうか?(^^;;;
心の悩みにバンソウコウ
私は週に二回、大学の学生相談室で相談員をお引き受けしています。
最近つくづく思うことは、学生達は大なり小なり、大学に来るまでに、人間関係やら社会の軋轢やらでずいぶん傷ついて来ているんだなあということです。
自分に自信がなかったり、対人関係にとまどっている学生達も多いです。優しくて真面目な人が多いのです。そして誰もが、当たり前のことですが、自分の人生をどう歩んでいこうかと真剣に悩んでいます。「いまどきの若者は…」とマイナスイメージで一括りにされてしまいがちですが、ちゃんと話を聴いてみると、それぞれにそうならざるを得ない理由があるのも確かです。
一見、何ごともなく、気楽に学生生活を送っているように見える学生達が、話を聴いてみると実は深刻な悩みを抱えていたりします。それらは主にコミュニケーションの問題なので、表れ方はさまざまですが、形を変えて大なり小なり、多くの学生達に共通する課題となっているのだろうなあと想像します。
よく事件があると「普通の中学生がキレた」みたいな言い方がされますが、おとなが「普通」だと思って見過ごしている一人ひとりの中に、深刻な悩みが潜んでいるのが現実でしょう。第一「普通」って何でしょうか?「普通」という言葉でくくってしまうと見えなくなる一人ひとり。そこにこそ、おとなが目を向けなくてはいけない部分ではないでしょうか。そのことを子どもや若者達が身体を張って訴えているのかもしれません。
それらの問題は10代後半から20代といった、子ども時代の総仕上げともいえる時期に噴出してきます。大学はちょうどその時期に当たりますし、。そして大学の場合なら、それは社会に出る前の最後のチャンスかもしれません。そう考えると、学生相談室の責任は重大で、その責任の重さに、一瞬たじろいでしまうほどです。
が、そうも言っていられません。たとえ学生相談でのカウンセリングが、手術に対するバンソウコウや包帯くらいの役目しかなかったとしても、包帯を巻きに行かないわけにはいきません。たとえ一時の包帯でも、それがあることで苦境から脱出できる学生達がいるのならね。
だって若い人たちの生命力はすごいのです。ひとたび気づくとグングン元気になっていきますから…。こちらも励まされます。
君の人生、好きなように生きていいんだよ。やりたいことをやってみたら。とオバサンがハッパを掛けると、彼らの目がキラキラとし始めます。本当に純粋なんです、みんな!それが「バンソウコウ」を貼る私の、原動力になっているのも確かなようです。
久しぶりの瞑想会…自分を「見る」
終わって外に出ると、昼間の暑さが残るものの風はさわやか。夕方5時と言っても今は明るいですね。土曜の夕方だからか、道行く人も何となくのんびりしていて街がゆったり感じられます。
瞑想会の後のこのリフレッシュした自分をいつも感じられたらいいと思うのだけれど、すぐにいつものバタバタとした日常にもどっってしまうのですよね。
とはいえ、ふだん「自分を見る」ことなんてまずないので、とても貴重な時間になっています。
瞑想会では毎回、「自分を見る」ということをします。いろんな方法で。
この場合、「見る」のは、反省したり、評価したりということじゃなくて、ただ「見る」ということ。
良いとか悪いとかじゃなくて「見る」だけ、なんです。
ちょうどお母さんが見ていてくれると子どもは安心して遊んでいられるのに似ています。自分で自分を見てあげることで、安心して自分が自分でいられるということ。
何だかわかんないなあ、雲をつかむような話だ、って思われますか?
う~ん、そうかも…。
もし機会があったら、ぜひ一度体験してみてくださいね。実感をつかんでいただけることと思います。